第20話 --冬の教室、終業のベルが鳴る前に--

ストーブの熱で、教室の空気がゆるく揺れていた。

冬休み前の最後の登校日。

窓の外は雲が低く垂れこめて、今にも雪が落ちてきそうな灰色の空。


「ねぇ彩、最近ちょっと気が散ってるよね?」

結がプリントを片付けながら、何気ない口調で言った。


「え、そう?」

笑ってごまかすように言うと、隣の翠がすかさず言葉を重ねる。


「最近さ、視線が上のほう行ってる気がする。

 ……学年順位争ってる凛ちゃんとなんか関係あるの?」


心臓が、一瞬だけ止まったような気がした。

ペンを握る指に少しだけ力が入る。


「別に。なんにもないよ」

いつもと変わらない声を出すのに、どうしてこんなに息が苦しいんだろう。


二人は顔を見合わせて「ふーん」と軽く笑った。

けれどその笑いの裏に、少しだけ探るような気配が混じっていた。


ストーブの音と、窓の外の風の音が混ざって、

どうしようもなく冬の終わりを感じさせる。

放課後の光が、教室の床をゆっくりと伸びていく。


──放課後の屋上。

この季節は風が強くて、あの場所には近づくことも少なくなった。

でも、心のどこかで、今でも誰かがそこにいる気がしてしまう。


授業が終わり、終業式の放送が流れた。

担任の先生が「風邪ひくなよ」と言って笑い、クラスのあちこちから笑い声が起きる。

いつもと変わらない年の瀬の光景。

それでも、胸の奥にあるものは静かに疼いていた。


荷物をまとめていると、机の中に小さな白い封筒が入っているのに気づいた。

宛名はない。

けれど、その文字の細い癖を見た瞬間に、誰のものか分かった。


――凛。


手の中で封筒が少し震える。

そっと封を開けると、シンプルな便箋に短い文字が並んでいた。


「冬休みの間、無理に会わなくてもいいよ。

でも、あのネックレスを見たとき、少しでもあたたかくなれたら、それでいい。

来年、また屋上で。」


ほんの数行の文章。

それなのに、胸の奥の凍った部分にゆっくりと灯がともるようだった。


ネックレスに触れる。

指先に感じるのは、あの日もらったスフェーンのやわらかな冷たさ。

凛の声が耳の奥で蘇る。

――永久不変、純粋、絆。


窓の外を見ると、灰色の雲の向こうにほんのわずかな光が差し込んでいた。

まるで冬の空が、少しだけ春の気配を見せたように。


帰り道のことを考える。

結や翠と帰るか、それとも――

けれど、今日はなんとなく一人で帰りたい気分だった。


バッグを肩にかけ、教室を出る。

昇降口の前で、息を吐く。白い息がすぐに空に溶けて消えた。


「来年、また屋上で。」

その言葉が何度も胸の中で繰り返される。


――そして。


同じ頃。


屋上には、ひとりの少女がいた。

綾瀬 凛。


みんなが帰っていく校庭を見下ろしながら、

フェンスにもたれかかって、ページの角が少し折れた文庫本を読んでいた。


そこに、軽い足音が響く。


「……やっぱり、ここにいた」

声の主は黒田 澪だった。

マフラーを少し巻き直しながら、凛の隣に立つ。


「また一人で本読んでるの? 寒いのに」


「……静かな方がいいから」

凛はページをめくりながら短く答える。


「ねぇ、終業式の日に屋上って……やっぱり“誰か”のこと、待ってる?」

澪の声には、冗談めいた響きと、ほんの少しの探る色が混じっていた。


凛は小さく笑った。

けれど、その笑みはどこか痛みに似ていた。


「……そうかもしれないし、違うかもしれない」


「ふーん、らしいね。凛って、分かりにくいもん」

澪はフェンスに背を預け、夕陽に染まる空を見上げた。


「でも、寒いから風邪ひく前に帰りなよ。

 凛が倒れたら、たぶん困る人いるよ」


その言葉に、凛の手がほんの少し止まる。

ページを閉じて、遠くを見つめた。


「……そうだね」


冷たい風が頬を撫でる。

その中で、凛の表情は少しだけ緩んだ。


「また、来年」


誰に聞かせるでもなく、凛は小さく呟いた。

澪はその声を聞いた気がしたが、何も言わなかった。

ただ一緒に、沈みかける冬の空を見つめていた。


――夕陽が、校舎の窓を淡く照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る