第三章 :18 無重力フロアのボス戦

階段の踊り場を越えた瞬間、足が床から剥がれた。

ふわっ。

世界が青白い水槽みたいになる。冷凍棚、商品、霜の粉——全部が浮く。吐いた息だけが糸みたいに真っ直ぐ伸びる。


「無重力……来た」ゆうじが反射板を抱え、指先だけで姿勢を整える。

「はぐれない」ゆめが短く言い、トングで私たちの腕をツンと繋ぐ。

白波が結束バンドの束を解き、素早く棚と棚を端で結んだ。カチ、カチ。

「命綱。引け。離すな」

倉科ジンがニヤっとして、スリングで細いラインを飛ばし、遠くのフックに絡める。「こういうのは得意」


——ブゥウウゥゥン。

低い唸りが腹に来た。

通路の奥、凍った柱の間に、何かが開く。真空パックの口。

透明な膜が重なって翼みたいになり、中心で冷風が渦を巻く。


ボス《真空ラッピング・セラフィム》。

ラップの翼がはためくたび、空気が吸われ、物が包まれる。

パシャ……パシャ……。

浮かぶペットボトルが瞬時に巻かれ、ギュウと締め上げられて、ぱん、と凍る。


《酸素低下:深呼吸禁止。短く》

スマホの囁きが、胸の中へ落ちる。

たかしの画面だけ、バーが振れる。会心/不発。真ん中がない。

「俺、行く。いける……たぶん」

ゆめが目だけで合図する。「カウントは私が持つ。勝手に離れない」


セラフィムの翼が広がった。

透明の刃。ヒュシュ。

白波の結束ネットがばちばちと音を立て、一本ちぎれた。

「補修!」

松永がタブレットで回遊風を示す。「右上二メートル、渦の外縁。そこで止まれば被害が減る」

ゆうじが反射板を回し、光の道を作る。センサーがわずかに逸れる。


「いまだ」鬼頭がラムネ瓶を振り抜いた。パアン。泡が銀の玉になって散り、ラップに貼りつく。

薄膜がたわむ。キイ……。

チャンス。

合言葉を飲み込む空気が、喉を撫でた。


「——ご飯、食べ、たの?」

たかしの声は掠れ、小さく、ばらけた。

同期、足りない。

エッグチェーンが中途半端に伸び、透明翼の端を叩いて——滑った。

ズルン。

彼の体が回転する。視界、ぐるぐる。

「わっ、うわ、うわぁぁぁ!?」

命綱がピンと張る。カン、と棚が鳴る。

倉科が笑う。「大丈夫、大丈夫、そういうの嫌いじゃない」


《姿勢制御:膝を抱え、回転停止》

たかしは膝を抱えた。回転が止まり、胃が静かになる。

「もっかい。俺、やる。たぶん、やれる」

ゆめの声。「“たぶん”は置いていけ。吸って二、吐いて四——今」


四人の息が、短く合う。白波も無言で頷き、命綱を手繰る。

セラフィムの中心——冷風コアが、青白く脈打つ。コ、コ、コ。

そこへ行く道は、透明のラップの巣。ひと舐めで巻かれる。


倉科がスリングを弾いた。ピュン。

花火玉が翼の裏に吸われ、遅れてぱちぱちと火花。

「派手で注意逸らし。今は敵じゃないっしょ?」

白波が短く言う。「助かる」


「——せーのじゃない。今」

ゆめの目が合図した。

「たかしご飯食べたの?」

声が重なった。ぴたり、と。

胸の輪郭が熱い。跳ねる。

会心のバーが右端へ走る。

エッグチェーンが弾け、光の輪になる。ヒュドン。


当たる。

……はずだった。

ラップ翼がふっと縮んで、輪が空を切る。

不意の逆風。

「え、ちょ、えええええっ!?」

完全な空振り。体だけ突っ込む。

セラフィムが反射的にラップを伸ばし、たかしの腕を捕まえる。ギュ。

締まる。呼吸が薄くなる。

「たかし!」

ゆめの声。命綱がきしむ。


《窒息回避:顎を引き、片手で隙間》

片手を差し込み、顎を引く。

わずかな隙間。息がひと口だけ入る。ひゅ。

でも、もう一巻き来る。

腕が、痺れる。

「やば——」

視界の端で、倉科ジンが短く舌打ちした。

彼はスリングをやめ、カッターを引き抜く。

「借りる!」

ひと跳び。ラップとラップの間へ。体を細く。

シャッ。

一筋、切れ目を入れた。

拘束が緩む。

「礼はあとでね。利子つけて」


白波の声が重なった。「引け!」

命綱がたかしを棚へ戻す。ガン。痛い。

鬼頭がすぐに抱え、ぐっと体勢を直す。

「一回休め。次で決める」


ゆめの呼吸カウントが落ち着きを戻す。

松永が情報を更新する。「冷風コアの露出は八秒サイクル。いま五秒。次の三秒間が最大露出」

ゆうじが反射板の角度を変える。「コアの眼を眩ませる。角度二十七度でフレア。そこを通せ」


「行ける」

たかしは、胸に手を当てた。心臓、速い。

「俺、行く。——行く」

“たぶん”を口から追い出す。

目が合う。

ゆめが笑わない笑みを、目だけで作る。

白波が命綱を渡す。「この一本、切っていい。戻れないが、前に出られる」

「切る」

刹那。たかしは自分の命綱をナイフで断ち切った。パツン。

鬼頭が息を呑む。が、止めない。


セラフィムが翼を広げる。

冷風コア、露出——三秒。

倉科が花火を右へ投げ、視線を引く。

ゆうじの反射板が白い槍を作る。

松永が「今」と小さく言い、ゆめが合図を重ねる。


「たかしご飯食べたの?」

完璧に重なる。

会心バーが跳ね、限界を超えて右端で火花。

エッグチェーンが音を置き去りにした。

ヒュッ——ドッ。

光の輪がコアに刺さり、渦を逆回転させる。

真空の口がよれる。ラップがばらばらにほどけ、翼がほどけ、銀の海のクラゲみたいに崩れる。


「——終わりや!」鬼頭の一喝。

白波が金属棒を振り、ゆうじの光が刺し、ゆめのトングが芯を打つ。

最後に、たかしがヤケクソで体当たり。

ドカ。

自分でも驚く鈍い手応え。

セラフィムのコアが割れ、青白い息が止まった。


静止。

浮いていた霜片が、ゆっくり降りはじめる。

無重力が戻るまでの一瞬、世界が無音になる。


——ピコン。


――――――――――

【フロアクリア:冷凍・無重力】

報酬:レベル+1

ポイント:3

新項目:同期安定値/体力/攻撃

称号:《ラップ切断者》

――――――――――


たかしのスマホが震えた。

画面の白が、ちょっとだけ派手な花柄に変わる。

文字が、ぐいっと前へ出た。


《あんた、ようやったやん! 飴ちゃんいる? ほなまず手ぇあっため、肩コレここ!》

《ボーナス:会心幅、ちょびっと伸びとるで。失敗したら笑って流し。次が本番や》


……大阪のおばちゃん、来た。

たかしは笑ってしまう。息が白く弾けた。

「ありが——いや、ありがとう!」


倉科が肩をすくめる。「礼は現物でいいよ。あとで交渉しよ」

白波は短く頷き、切った命綱を拾って渡す。「次は切るなよ」

松永はタブレットを閉じる。「合流は維持。次階層の条件は別途提示」

ゆめが近づき、手袋越しに拳をこつん。「行ける」


たかしはうなずく。

強さに不慣れなまま、でも——今は、少しだけ噛み合っている。

アプリの声が背中を押す。

《ほら背ぇ伸ばし。かっこええで》


次の階段が、青白い光の向こうに開いた。

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