死なぬ笑みの屠人
@akami_193
第1話 「灰色の死神」
ネオン・クリスティア市 ― 20XX年 ―
空は鉛の板のように重く、視界を塞ぐ黒い雲が街を覆っていた。高層ビル群は鋼鉄の壁のように立ち並び、その外壁には巨大なスクリーンが輝く。そこに映るのは笑顔の顔、長寿の薬、完璧な人生……。
まるで光る虚構が、街の陰鬱な現実を塗り潰しているかのようだった。
通りを行き交う人々は、時折空を見上げては、すぐにスマホやつまらない会話へと視線を戻す。彼らは知らない。死がいつも隣を歩いていることを。
そのビルのひとつ。
屋上の濡れた床に腰を下ろし、長い脚を投げ出した青年がいた。
茶色の短い髪が風に揺れ、青い瞳はスコープの奥を静かに見据えている。冷たい指先が、群衆の中を歩く人物を追いかける。やがて彼は手首を口元に寄せた。
――ミナモト・カズヤ。
彼は低く、誰に伝えるでもなく自分に語りかけるように呟く。
「……目標は東側へ移動中。かなり急いでいるようだ。」
だが返ってきた声は緊張感など皆無。
むしろ、退屈そうに天気の話でもするような調子だった。
『カズ……誰かが俺の冷蔵庫からミカンを盗んだ。』
短い沈黙。
カズヤは思わず息を呑んで、次いで小さく吹き出した。
「……本気かよ。今は任務中だぞ? それで果物の愚痴か?」
返事はない。代わりに聞こえてきたのは、金属の鈍い音――
指先で弄ばれる短刀の響きだった。
そして再び、氷のような声が落ちてくる。
『言っただろ……最後の三つだったんだ。』
カズヤは深く息を吐き、再びスコープ越しに標的を追った。
場を和らげるように、軽口を返す。
「……多分、食ったのは隊長だろ。真夜中の妙な食欲、知ってるだろ?」
通信の向こう側――。
アサクラ・レンジは静かに細い路地を歩いていた。
その足取りは焦りとは無縁。まるで世界だけが遅く流れているかのようだった。
手の中の短刀を弄ぶ指先。握っては離し、また握る。その仕草は、武器というよりただの玩具のように見える。
標的にも、街にも、任務にすら興味を示さない男。
彼の声が、不意に落ちてきた。
低く、囁くような調子で。
『カズ……昨日、何があった?』
屋上のカズヤは眉をひそめ、思わず笑いを含んだ声で応じる。
「覚えてないのかよ?……お前、完全に酔っぱらってたんだぜ。昨日は滅茶苦茶な飲み会だった。イロスキ隊長に挑んでさ、“酒と一緒にミカンをどっちが多く食えるか”って勝負。五分で潰れて、その後は椅子と会話してた。」
だが、レンジは笑わない。反応すら見せない。
ただ沈黙のまま、ガラスのような瞳で路地の壁を見つめていた。
やがて、吐き出されたのは冷え切った息だけ。
嘲笑でも驚きでもない、ただの絶対的な冷たさ。
『……そうか。』
カズヤは小さく笑い、独り言のように呟いた。
「……時々思うんだ。レンジ、お前は最初からこの世界の人間じゃないんじゃないかって。」
だが、その一瞬の軽さはすぐに砕け散った。
スコープを動かしたカズヤの目が細まる。
標的が足を止め――ゆっくりと振り返ったのだ。まるで何かを感じ取ったかのように。
カズヤは声を強める。
「レンジ……気をつけろ。監視に気づいたかもしれない。」
レンジもまた立ち止まる。
頭をわずかに傾け、手の短刀が壊れかけたネオンの光を反射した。表情は変わらない。心配の色もない。
ただ乾いた声が落ちる。
『……その方が簡単だ。』
一歩、二歩――静かな足音が闇へと進む。
路地に響くその足音は、時間すら意味を失ったように単調だった。
だが空気が震える。
背後から忍び寄る気配。荒い呼吸。ぎこちない肉体が勢いよく迫ってくる。
刃が背に落ちる寸前。
レンジの身体はわずかに傾いた。会話を途切らせることすらなく。
影のように通り過ぎた敵を、無感情の瞳で振り返る。
『カズ……これはお前のせいだ。』
氷のような声。
『酒は嫌いだと知ってるはずだろ。すぐ酔うのも分かってる。それでも飲ませたのはお前だ。』
屋上のカズヤは苦笑混じりに答える。
「ははっ……誰が“命令”なんてしたよ。普段は俺の指示なんか無視するくせに。あの夜だけは……素直だったな。」
敵が再び襲いかかる。飢えに駆られた獣のように、狂った斬撃を繰り返す。
だがレンジの身体は、重力をあざ笑うかのように舞い、淡々とそれを避け続けた。まるで死神と踊っているかのように。
やがて、彼は退屈そうに溜息を吐く。
『……面倒だな。』
短刀を構え直す。もう遊びではない。
視線が一瞬、敵の首筋に止まる。そこには黒い亀裂のような紋様――完成間近の「刻印」が刻まれていた。
それは人を“異形”へと堕とし、屠殺人〈ブッチャーズ〉の餌へと変える烙印。
躊躇はなかった。
レンジの身体が流れるように前へ。
刃は正確に頸の腱を断ち切る。
――シュッ。
悲鳴はなかった。
ただ血が温かく壁を染め、男の瞳が意味のない恐怖に見開かれたまま崩れ落ちる。
レンジは顔色ひとつ変えず、死体に視線を向けることすらしない。
ただ無造作に刃をコートの袖で拭い取り、通信に呟いた。
『……終わった。』
屋上で、カズヤは一瞬黙り込み、深く息を吐いた。
「……やれやれ。お前、本当に殺戮マシーンだな。ミカンに文句を言いながらでも。」
だがレンジの返答は、虚空に溶けるほど小さかった。
視線は宙を漂い、言葉はただの残響にすぎない。
『……ミカン。』
彼は死体に足を止めることもなく、血溜まりを汚水のように踏み越えていく。
路地の影が迷路のように絡み合う先――目指すのは廃工場だった。
そこには死から逃げようとする者たち、絶望の果てに隠れる亡者たちが潜んでいる。
通信に乗る声は相変わらず冷たい。
『……現場に近づいている。』
対岸のビル。
カズヤがスコープを調整した瞬間、不意に息を呑む音が混じった。
レンジは首を傾け、沈黙で路地を支配する。
やがて、低い声で問いかけた。
『……どうした。』
カズヤの声は弾んでいた。まるで死の気配など忘れた子供のように。
『あそこだ! 通り沿いのゴミ置き場に、古い装置がある! 直せるかもしれない! 誰かに盗まれる前に取りに行こう!』
レンジは答えなかった。
青い瞳は空虚なまま。短刀を指先で弄びながら、思考は遠くに漂っていた。
――ミカン。
「……もし隊長じゃなかったら? カズ、お前が……?」
「いや、サヨリさんか……? それとも俺自身が……?」
敵の動向より、三つの果実の行方に囚われる思考。
その無意味な反芻に沈み込んでいく。
屋上のカズヤは、その沈黙に気づいていた。
声に苛立ちが滲む。
「おい……本気か? 俺は大事な装置の話をしてるんだ! それなのに……お前、全く聞いてない!」
返事はない。
いつものように、レンジは黙り込んでいた。
「……もういい!」
ついにカズヤが怒鳴る。
「勝手に任務をやれ! 俺は本部に戻る! 毎回バカを見るのは俺だけだ……お前が気にかけるなんて、もう思わない!」
通信は、そこで途切れた。
レンジはひとり、闇の中に立っていた。
肩に落ちる最初の雨粒を受けても、表情は微動だにしない。
ただ、ゆっくりと呟いた。
『……また怒ったな。』
虚ろな瞳が宙を彷徨う。
その言葉は誰かに向けられたものではなく、自分自身への独白のようだった。
『……また俺のせいで。』
雨は次第に強さを増し、鉄の屋根を叩き、街全体に錆びた匂いを漂わせる。
廃工場は街外れにぽつりと佇んでいた。
錆びた鉄扉は半ば外れ、内部は闇に呑み込まれている。
レンジは足取りを隠すことなく、ただ確信に満ちた歩みで近づいた。
扉の前で立ち止まり、耳を澄ます。
――途切れる呼吸。
――裸足が床を擦る音。
――恐怖に濁った囁き。
「……いるな。」
指先が扉の取っ手に触れる。
ギィイイ――鉄の軋みが雨音をかき消した。
闇が、彼を飲み込む。
中には七人。
男も女も、痩せ細った顔、虚ろな瞳。
そのうち何人かの首には、死の刻印が完成へと近づいていた。
彼らは組織から逃れ、この場所に身を潜めていた。
だが入ってきたのは、人間の追跡者ではない。
――笑わぬ屠殺人〈スマイリング・ブッチャー〉。
「やつだ! 逃げろ!」
悲鳴と共に身体が四散する。
錆びたコンテナの間を駆け、壁の影に隠れようとする。
だがレンジは走らない。
ゆっくりと、ただ歩く。
一歩目。
迫り来る鉄パイプを振りかざす男。
短刀がまっすぐ喉を貫き、赤い霧を撒き散らす。声もなく崩れる影。
二歩目。
錆びた刃物を構えた女の手首を掴み、身体を半回転させる。
頸動脈に冷たい刃先が触れ――小さな衝撃で崩れ落ちる。
彼は影のように動く。
喧噪も焦燥もない。
一撃ごとに急所を突き、二秒と経たぬうちに命が絶える。
コンテナの裏に隠れた者の脇腹に、無慈悲な刃が差し込まれる。
机の下に潜んだ者は、ゆっくりと腕に引きずり出され、ただのゴミのように地に落とされる。
次々と、静かに。
叫びは飲み込まれ、工場に再び静寂が満ちる。
数分後。
そこに残ったのは、散らばる死体と、血が形作る黒い水溜まりだけだった。
レンジは中央に立ち尽くす。
虚ろな眼差し。
勝利も、哀しみも、何も浮かばない。
そこにいるのは、ただ――空っぽの屠殺人。
ポケットから小さな金属の箱を取り出し、ゆっくりと開ける。
中は――空っぽだった。
「……みかんがあればな。」
かすかな吐息のような声が、闇に溶ける。
レンジは顔を上げた。
古びた倉庫の天井から、雨粒が染み込み始め、頬に落ちる。血の雫と区別がつかないほど冷たい。
死体に囲まれたまま、彼はただ立ち尽くす。
雨が錆びた床を濡らし、血と混じって黒い水たまりを作っていく。
視線を一度だけ巡らせ、任務の終わりを確認すると、レンジは静かに左手首を口元に近づけた。
「……こちら、現場部隊。清掃班を送れ。場所は第七倉庫、工業地区。」
返答を待たずに通信を切る。
腕を下ろし、壁際の錆びた木箱に腰を下ろした。
手にはまだ濡れたナイフ。雨粒が刃に反射して、淡く光る。
無表情のまま、彼の瞳は遠くを見つめていた。
――みかん。
沈黙したまま、レンジは耳を澄ませた。
遠くから近づいてくる音――ライトを消した車列、規則正しい軍靴の足音、黒い装束に防護マスクの男たち。
次々と倉庫に入ってくる彼らは、彼に声を掛けることも、問いかけることもなかった。
慣れているのだ。
彼が標的を斬り捨て、彼らが混乱を掃除する。
黒い袋に死体を詰め込み、薬品で血を拭い、痕跡を消す。
まるで何事も起きなかったかのように。
レンジは加わらない。
ただ箱の上に腰を掛け、わずかに首を傾け、灰色の瞳で虚無を見つめているだけ。
数分後、一人の隊員が近寄り、丁寧に告げた。
「現場は制圧済みです、浅倉さん。本部に戻られますか。」
返答はなかった。
レンジはゆっくりと立ち上がり、ナイフを鞘に戻し、無言のまま出口へ向かう。
倉庫の敷居を越えたとき、ほとんど聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「……みかんを盗んだ奴を、必ず見つける。」
雨の帳に姿を消す。
つい先ほどまで死の舞台だった倉庫は、何事もなかったかのように静かだった。
細い路地を抜け、レンジは大通りへ出た。
雨に濡れたアスファルトに、ネオンと巨大スクリーンの光が揺れている。
彼は片手を上げ、古びたタクシーを止めた。
錆びたエンジン音を響かせながら停車する。
後部座席に乗り込み、静かにドアを閉める。
運転席には、頭頂部の禿げた老人。深い皺が刻まれた顔に、ためらいがちな笑みを浮かべていた。
「こんばんは、坊や……随分と骨を折ったようだな。ご苦労さん。」
しゃがれた声が、夜の雨に混じる。
言葉を最後まで言い終える前に――
冷たい金属の感触がこめかみに押し当てられた。
小型の黒い拳銃。
一切の揺らぎもない安定した銃口。
もう一方の手が顎を掴み、頭をわずかに後ろへ反らせる。
車内のミラーに映る青年の顔――朝倉レンジ。
その灰色の瞳には、動揺も感情も一切存在しなかった。
「……どうして、俺が組織の人間だと分かった?」
死んだ声。反論を許さない冷徹な響き。
運転手の額に冷や汗が浮かび、引きつった笑みを作る。
「お、おう……ただの勘だよ。ただの……運だ、はは……。」
だが、レンジは言葉を遮った。
低く、鋭く、空気を切り裂くように。
「嘘だ。お前は……あの逃亡者たちの頭だ。
彼らの進路を修正し、匿っていたのはお前だ。」
震える唇。恐怖に濁る瞳。
レンジは容赦なく、男のコートの襟を引き下ろした。
そこに現れたのは――黒い“印”。
完成間近の死の刻印。
皮膚を這う不吉な線が、彼の残り時間を告げていた。
レンジの瞳は揺らがない。
銃口の圧力も、引き金にかかる指の力も――微動だにせず、確実。
「……死ね。」
小さな引き金の音。
――パァン。
運転手の頭が横に弾け、赤が窓に散った。
命が途絶えたのは、一瞬。
まるで死神が問いかけもせず、答えも求めず、ただ結果だけを下したように。
レンジは無表情のまま、ハンドルを握り、車を路肩へ寄せる。
エンジンを止め、わずかに死体を見下ろす。
空っぽだ。感情の痕跡など、どこにもない。
後部座席、ダッシュボードの下、小さな隠し箱――
そこで見つけたのは、黒いファイル。
角は擦り切れ、だが中には厚い束の書類。
名前、顔写真、日付。
それはただの「逃亡者」の記録ではなかった。
かつて国に消されたはずの暗殺者たち――。
彼らを資金と隠れ家で繋ぎとめていたのが、この男。
最後のページには一つの住所。
〈東区アドリオン、廃倉庫〉
レンジは静かにファイルを閉じ、コートの内側に収める。
そしてドアを開け、外へ降り立った。
激しい雨。
血を薄めながら、前席から滴り落ちる赤。
しばらく空を仰ぎ、無機質な声で呟く。
「……元・暗殺者か。」
ファイルを抱え、雨の街へと消えていく。
背後に残されたタクシーは――
ハンドルにもたれかかる老人の亡骸と共に、ただ静かに雨に濡れていた。
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