8,登校カオス 前

 寮の玄関。

 普通の学生にとっては一日の始まり、最も穏やかで何気ない時間――のはずだ。

 けれど、俺にとってはカオスの鐘の音である。



 「ない、ない!わたしの靴下が消えたぁ!」

 視乗が白衣をひるがえし、廊下を膝で滑りながらマットの下を探っている。

 玄関のドア枠に頭をぶつけ、「いったぁ!」と転がる姿はまるでコント。


 「なぁ視乗……」

 俺はゆっくり視線を落とす。

 片足は真っ赤、片足は鮮やかな青。――履いてんじゃん。


 「それ、最初から履いてるだろ!」

 「これは違うの!左右で色を変えるのが本来のデザインなの!」

 「なら消えてねぇよ!」


 視乗はレンチを振り回しながら、勝ち誇った顔で胸を張った。

 「造形の基本は非対称!対称なんて退屈の象徴!」

 「俺は退屈でいいんだよ!安定を愛したい!」


 彩音がくすくす笑う。

 「でも、なんだか可愛いよ。視乗ちゃんらしくて」

 「ほら見て!理解者がいる!」

 いやいや、信号機カラーが可愛いって評価、どう考えても偏ってる。



 咲良は騒ぎもよそに、白いランチボックスを両腕に抱えて立っていた。

 「今日のお昼はアールグレイを基調に。柑橘の香りを引き立てるために、揚げ物中心にしました」

 蓋から漂う香りだけで、なんとなく胃袋をつかまれる。


 「まだ朝だぞ……」

 俺が思わず呟くと、咲良は静かに微笑む。

 「紅茶は時間で香りが変わります。だから料理も同じ。仕込みの段階から香りを合わせるんです」


 視乗がぴょこんと顔を出す。

 「でもアールグレイってカフェイン強めでしょ?授業中に飲んだら、夜眠れなくなるのよね?」

 「授業中に寝る前提で話さないでください」

 咲良がピシャリ。視乗は「ぐぬぬ」と悔しそうにレンチで床をつついた。


 「でもでも、茶葉を水出しにするとカフェインが減るのよ。知ってた?」

 「知ってますよ。けれど水出しアールグレイは風味が薄い。香りの立ち方を考えると朝食には不向きです」

 「む、無駄に論破された……」

 勝ち誇る咲良と、肩を落とす視乗。朝から紅茶で討論バトルするな。



 「……通学中の襲撃に備えろ」

 暁の声が低く響いた。肩に長刀、腰には小太刀。完全に二刀流だ。


 「おい暁!?今日は二本!?」

 「護衛強化」

 「護衛なんていらねぇよ!ここは戦国時代か!?」

 「……油断は死」

 お前、口癖それしかないのか。


 彩音が心配そうに声をかける。

 「暁ちゃん、刃は絶対抜かないでね。きっと風に反射したら通報されちゃうから」

 「心得た」

 カチリと刃を収める暁。いや、鞘に収めても二本持ち歩いてる時点で捕まるわ。



 「シュコー……登校訓練開始にゃ……」

 廊下の奥、仁王立ちするのは白い宇宙服。ここあ学園長だ。


 「……学園長、なにしてるんですか」

 「今日は引率役にゃ!宇宙服は正装にゃ!」

 「正装の意味を壊すな!」

 「通学は宇宙遊泳と同じ。油断すればブラックホールに吸い込まれるにゃ!」

 「近所にブラックホールは存在しねぇ!」


 ここあは親指を立てて満足げ。シュコー……という呼吸音が妙にホラーだ。



 「葵くん、今日も一緒に行こうね!」

 彩音がにっこり笑い、肩と頭に小鳥三羽を乗せていた。

 「……お前、完全に鳥使いじゃん」

 「えへへ、今朝は“合唱隊”なんだ」

 彼女がハミングすると、小鳥たちがチュンチュンと揃ってハモる。

 ――普通の高校生は、朝から合唱団を連れて登校しない。


 視乗が羨ましそうに呟く。

 「私も何か引き連れたい……掃除ロボとか」

 「やめろ。絶対暴走する」



 「視乗、それスリッパだぞ」

 「え!?……ま、まぁこのままでも――」

 「学校にスリッパで行くな!」


 「暁、刀を下駄箱に入れるな!」

 「……収納」

 「物騒な収納すんな!」


 咲良はストールを整えながら、相変わらず上品に言った。

 「アールグレイの香りは日差しで広がります。きっと通学路も爽やかになりますよ」

 「そんな効能はない!」


 ここあがグローブを掲げる。

 「紫外線も防げる宇宙服、万能にゃ!」

 「だから大気圏突破しねぇ!」



 結局、準備だけで二十分。

 ようやく玄関のドアを開ける。


 朝日が差し込み、街路樹がきらめく。

 だが近所の奥さんが犬を散歩させながら、俺たちを二度見した。


 宇宙服、二刀流、信号機靴下、小鳥三羽、紅茶抱えたお嬢様。

 どう見ても怪しい集団だ。


 「……やっぱり俺の青春の朝は、もう死んでる」

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