第2話 切迫したSOS
「もしもしっ、陽介センパイ!?」
鼓膜を叩いたのは、普段の彼女からは想像もつかないほど切迫した、甲高い声だった。いつもは猫なで声で先輩たちをからかい、悪戯っぽく笑う瑠璃の姿しか知らない。そのギャップが、事態の異常さを雄弁に物語っていた。スピーカーの向こう側から、駅前の喧騒だろうか、ざわざわとした雑音と、時折クラクションのような鋭い音が微かに混じり込んでくる。まるで、ドラマか何かのワンシーンに、俺だけが突然放り込まれてしまったかのような錯覚に陥った。
「神宮寺……? どうしたんだ、一体」
『ごめんなさい、こんな時間に! あの、今、駅前にいるんですけど……』
声が震えている。恐怖か、焦りか、あるいはその両方か。俺はゲームのコントローラーを床に置き、ベッドの上で胡坐をかいて、通話に意識を集中させた。普段、ほとんど個人的なやり取りなどしない後輩からの、突然のSOS。その事実だけで、心臓がどくどくと嫌な脈動を始める。現実が、ゲームの世界よりもよほどスリリングに、俺の日常を侵食してきていた。
『終電、なくなっちゃって……。そしたら、サークルの山岸先輩に、しつこく……』
山岸。その名前を聞いた瞬間、俺の脳裏に、サークル内でも「ヤバい奴」として噂されている男の、陰鬱な表情が浮かんだ。特定の女子に異常な執着を見せ、SNSを常に監視しているという噂。飲み会でも、彼はいつも輪から少し離れた場所で、獲物を定めるような目で詩織や瑠璃たちをじっとりと眺めていた。あの男なら、やりかねない。いや、むしろ、こういう機会を虎視眈々と狙っていたに違いない。サークルの飲み会で他の男子がギラギラとした欲望を隠せずにいる中、彼はいつも静かだった。その静けさが、今となっては嵐の前の不気味な静寂に思えた。
『家まで送るとか言って、ずっとついてきて……。詩織も一緒なんですけど、怖がっちゃって……』
詩織も? あの桜井詩織が、今、瑠璃と一緒に、あの山岸に? 事態は俺の想像を遥かに超えていた。内気な性格が災いし、高校時代、誰かを助けるどころか、自分の身を守ることで精一杯だった俺の、心の奥底に燻っていた無力感が、どろりとした澱のように蘇る。あの時も、俺は何もできなかった。ただ、見ていることしか。
『それで、ごめんなさい……。陽介センパイのところなら、絶対安全かなって。ヘタレだから、襲ったりしないだろうし……』
刹那、電話口の向こうで、瑠璃がいつもの調子を無理やり取り繕うかのように、震える声で冗談めかした言葉を口にした。その言葉が、俺の胸にぐさりと突き刺さる。「ヘタレ」。そうだ、俺はヘタレだ。恋愛経験も皆無。女性との関わりを「面倒で危険なもの」と無意識に避け、ゲームの世界に逃げ込んできた童貞だ。そのコンプレックスが、じくりと熱を持って痛む。
だが、その痛みと同時に、奇妙な感情が芽生えていることにも気づいていた。頼られている。あの、小悪魔のような後輩と、高嶺の花である詩織が、今、俺を頼っている。山岸という明確な「脅威」から、彼女たちを守る「雄」として、俺が選ばれた。それは、常に受動的な立場で、誰かにコントロールされるだけの人生を送ってきた俺にとって、今まで味わったことのない、仄暗い優越感だった。
支配欲。幼少期に兄や両親から過保護に扱われ、高校時代には誰からも必要とされず無力感に苛まれた俺の中に、眠っていたはずの欲望。他者を自分の管理下に置き、コントロールしたいという、歪んだ願望。それが、瑠璃の「陽介センパイのところなら安心」という言葉をトリガーにして、むくりと頭をもたげたのを感じた。俺は、彼女たちにとって「安全」な存在。それはつまり、俺が彼女たちをどうするかの決定権を握っているということではないのか?
「……わかった。場所は?」
『えっ……!?』
「だから、今どこにいるんだ。すぐに鍵を開けておくから、タクシーでも使って来いよ。金なら俺が払う」
自分でも驚くほど、冷静で、少しだけ命令するような口調の声が出た。電話の向こうで、瑠璃が息を呑む気配が伝わってくる。いつもの俺なら、「え、俺の部屋? 汚いけど……」などと、うろたえていたはずだ。だが、今の俺は違った。
『……はいっ!』
短い返事と共に、通話が切れた。静寂が戻った部屋の中、俺はゆっくりと立ち上がる。窓の外は、どこにでもあるような、変哲もない住宅街の夜景が広がっているだけだ。しかし、今夜、この六畳一間の城に、二人の少女が逃げ込んでくる。その事実は、俺の退屈な日常を、根底から覆すには十分すぎるほどの響きを持っていた。俺は、クローゼットの奥から、来客用の掛け布団を三枚、引っ張り出し始めた。体が、わずかな興奮で震えていた。これから起こるであろう非日常に、恐怖よりも期待が勝っている自分に、俺は気づいていた。
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