8,登校カオス 前
寮の玄関。
普通の学生にとっては一日の始まり、最も穏やかで何気ない時間――のはずだ。
けれど、俺にとってはカオスの鐘の音である。
■
「ない、ない!わたしの靴下が消えたぁ!」
視乗が白衣をひるがえし、廊下を膝で滑りながらマットの下を探っている。
玄関のドア枠に頭をぶつけ、「いったぁ!」と転がる姿はまるでコント。
「なぁ視乗……」
俺はゆっくり視線を落とす。
片足は真っ赤、片足は鮮やかな青。――履いてんじゃん。
「それ、最初から履いてるだろ!」
「これは違うの!左右で色を変えるのが本来のデザインなの!」
「なら消えてねぇよ!」
視乗はレンチを振り回しながら、勝ち誇った顔で胸を張った。
「造形の基本は非対称!対称なんて退屈の象徴!」
「俺は退屈でいいんだよ!安定を愛したい!」
彩音がくすくす笑う。
「でも、なんだか可愛いよ。視乗ちゃんらしくて」
「ほら見て!理解者がいる!」
いやいや、信号機カラーが可愛いって評価、どう考えても偏ってる。
■
咲良は騒ぎもよそに、白いランチボックスを両腕に抱えて立っていた。
「今日のお昼はアールグレイを基調に。柑橘の香りを引き立てるために、揚げ物中心にしました」
蓋から漂う香りだけで、なんとなく胃袋をつかまれる。
「まだ朝だぞ……」
俺が思わず呟くと、咲良は静かに微笑む。
「紅茶は時間で香りが変わります。だから料理も同じ。仕込みの段階から香りを合わせるんです」
視乗がぴょこんと顔を出す。
「でもアールグレイってカフェイン強めでしょ?授業中に飲んだら、夜眠れなくなるのよね?」
「授業中に寝る前提で話さないでください」
咲良がピシャリ。視乗は「ぐぬぬ」と悔しそうにレンチで床をつついた。
「でもでも、茶葉を水出しにするとカフェインが減るのよ。知ってた?」
「知ってますよ。けれど水出しアールグレイは風味が薄い。香りの立ち方を考えると朝食には不向きです」
「む、無駄に論破された……」
勝ち誇る咲良と、肩を落とす視乗。朝から紅茶で討論バトルするな。
■
「……通学中の襲撃に備えろ」
暁の声が低く響いた。肩に長刀、腰には小太刀。完全に二刀流だ。
「おい暁!?今日は二本!?」
「護衛強化」
「護衛なんていらねぇよ!ここは戦国時代か!?」
「……油断は死」
お前、口癖それしかないのか。
彩音が心配そうに声をかける。
「暁ちゃん、刃は絶対抜かないでね。きっと風に反射したら通報されちゃうから」
「心得た」
カチリと刃を収める暁。いや、鞘に収めても二本持ち歩いてる時点で捕まるわ。
■
「シュコー……登校訓練開始にゃ……」
廊下の奥、仁王立ちするのは白い宇宙服。ここあ学園長だ。
「……学園長、なにしてるんですか」
「今日は引率役にゃ!宇宙服は正装にゃ!」
「正装の意味を壊すな!」
「通学は宇宙遊泳と同じ。油断すればブラックホールに吸い込まれるにゃ!」
「近所にブラックホールは存在しねぇ!」
ここあは親指を立てて満足げ。シュコー……という呼吸音が妙にホラーだ。
■
「葵くん、今日も一緒に行こうね!」
彩音がにっこり笑い、肩と頭に小鳥三羽を乗せていた。
「……お前、完全に鳥使いじゃん」
「えへへ、今朝は“合唱隊”なんだ」
彼女がハミングすると、小鳥たちがチュンチュンと揃ってハモる。
――普通の高校生は、朝から合唱団を連れて登校しない。
視乗が羨ましそうに呟く。
「私も何か引き連れたい……掃除ロボとか」
「やめろ。絶対暴走する」
■
「視乗、それスリッパだぞ」
「え!?……ま、まぁこのままでも――」
「学校にスリッパで行くな!」
「暁、刀を下駄箱に入れるな!」
「……収納」
「物騒な収納すんな!」
咲良はストールを整えながら、相変わらず上品に言った。
「アールグレイの香りは日差しで広がります。きっと通学路も爽やかになりますよ」
「そんな効能はない!」
ここあがグローブを掲げる。
「紫外線も防げる宇宙服、万能にゃ!」
「だから大気圏突破しねぇ!」
■
結局、準備だけで二十分。
ようやく玄関のドアを開ける。
朝日が差し込み、街路樹がきらめく。
だが近所の奥さんが犬を散歩させながら、俺たちを二度見した。
宇宙服、二刀流、信号機靴下、小鳥三羽、紅茶抱えたお嬢様。
どう見ても怪しい集団だ。
「……やっぱり俺の青春の朝は、もう死んでる」
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