尚人と結月
尚人と結月
時計の針が時を刻むたび、室内の静けさが深まっていく。
守られていた。
勇が一番大切にしているものを、そんなくだらないことに使わせてしまって、しかもそれを結月は今まで知らずに生きてきた。
あまりにショックで、背もたれに沈みこんだ体を起こすことができなかった。
テーブルをはさんだ向かいに座った尚人は、天板に視線を落としたまま動かない。話す間もずっと、結月と目を合わせなかった。
「結月が調査を始めてから、ずっと不安だった。結月がSDカードのことにたどり着くんじゃないかって」
尚人は結局、SDカードを処分することができなかった。またこれがだれかの手に渡る可能性を考えると、怖くて手放せなかったのだ。初期化した上で燃やしたり、粉々に切り刻むことも考えたが、それでも復元されたら? と不安は尽きず、結局手元に残しておくのが一番安心できると判断した。
「週刊誌が発売される二、三週間前に勇から突然、電話があったんだ。SDカードはどうしたって。ずっとしまってあるって答えたら、そのまましまっとけって言われた」
SDカードは今の部屋に引っ越してきてから、他の荷物と一緒にダンボールにまとめてあった。クローゼットの上の方にあって、尚人のものしか入っていないから、結月も触れたことのない箱だ。
「なにがあったのかは教えてくれなかった。けど、少なくともなにも知らない僕が持ってるよりは役に立つと思って、SDカードを勇に送った。どうつながるのかはわからないけど、あの報道と関係あるんでしょ?」
どうやら尚人はSDカードの中で勇が『霧中』を弾いていることには気づいていないらしい。もしかしたら、九年前に一度見たきりなのかもしれない。
「でも、どうしてあいつがうちに来たの? 本当に結月がSDカードを持ってるの?」
結月はうなずき、これまでのことをざっと説明した。
尚人はテーブルの上で頭を抱えうずくまり、うなるようにつぶやく。
「あいつ、やっぱりコピーをとってたんだ」
他人を脅迫するような人間が、たった一曲と交換しただけで、おいしいネタをみすみす手放すはずがない。尚人もその可能性には気づいていたが、考えないようにしていたらしい。
とにかく、江口が持っていた映像と、勇が送ってきたSDカードの出どころはわかった。
「でも、まだ勇の目的がわからないの。私にSDカードを送ってきたのも、報道になにも言い返さないのも、なにか理由があるんじゃないかと思って調べてたんだけど」
「調べるまでもないだろ」
なにをわかりきったことを、という顔で尚人は続ける。
「結月を守るためさ。他になにがあるんだよ」
尚人の言いたいことはわかるし、最初は結月も同じことを考えた。しかし結月は即座に首を振る。
「これは、そんな単純な話じゃないよ」
確かに九年前はそうだったかもしれない。でも今は状況が違う。無名だったあのころの勇ではない。それに結月を守りたいのなら、九年前と同様に、結月を蚊帳の外にして真実から遠ざけたはずだ。わざわざSDカードを送ってきたのには、きっとなにか別の目的がある。
「どうかな。電話の口ぶりじゃ、どうしていいかわからないからとりあえず姿を隠すって感じだったよ」
どこか小馬鹿にしたような尚人のもの言いにカッとなった頭が、その言葉の意味に気づいた瞬間、すっと冷める。
「待って、勇が消えること知ってたの?」
尚人の顔が強張り、黙りこむ。結月はじれったい気持ちで質問を重ねる。
「今どこにいるか知ってるの?」
尚人は失言した唇を引き絞り、目をそらす。
結月は矢継ぎ早に問い詰めたい気持ちをぐっとこらえ、待った。答えるまでここを動くつもりはないとわかったのか、尚人はやがて観念したように小さく息をついた。
「どこかは知らない。ただ、知り合いの別荘に行くってだけ」
尚人は本当にそれ以上の心当たりがないようだった。だが、結月にはある。さんざん手探りで歩き回ってきた迷路に突如、一直線に道がひらけたような感覚だ。
これまで感じたことのない強い怒りが、体の底から静かに湧き上がってくる。
結月がこの二数間で、いったい何回勇に連絡したかわからない。事情がわからないから自分で調べるしかなかった。居場所がわからないから、勇が帰ってこらえるように無実を証明する手立てを考えて奔走してきた。それを一番近くで見ていたのに。
「知ってて黙ってたの」
言ってはいけない。これは口に出してはいけない。理性がいくら叫んでも、止められない。
「信じらんない。勇が大変なめにあってるのに、私がこんなに必死に調べ回ってるのに、全部知ってて、黙って見てたの? なんでそんなことができるの!」
「だって、言ったら結月は行っちゃうでしょ」
尚人が静かに言葉を遮る。それから、諦めと寂しさの入り混じった笑みを結月に向ける。
「結月はさ、勇のことを考え始めると、他のことが全部わきに追いやられちゃうんだ」
反射的に言い返そうと吸った息が、吐き出せなくなる。
恥ずかしいくらいに、的を射ていた。新たに出てきた勇の過去にばかり気をとられ、同じだけの期間、秘密をかかえてきた尚人の存在が、完全に頭から抜け落ちていた。視界に入っているのに、尚人の顔に焦点が合わせられない。
「結月はさ、どうして僕と一緒にいるの?」
目の前にいるのに、今まさに会話しているのにないがしろにされたこと、それが無意識であることに、尚人は傷ついている。それをカバーできる答えを必死に探すが、焦るほど思考は空回りしていく。
「僕は結月のことがずっと好きだったから。勇と結月の間にあるものとは別の形で、深い関係を作っていけたらいいなって思ってた」
尚人は結月の答えを待たずに話し続ける。
「でもつき合う時間が長くなるほど勇には勝てないって実感する。一緒に暮らしていたって、結月の一番は僕じゃなかった」
それまで淡々と話していた尚人の声が、言葉のはしで震え始める。
――勇が結婚したのは結月じゃない!
――いい加減、気づいてよ。勇の一番は結月じゃない。
先日の尚人の言葉が、今さら結月の胸を刺す。尚人はただ、結月に自分の方を向いてほしかっただけだったのだ。
「勇のことを悪く言ったら結月に嫌われると思ったから、変わらないふりをしてきたけど、本当はもう、前みたいに応援できない。結月が勇の曲を聞いてるだけで、たまらなくなるんだ」
しゃべることで自分自身の心を切りつけていくみたいに、痛切な声だった。
なにか言わなければと思うのに、ショックで言葉が出てこない。ブルーAの最後のドーム公演で結月と一緒に手を振り上げて歌っていた尚人が、そんなことを思っていたなんて。
尚人のせいであの映像が江口の手渡ってしまったことや、勇の大切な曲を江口に盗られてしまったと知れば、結月に捨てられるかもしれない。だから言えなかった。不安と罪悪感をだれにも話せないまま、かかえ続けてきた。九年間、たったひとりで。一番長くそばにいたはずの結月は、そんなこと、これっぽっちも気づかなかった。
「ふたりに恋愛感情がないのはわかってるよ。だから余計に嫌なんだ。僕は所詮、友達以下の存在だって、見せつけられてるみたいで」
あふれてくる感情に息を乱しながらも、尚人は必死に言葉を絞り出す。
「つらいんだ」
顔を伏せる尚人が、子どもみたいに小さく見える。
勇は友達で、尚人は恋人。ふたりはまったく別の存在で、どちらも大切だ。そう思っていた。だが実際は、尚人に勇のかわりをさせていたのではないか。お互いになにも差し出さず、なにも求めず、自然体でいること。信頼し合っていればそれができると思っていたが、実際は尚人の優しさに甘えていただけだったのではないか。尚人からもらうばかりで、自分からはなにも差し出そうとしなかった。それでも尚人は、そんな不均衡も、過去の罪悪感も全部飲みこんで、結月のことを信じてともに生きようと決めた。それなのに、その覚悟を知らない結月はいつまでも腹を決めなかった。その中途半端な姿勢が、尚人を追い詰めていたのかもしれない。
結月は黙ってうなずき、心の中で何度も謝る。とても口には出せなかった。尚人がやっとここまで話してくれたのに、それを「ごめん」のひと言で片づけていいはずがない。といかって過去のことを「もういいよ」と言ってあげられるだけの心の広さもない。今の尚人の心を楽にしてあげられる言葉を、結月はひとつも持っていない。
尚人のことは好きだ。つき合い始めたころは自信がなかったが、今ははっきりとそう思う。でも今この場でそれを口にしても、嘘くさく聞こえてしまう。言える機会はこれまでにいくらでもあった。照れくさくて、もったいぶって、言うべきときでさえ言わずに大事にしまっておいた言葉は、いつの間にかすっかり干からびて中身がすかすかになってしまっていた。
尚人に言わせるだけ言わせて、結月はなにもできない。以前なら伝えきれない感情を、触れることで補おうとした。しかしテーブルの向こう側にいる尚人の手はあまりに遠く、触れたところで今は伝えきれる自信もない。そもそもこれまでだって、きちんと伝わっていたのかどうかわからない。
六年も一緒にいるからと、心のどこかで安心していた。一緒に積み上げてきた時間がふたりの関係を支えてくれるに違いないと。しかし実際には、ただ漫然とすごしているうちに積もっただけで、支えるどころか吹けば飛ぶようなもろいものだった。そんなことにさえ気づけないくらいに、お互いの存在になれきっていた。きちんと向き合ってこなかったから、ここまでこじれていたことにすら、気づかなかった。
はっきりさせる勇気がなかっただけで、ふたりはとっくに終わっていたのだ。
その証拠に、黙っている結月に、尚人はもうなにも求めてこない。
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