第5話 "おんがくがかり"は小さな特等席
幼稚園の玄関は、朝から小さな行列でにぎわっていた。
昨日の“奇跡”のせいで、子どもたちは「今日の曲なに?」「順番まだ?」と口々に声をかけ合っている。
先生は慌てて画用紙をちぎり、番号を書いて配った。
「はい、これは整理券。弾いてほしい曲の名前を書いて、順番を守って並んでね。同じ曲はまとめておきますよ」
そこで光がすっと手を上げた。
「先生、誰か“音楽係”にして、曲をまとめてもらったらどう?」
思いがけない言葉に、先生は少し驚いてからうなずいた。
「いいわね。それじゃあ、光くんが指名した人が“音楽係”になります」
先生はカードに「おんがくがかり」と大きく書き、その横にピアノと音符の絵を描いて字が読めない子にも分かるようにし、最後に首にかけられるようにひもを通した。
光の視線が列の先頭に向く。
「雪、音楽係お願い。曲名と順番を書いて、次の曲を僕に伝えて」
「えっ、わ、私?」
雪は一瞬固まった。
まわりから「なんで雪なの?」「ずるいー」という小声が飛ぶ。
先生はにこやかに背中を押した。
「はい、今日の音楽係は雪さん。ピアノの横の椅子に座っていいですよ」
雪はおそるおそるネームプレートを首にかけ、ピアノの隣の椅子に腰を下ろした。
光が鍵盤に指を置くと、教室の空気がぴんと張り詰める。
⸻
光の演奏が始まる。
雪は整理券を一枚掲げて、光の耳元に小さくささやく。
「次は……◯◯だよ」
その距離に胸が熱くなる。周りの女子たちは羨望と嫉妬を入り混ぜた視線を向けていた。
「音楽係って光くんとずっと話せる」
「ピアノの隣に座れるの、いいなぁ」
そんな声が漏れる。雪は頬を赤らめながら、紙をめくり続けた。
⸻
♦︎先生視点
お昼前、私は連絡帳に「本日の選曲リスト」を貼り出した。動画はNG。それでも十分に伝わるように。
ほどなく保護者チャットが騒がしくなる。
〈午睡、今日は三分で寝た!〉
〈朝の支度、音楽の話を餌にしたら一瞬で終わりました〉
〈うちの子、帰ってきて“リクエスト弾いてもらったんだよ!”って得意げでした〉
噂が噂を呼び、お迎えが少し早まる家庭が増えた。ドアの外に、立ち見の保護者が並ぶ。
他のクラスからも「見学したい」と声がかかるので、私は廊下に見やすい位置を作って、三枠だけの公開枠を設定した。
⸻
そして翌日、私は音楽係のローテーションを試してみた。
手を挙げたのは、いつも前に出る“イケ女”の子たち。
「次は、こっちの曲が盛り上がると思うの!」
「テンポは速い方が映えるよ。ね、光くん!」
「合図は私が“せーの”って言うね!」
声はよく通る。身振りも大きく、見栄えがいい。けれど——段取りの指示が増えると、光くんの視線が鍵盤からわずかに外れる。
「やろうとしてること」はわかるのに、音がほどける前に別の指示が入って、空回りする。
光くんの横顔に、ちょっとだけやりにくそうな気配が走った。
交代して、雪ちゃんがふたたび音楽係に入る。
彼女は大きな声を出さない。ただ、置く場所とタイミングだけが正確だ。
次の整理券が、ちょうど光くんの終止形に吸い込まれる。拍手が自然に重なり、ざわつきが消える。
(そうか——)
私は腑に落ちた。
「光くんには、引っ張るような子よりも、そっと支えてくれるような子が合うのかもね……」
帰りぎわ、雪ちゃんがネームプレートを外して先生に差し出した。
「ありがとうございました」
私は受け取りながら、ふっと笑った。
「雪ちゃんが音楽係のときはやりやすそうだったわよ。雪ちゃんと光くんは、相性ぴったりなのね」
雪は少し照れながらうつむき、列に戻っていった。
廊下のあちこちで、女の子たちがひそひそ声を交わしている。
「次は誰が音楽係になるんだろうね」
教室の空気は、もう次の日の音楽を待っている。
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