草食系大学生、覚醒の夜

舞夢宜人

第1話 深夜のゲームと日常の終わり


 金曜の深夜。カレンダーの上では既に土曜日へと針が進んでいるであろう時間。築年数だけは無駄に重ねた木造アパートの二階、俺の城である六畳一間は、しん、と静まり返っていた。壁の薄さが売りのこの安アパートでは、隣人の咳払い一つ、床を軋ませる微かな音さえも鼓膜に届くのが常だというのに、今夜に限っては不気味なほどに物音一つしない。まるで世界に俺一人だけが取り残されてしまったかのような、深い孤独と、そして倒錯的な安らぎに満ちた静寂だった。


 部屋の明かりは落としてある。その暗闇を唯一切り裂いているのは、部屋の隅に鎮座する二十七インチのゲーミングモニターが放つ、目まぐるしく明滅を繰り返す人工的な光だけだ。画面の中では、ファンタジーとSFがごちゃ混ぜになったような世界が広がり、魔法の詠唱とレーザーの射出音が、俺が装着したヘッドセットの中で激しく交錯していた。硝煙、閃光、断末魔。デジタル信号に変換された暴力の嵐が、現実から俺の意識を完璧に隔離してくれる。この感覚こそが、俺、柊陽介(ひいらぎようすけ)が求める平穏だった。


 数時間前まで、俺は大学近くの喧騒に満ちた安居酒屋で、サークルの飲み会に身を浸していた。ジョッキのぶつかる甲高い音、誰かの下品な笑い声、恋愛や講義の愚痴といった、中身のない会話の応酬。その全てが、俺にとっては耐え難いノイズでしかなかった。「課題があるから」という、使い古された言い訳を盾にその場を抜け出してきた時の解放感は、今思い出しても格別だ。この部屋の、閉め切った空気だけが、俺に本当の安息を与えてくれる。


 手に握りしめたコントローラーが、敵の攻撃を受けたキャラクターと同期するように、ぶるぶると激しく震えた。その振動が、指先から腕を伝い、俺の身体に確かな存在感を示す。これこそが、俺が求めるコミュニケーションだった。言葉はいらない。感情の機微も、面倒な駆け引きも必要ない。ただ、ルールに従い、反射と経験則だけを頼りに、画面の向こうにいる見知らぬ誰かと競い合う。高校時代、教室の隅で景色と同化していた俺にとって、この仮想空間こそが、唯一主体的に存在できる場所だった。あの頃の俺は、誰かにコントロールされるだけの、受動的な存在でしかなかったのだから。


 大学で所属している「サブカル研究会」は、そんな俺にとっての避難港のようなものだ。アニメやゲームの話をしても誰も奇異の目で見ないし、無理に人間関係を構築する必要もない。それでも、その緩やかな繋がりの中に、あの桜井詩織(さくらいしおり)がいるという事実は、時折、俺の心をちくりと刺した。艶やかな黒髪、控えめな仕草、そして、決して他者を見下すことのない柔らかな眼差し。彼女は、俺のような日陰の住人とは明らかに異なる、陽光の中に咲く花だった。視界に入れることすらおこがましい。だから、俺は無意識のうちに、彼女の存在を認識のフィルターから除外するように努めていた。彼女は、俺の物語には登場しない、背景の一部でしかないのだと。そう自分に言い聞かせてきた。


 その時だった。枕元に放り投げていたスマートフォンが、ディスプレイの光を明滅させながら、短く、しかし鋭く振動した。ぶぅん、という硬質なバイブレーション音が、ヘッドセットの隙間から俺の聴覚に侵入してくる。仮想世界のBGMが、一瞬、現実の音によって掻き消された。ゲームに没入していた意識が、強制的に現実へと引き戻される。その感覚が、たまらなく不快だった。


 どうせ、飲み会に残ったメンバーからの悪ふざけの連絡だろう。無視だ、無視。そう心に決め、画面から視線を逸らそうとした、その瞬間。ロック画面に浮かび上がった通知に、俺の思考は完全に停止した。


 《神宮寺 瑠璃》


 同じサークルの、一年後輩。小柄で愛らしい童顔に、不釣り合いなほど豊かな胸。先輩たちを小馬鹿にしたような態度で翻弄する、掴みどころのない小悪魔。彼女と俺が、サークルのグループチャット以外で言葉を交わすことなど、ほとんど皆無に等しい。その彼女からの、個人宛のメッセージ。


 嫌な予感が、背筋を撫でた。コントローラーを握る手に、じっとりと汗が滲む。俺はゲーム画面に映る自分のアバターが、敵の集中砲火を浴びて砕け散るのを、ただ呆然と見つめていた。そして、恐る恐るスマートフォンを手に取り、震える指でメッセージアプリのアイコンをタップする。トーク画面に表示された、たった一行のメッセージが、モニターの反射光を浴びて、不吉な預言のように俺の目に焼き付いた。


 『助けてください』


 平坦なゴシック体の文字列が、まるで悲鳴のように見えた。脳が、その言葉の意味を理解することを拒絶する。何かの間違いだ。悪質なスパムか、アカウントの乗っ取りか。そうであってくれと願いながらも、心臓は警鐘のように激しく脈打ち始める。俺は、ほとんど無意識のうちに、画面に表示された通話ボタンを、強く押し込んでいた。コール音が鳴り響くよりも早く、プツリ、と回線が繋がる音がした。そして、静寂を切り裂くように、焦りと恐怖に染まった彼女の声が、俺の鼓膜を激しく揺さぶった。

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