2
尚人
カーテンのすき間から、朝日が一筋差しこんできた。
仕事部屋の机でパソコンに向かっていた結月は、大きくため息をつく。ひと晩ねばって、半ページしか書けなかった。こんなことなら無理せず眠ればよかった。その程度の判断力さえ働かなくなっている。
島村の言葉を消化できるようになるまで二日かかった。それを踏まえてどうすればいいのかは、さらに一日経った今もわからずにいる。
これまで、結月が書く意味など考えたことはなかった。
そもそも、それまでと作風を変えて少女向けのレーベルの新人賞に応募したのは結月の意志だ。自分の得意とするジャンルではないことはわかっていたが、ずっと憧れ続けていた「小説家」になれるチャンスを手の平に載せられて、指を閉じずにいることなどできなかった。小説家として活動していれば、いつか好きなものを書かせてくれる編集者や、他の出版社と出会う可能性だってゼロじゃない。少なくとも経験は無駄にはならないはずだ、と腹を決めてウィンディからデビューした。書かせてもらえるなら、なんでも書いてきた。仕事を途絶えさせないため、また使ってもらうため、依頼主の意向や願望をくみとろうとしてきたのも事実だ。もしかしたらそれが、小説の内容にも出てしまっているのかもしれない。
結月はウィンディで年に一、二本の小説を書き下ろす他、ウィンディ系列のウェブマガジンに掲載する記事などのライティングの依頼も受けている。小説以外の仕事はほとんど自分の名前が出ないが、受けられる限りすべて受けている。だからぎりぎりの時間での執筆にはなれているはずだった。だがこの数日、集中力はどこかへ行ったきり帰ってこない。パソコンを起動しても視線は文字の上をつるつる滑るばかりだ。
加えて、ふとした瞬間、あの映像が脳裏をよぎってしまう。映像と必ずセットでついてくるのが、江口の顔だ。そうなったら、もう仕事なんか手につかない。
体を伸ばすと、背骨や肩甲骨がパキパキ鳴る。座っているだけなのに、体だけはしっかり疲れている。立ち上がり、ひと思いにカーテンを開いた。固くまぶたを閉じても光が目に突き刺さってくる。ゆうべのコーヒーが底で乾いているマグカップを持って仕事部屋を出た。
ダニングで朝食を食べていた尚人が顔を上げる。
「おはよう、ってもしかして寝てないの?」
「うん」
言葉にされると、どっと疲労感がのしかかってくる。
徹夜自体は珍しくない。筆がのっているときや、あとちょっとで終わるというときは、夜通し書き続け、日が昇るとベッドに倒れこむこともある。ゆうべも、書けそうな予感だけはあったのだ。しかし転がっていたホースを持ち上げたように、最初にチョロチョロッと出たきり、あとはいくら絞り出そうとしてもろくな文章が湧いてこなかった。
テーブルに置いてあるコーヒーメーカーに、ランプが灯っていた。新しいマグカップに、ステンレスのサーバーからコーヒーを注ぐと、ふわっと湯気が上がる。余裕がある朝は、尚人は多めにコーヒーをいれておいてくれる。
座ってコーヒーを飲みながら新聞を開いたが、ちっとも頭に入ってこない。尚人が皿に広がった目玉焼きの黄身をトーストで丁寧に拭い、口に運ぶのを見ていても、まったく食欲は起きない。眠くはないが、頭と体がぼんやりしている。
やけにゆっくり食事をとっているな、と思ったところで、今日が土曜日だと気づいた。これ幸いと結月は尚人に尋ねる。
「ねえ、尚人が勇とルームシェアしてたのって、江口さんのあとだったよね?」
言ってしまってから、なんで「さん」なんかつけたんだろう、と自己嫌悪する。
尚人はゆっくり時間をかけてトーストを飲みこんでから答える。
「なんかあの人、突然出てったんだって。それで勇が来月の家賃どうしようって困ってたから、じゃあ僕が住んでいい? って」
「なんで出てったの?」
「さあ。勇もよくわからないみたいだったけど」
「いつごろのこと?」
「なんでそんなこと聞くの?」
視線を上げた尚人が眉を寄せる。
結月は慌てて言い訳を考える。突然こんな古い話を聞いたら、不思議に思うのは当たり前だ。しかし、勇の手紙の「だれにも知られないように」の中には、おそらく尚人も入っている。でなければわざわざペンネームを宛名にしたりしないはずだ。先日の江口とのこともあるし、尚人には悪いが、心配をかけないためにも多くは語らないでおく。
「その時期が一番、勇とあの人が近かったはずでしょ。そのときのこと、ちょっと調べてみようと思って」
尚人にならって「あの人」と言ってみたが、予想以上にしっくりきた。
尚人はふうん、とうなずいて食事を再開した。どうやら納得してくれたようだ。記憶をひっくり返すような間を置いて、尚人が答える。
「確か大学二年の秋から一緒に住み始めたと思う」
となると二〇一五年だ。勇と尚人がルームシェアを始めた数ヶ月後にあの映像が撮影されたことになる。結月の記憶とも一致する。
「あの人とトラブルとかなかった?」
尚人は首をひねり、しばらく考えこむ。そう都合良く情報が出てくるわけがないかと諦めかけたころ、尚人が「あーそういえば」と嫌なことを思い出したような顔をした。
「出てってからもときどき、うちに来てたんだよね」
「勇と仲良かったもんね」
「仲がいいっていうか、勇にとり憑いてる感じ。勇は勇であの人を信頼してるから拒まないし。ひどかったよ。出てったくせに鍵は持っててさ、勝手に入ってくるんだよ。終電なくなったときとか、携帯充電しに来たりとか、シャワー浴びに来たりとか、腹減ったときとか」
嫌いな上司のグチを言うときの口調で、尚人は過去の江口の不満を次々に話す。勇とも尚人とも面識のない人を招いてライブの打ち上げを開催した挙げ句、ケンカをして部屋をめちゃくちゃにしたなど、どれも確かにひどい話だが、盗作につながりそうなことはなかった。それにしても、江口のことを知るほど、どうして勇がこんな男を慕うのかわからなくなっていく。
あの映像も、もしかしたら初めから江口が勇たちの部屋に仕掛けたのかもしれない。鍵を持っていたのなら十分に可能だ。例えば、勇の曲を盗もうとしたとか。
しかし、もしそうだとすれば江口の思惑通りになったことになる。なのになぜすぐに使わなかったのだろうか。先に自分の曲として発表するとか、ブルーAの人気が高い時期に「盗撮疑惑」で勇を脅迫するなど、使いどきはいくらでもあったのに。
「それを調べてどうするの?」
考えこんでいた結月に、尚人が尋ねる。
「わからない。でもとにかく、じっとしてられないの」
こんなことを調べて、果たして役に立つかどうかも不明だ。結月がどんなに必死に情報をかき集めたって、マスコミの取材力には到底適わない。だけど、せめて勇の身になにが起きているのかをちゃんと知りたい。そのためには、まずは自分の手に届く範囲から始めるのが一番だと思ったのだ。
「気持ちはわかるけど、僕たちにできることはないよ。それにさ」
尚人は言葉を探すように一瞬視線を泳がせる。
「あの人には、関わらない方がいいよ」
尚人の「あの人」には、嫌悪とかすかな恐怖が混ざっていた。
そんなことわかっている。できるなら結月だってあんな男とは関わりたくない。けれど、もう手遅れだ。江口に会って金を渡してしまったし、勇から預かったSDカードの中身を見てしまった。
もう結月は当事者なのだ。
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