第15話 二つの未来を一つに

街の中心に、ぽっかりと穴が空いていた。物理的な陥没ではない。人々の希望や活気が吸い取られ、色も音も失われた「無」の空間。その中心で、黒い霧が凝縮し、巨大な人型の輪郭を形作っていた。『虚無の収集者』。それは絶望そのものが具現化した姿だった。


周囲の空気は鉛のように重く、呼吸をするだけで心が沈んでいく。近くのビルからは不安げに人々がこの世の終わりのような光景を眺めている。その視線が、恐怖が、さらに収集者へと力を注いでいた。


「真理、行くよ」

「うん」


翔太と真理は、互いの覚悟を確かめ合うように頷き、虚無の中心へと踏み出した。一歩足を踏み入れるだけで、精神が軋むような感覚に襲われる。収集者は、まだ完全には実体化していない。しかし、その意思は明確に二人を捉えていた。


『どちらが未来を差し出す?』


頭の中に直接、冷たい声が響く。それは問いかけのようでいて、二人を引き裂こうとする悪意に満ちていた。


「僕がやる!」翔太が叫ぶ。「僕の未来で、真理を守れるなら!」

「させない!」真理も叫び返した。「翔太のいない未来に意味なんてない!」


二人の強い意志がぶつかり合う。その瞬間、収集者の影が揺らめき、二人の間に裂け目を作った。


次の瞬間、真理は一人で立っていた。目の前には、穏やかな光に満ちた世界が広がっている。大学を卒業し、夢だった仕事に就き、友人たちに祝福されている。だが、その隣に翔太の姿はない。世界は完璧に幸せそうに見えるのに、真理の心は凍てついたように虚しかった。

『彼が望んだ未来だ。お前は守られた。幸福だろう?』

収集者の声が囁く。これは、翔太が犠牲になった未来の幻。安全で、けれど永遠に満たされることのない孤独な未来。


一方、翔太もまた、一人きりの未来を見せられていた。彼はたくましく生きている。だが、どんなに成功を手にしても、その笑顔には常に影が差していた。真理を犠牲にして得た未来という、決して消えることのない罪悪感を抱えて。

『彼女が望んだ未来だ。お前は生き永らえた。幸福だろう?』


収集者は二人の愛と自己犠牲の心そのものを利用し、最も残酷な形で絶望へと誘う。個人の幸福と孤独を突きつけ、互いを引き裂こうとする。心が折れかけた、その時だった。


ポケットの中で、二つの『継承の灯火』が、これまでで最も強く輝きを放った。幻の世界に亀裂が走り、互いの姿が見える。涙を流しながら、絶望に飲み込まれかけている相手の姿が。


「違う……!」真理が叫んだ。「私が欲しかったのは、こんな未来じゃない!」

「俺もだ!」翔太が手を伸ばす。「俺が守りたかったのは、君の笑顔だ! 一人で泣かせるためじゃない!」


二人の声が重なり、幻の世界がガラスのように砕け散った。現実に戻った二人は、互いの手を固く、固く握りしめる。灯火の光が一つに繋がり、二人の間に温かい光の橋を架けた。


アルキメデスの言葉が、脳裏に雷鳴のように響く。


―――虚無を封じる方法はただ一つ。“未来を共に描く意思”を結晶化させることだ。


「そうか……」翔太が気づいた。「犠牲になるのは、一人じゃないんだ」

「うん……」真理も、涙を拭って頷いた。「『誰か一人の未来』を差し出すんじゃない。『二人それぞれの未来』を、差し出すんだ」


それは、究極の選択。

これから先、真理だけの未来も、翔太だけの未来も存在しない。何をするにも、どこへ行くにも、二人の運命は完全に一つとなり、決して分かつことはできない。それは最強の絆であると同時に、互いを永遠に縛る枷ともなり得る。個人の自由という可能性を、完全に手放すこと。

それこそが、虚無を封じるための、二人で捧げる「未来」の代償だった。


「僕は、君と一つの未来を生きたい」翔太が、真っ直ぐに真理の瞳を見つめて言った。

「私も、翔太と一つの未来を生きたい」真理も、迷いなく答えた。


二人の心が完全に一つになった瞬間、『継承の灯火』は燃え上がり、一つの巨大な炎となった。炎の中心で、まばゆい光の結晶が生まれていく。それは、二人が共に過ごした過去の記憶、事故の痛み、再会の喜び、そして今この瞬間に誓った未来への覚悟、その全てが凝縮された『希望の結晶』だった。


『我は虚無……意思など……』

収集者が初めて焦りの色を見せ、その巨腕を振り下ろす。しかし、もう遅い。


真理と翔太は、生まれたばかりの結晶を二人で抱きかかえ、虚無の中心へと捧げた。


「絶望なんかに、私たちの未来は奪わせない!」


破壊ではない。浄化でもない。ただ、埋めるだけ。

虚無という絶対的な「無」の中心に、二人の未来という、どこまでも濃密な「有」が置かれる。光と闇が衝突し、世界が白く染まった。


どれほどの時が経っただろうか。

気がつくと、二人は静けさを取り戻した街の中心に立っていた。空を覆っていた黒雲は消え去り、夜空には満月が優しく輝いている。人々の不安は消え、街には穏やかな夜が戻っていた。


二人の手の中にあった結晶も、灯火も、今はもうない。ただ、翔太が持っていた『未来の記録帳』が、自ら静かに開いた。

最後のページに、黄金色のインクで、新たな一行が記されていた。


『二つの未来は、今日一つになった』


それを見た瞬間、二人は自分たちが払った代償の本当の意味を理解した。もう、離れられない。決して。その事実は、少しだけ怖くて、けれど、それ以上にどうしようもなく、幸せだった。


二人はどちらからともなく、強く抱きしめ合った。

絶望の闇が晴れた空の下で、一つの未来を選んだ二人の、長い長い物語が、今、本当の意味で始まろうとしていた。

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