第10話 湖上の救出
リオンは氷の上を腹ばいになって滑っていた。
目の前には毛むくじゃらの小さな手。
掴んだ! 瞬間、氷が腹の下でピキッと音を立てた。
※ ※ ※
――少し前。
カストレル通りで買い物した後、ランチを食べて食後の散歩をするために、リオンとジーンは通りの裏手にある湖畔の公園に来ていた。
レオハルトとカイは馬車に不具合があると御者に呼ばれて、その場を離れた。
あたたかく、風も止んで穏やかな陽気だった。
湖に降りる小道を歩いていると、数人の青年の笑い声や、囃し立てる声が湖のほうに向かって聞こえた。
嫌な予感に足早に降りていくと、すぐに目についたのは小さな動物のようなものが、凍った湖の真ん中にうずくまっている光景だった。
――あれは獣人の子!
気付いた瞬間、リオンはコートを脱ぎながら走り出していた。
湖へ駆け下りながらコートを広げ、その上に腹ばいで静かに乗った。
湖は凍っていたが、まだらに薄い部分が残っていた。
このまま、あの子のところまでいってくれ!
リオンは祈りながら岸を蹴った。
体は湖の上を滑っていき、引っ掛かりながらも獣人の子のところまでたどり着くことが出来た。
その手を掴んだ瞬間、体の下で氷にひびが入った時の嫌な音がした。
これ以上進むと氷が割れる可能性がある。
リオンは獣人の子に「動かないで」と告げて、自身は腹ばいの状態でゆっくりと獣人の子を引き寄せた。
じわじわと小さな体を自分の方に引っ張り、やっと上半身をコートの上に乗せることが出来た。
二人は無理だが、この子だけの体重だったら、岸までは行けるかもしれない。
リオンは慎重にコートの上から降りることにした。
「いい? このコートに乗って滑れば、岸まで行ける。
体をぺったんこにして。絶対に立ってはだめだよ」
獣人の子は、大きな目をくりくりさせた。
「あんたは?」
「僕は重いからここに残る。
すぐに助けは来るから、大丈夫。
僕がコートから降りたら、行くんだよ。
手をオールみたいに動かして、氷の上を進むんだ」
静かに体を動かし、右足を下ろした時、
轟音が鳴り響いた。
舗装のない道を車輪が全力で走る音が迫ってくる。
岸を見ると、遊歩道の柵に乗り上げ、湖への下り坂を馬車が下ってくるのが見えた。
手綱を握っているのは、御者ではなく、レオハルトだった。
彼の顔には、ただ怒りや焦りだけでなく、驚愕と、恐怖が入り混じっていた。
その視線はまっすぐリオンを捉えていた。
氷の上で腹ばいになり、獣人の子を引き寄せている自分を。
「リオン!!」
その叫びに重なるように、ガキン! 金属音が響いた。
レオハルトが車輪を落とすために、車軸の割りピンを踵で弾き抜いたのだ。
車輪がひとつ、外れて急斜面を跳ねながら転がり落ちていく。
レオハルトは雪煙を巻き上げながら、暴れる馬をねじ伏せるようにして手綱を引いた。
車輪を一つ失った馬車はがくんと傾き、木枠が雪を噛む。
残った車輪が軋み、馬が嘶いて前足を上げた。
馬車は見えない壁に遮られたかのように、湖の手前で急停車した。
「そのままだ! その子とコートの上から動くな!」
レオハルトは叫びながら馬車から飛び降り、座席の木枠を一撃で蹴り壊す。
勢いのまま、割れた板を力任せに引き剥がし、それを地面に投げた。
そして、肩にかけていたロープを手に取ると、二重の大きな輪を作る。
その輪を板に載せて固定し、岸から氷の上へと押し出した。
「リオン、ロープを受け取れ。輪は肩から通し、脇で留めろ。立つな、そのままでいい」
落ち着いた、しかしよく通る声だった。
板が滑ってきて、コートの縁に当たって止まった。
リオンは身を乗り出し、ロープの輪を掴んで肩から脇に通した。
その間に、レオハルトはロープの端を馬車のくくり金具に結びつける。
「準備ができたら手を上げろ。子どもはコートの上に乗せておけ」
リオンは、ロープが肩と脇にしっかり掛かっているのを確かめた。
つづけて獣人の子どもを慎重に引き寄せ、濡れて凍りついた毛皮をそっと抱きしめる。
小さなからだは、芯まで震えていて、もう暴れる力はない。
「いい? 今から引っ張られる。コートを離しちゃダメだよ。ぎゅっと握ってて」
子どもが小さく頷くのを確認すると、バランスを取りながら手を上げた。
「よし、引くぞ」
レオハルトは馬を宥めながら、ゆっくりと一歩だけ踏ませた。
じわり、ロープが引かれ、リオンの体が氷の上を滑る。
一歩、また一歩。
決して急ぐことなく、リオンと子どもの様子を見守りながら、馬を進ませていく。
リオンは確実に岸に近づいていく感覚に、ほっと一息ついた――その時だった。
遊歩道の向こうからこちらに駆けてくる二人の影が見えた。
先頭はカイだ。剣や装備を揺らしながら、こちらに向かって懸命に走ってくる。
少し遅れて、その後ろにはジーン。いつも冷静で隙のない所作の彼が、さらさらの黒髪をなびかせ、全力で走っている。
二人は息を切らせながら、レオハルトの元へ到着した。
「たっ、たいちょ……」
「ご苦労。カイ、この馬を任せる。必ず一歩ずつ、湖上の様子を見ながら引け。
ジーン、保温の準備だ。火を起こして、乾いた布と毛布を頼む」
「はっ」
「はい」
二人の声が重なった。
ジーンは火を起こすためにボート小屋に走り、カイはレオハルトから手綱を受け取った。
その間も、リオンの体は一歩、また一歩と岸へ近づいていく。
続いてカストレル通り入口の詰め所にいた衛兵が駆けてきた。
「レオハルト殿、状況を!」
「至急、市衛に連絡。見物人は、十歩下げろ」
「はっ」
レオハルトはそれだけ指示すると、馬車の壊れた座板を拾い上げ、岸辺へ走った。
リオンから伸びるロープはぴんと張り、馬車の金具に結ばれている。
ロープは石の角で擦れ、繊維がささくれて白く痩せはじめていた。
レオハルトはそこに当て板をかませ、ロープの角度を落として滑るように調整した。
ロープは無事に滑り出し、リオンの体が、ぎし、と氷を鳴らしながら、ゆっくり岸に近づいてくる。
だが、岸に近づくにつれ、氷はもろくなり、表面には尖った氷片も残っていた。
レオハルトは剣の柄でそれらを丁寧に割り、砕けた氷を脇にかき寄せていく。
やがて、岸との境にわずかな水の隙間ができた。
「いいぞ、そのまま、まっすぐ引け」
そう声をかけながら、レオハルトは岸と氷をつなぐように、木の板を渡した。
近づいていくリオンの目に、両腕を広げて待つレオハルトの姿が映った。
あと一歩。
焦らず氷を滑り切り、板を渡って、気づけばその腕の中にいた。
周囲から大きなどよめきが上がる。
レオハルトは右腕にリオン、左腕に獣人の子を抱えたまま、ためらうことなくジーンの元へと向かった。
「服は脱がせるな。毛布でくるめ。火から少し離れて、温かい飲み物を頼む」
獣人の子はジーンが受け取り、即座に毛布をかぶせた。
リオンの肩にも、レオハルト自身が毛布をかける。そしてその上から、力強く抱きしめた。
しばらく、彼は何も言わなかった。
緊張が解けたリオンの体が、今さらのように小さく震えだした。
自分が何をやったのか、どれほど皆に迷惑をかけたのか。ようやく現実が、体に染みてくる。
「レオ……ッ、ハルトさま……、も、申し訳……」
「よくやった」
毛布越しに、低く、力強い声が響いた。
「最善だった」
隣で毛布にくるまれた獣人の子を抱えたジーンも、固く引き結んでいた唇を、ほんのわずかに緩めた。
「ご立派でした、リオン様」
その言葉で、ようやく毛布の温もりがじんわりと伝わってきた。
バチッと薪の爆ぜる音がする。
離れているはずなのに、その熱が頬をわずかに刺すようだった。
カイが持ってきてくれたぬるい蜂蜜湯を両手で受け取り、ゆっくりと口元に運ぶ。
舌の上に、薄い甘さが広がっていく。
喉がその温もりを吸い取るように嚥下した。
獣人の子は、ジーンがスプーンで少しずつ飲ませていた。
小さな口がちゃんと動いて、飲み込んでくれるのを見て、リオンはほっとした。
ふと、カイの視線が泳いでいることに気づいた。
どこかぎこちなく、視線をそらしている……。
一拍おいて、リオンはそのとき初めて気づいた。
自分が今、公衆の面前で。
近衛騎士団長の腕の中にいる、ということに。
「あ、あの……僕、もう大丈夫なので……」
「まだ体が震えている。保温優先だ、規律はその次」
そうは言われても……この場にいる人たちの顔を一人ひとり確認してしまう。
カイは明らかに視線を合わせようとしない。
まだ入隊して間もないくらいに若いのに、所作はかなり躾けられている。
近衛騎士団はかなり統率が取れていて、訓練も厳しいに違いない。
そんな威厳のある団長が、新妻をずっと腕に抱いているのを見るのは……普段とのギャップがありすぎて、目の前の出来事を信じることができないのかもしれない。
ジーンはいつも通りの無表情だが、お世話してもらったこの三日間で、彼の規律の下にある温かさはよく分かっている。
「……わたくしが呼びに行った時、当主は『私は最短を行く、後からついてこい』とだけおっしゃって……その直後、馬に鞭打って……本当に最短で行かれました。あんなお姿を見たのは……初めてです」
「ジーンも伝えに行ってくれて、ありがとう」
「いえ……本当に、間に合って、よかった」
他の人々は、微笑ましそうな視線を送ってくる。
本来なら恥ずかしくて堪らないところだが――リオンは小さくあくびをした。
安心したのか、疲れがどっと出て、目を開けているのもつらいくらいの眠気が襲ってきた。
周囲の視線なんてどうでもよくなって、リオンはレオハルトに体を委ねて目を閉じた。
そういえば、彼は昨夜の約束を覚えてくれているだろうか。
『明日も』とベッドの中でねだったとき『確約だ』と笑ってくれた、あの約束を。
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