第9話 買い物デート

 車輪の音を響かせながら、馬車はレオハルトの邸を離れ、王宮の方角へと向かっていた。

 王宮を離れたのはたった三日前だ。

 あの時は、絶望しかなかった。馬車から飛び降りようとさえ思った道だ。

 けれど今は――。

 リオンはレオハルトのコートの裾をきゅっと握りしめた。

 その途端、朝食での注意が蘇った。

 向かいに座っているジーンは無表情に真正面を向いている。

 ここは……公の場だ。

 リオンは慌てて裾から手を離した。

 レオハルトの体が動き、皮手袋を外したのが分かった。

 その手がリオンの指を導き、コートの陰でそっと指を絡めた。

 リオンの中にあったピンク色の小さいものが、またぴくっと反応した。

 昨日の夜に名前をつけたばかりのそれは、いつも小さな熱となって揺れている。

 馬車が王宮の前を通り過ぎた。

 白くて瀟洒で、あまりにも美しく、そして保護と学びをくれた場所。

 しかしその記憶は美しいものばかりではない。

 けれど今は――大好きな人と一緒にいる。

 リオンは絡めている指がじんと熱くなるのを感じた。

 昔の記憶はすべてこの熱の奥に沈んでいく、そんな気がした。

 馬車は右に曲がり、メインの通りを王都の中心部――カストレル通りへと進んでいった。

 

 

 

 馬車が石畳を軋ませながら速度を落としていく。

 そして、柱廊の連なる大きな通りの手前で静かに止まった。

 柱廊の軒には〝カストレル大通り〟の銘板が掛かっている。

 馬車の後部ステップからカイが素早く飛び降り、周囲を見回している。

 やがて、蝶番の音と共に扉が開いた。

 冷たい空気が一気に入り込んできて、リオンは分厚いコートの中で身震いした。

 カイが扉を押さえ、軽く手を差し出しているが、ジーンは目も合わせずにさっと降りた。

 リオンは「ありがとう」と囁いて、その手を借りて下に降りた。


 石畳に降り立った時、リオンは目の前の建物群に圧倒されて言葉を失った。

 中央は馬車が二台通れるほどの広い道が整備されていて、その両脇にはしっかりした石造りの建物が続いている。どれも二、三階建ての商店だ。

 そして、歩道には柱廊が連なり、屋根がついている。

 こんな風に商店が並んでいる通りを、リオンは初めて見た。

 柱廊の奥には硝子張りのショーウィンドウがあり、布地や香の瓶が静かに光っている。

 立ち止まって見つめていると、重量感のある足音が背後に響いた。レオハルトだ。


「行くぞ」


 歩き出すとすぐ、通りに面した詰め所のほうから衛兵が駆けてきた。


「おおっ、これは失礼いたしました。レオハルト殿。

 ご到着に気づかず、無礼を。お通りくださいませ」


 リオンは慌てて礼をする衛兵や、周りの目線を注意深く観察した。

 ここでのレオハルトの立ち位置は、かなり上位のようだ。


「ここはある程度の身分がないと入れない。私の知り合いがいるかもしれないが、あなたは気にしなくていい」


 歩き出すと、カイがさっと前に出た。ジーンはリオンの斜め後ろを歩いている。


「最初は香の店か? 他にも興味のある店があったら好きに入っていい」

「ありがとうございます」


 ショーウィンドウや看板をきらきらした目で見つめながら、リオンはゆっくり歩いた。レオハルトはその歩調に合わせている。

 立派な屋根のついた柱廊の下で靴音が跳ね返って、両側に積もった雪に吸われていく。

 どこからか焼き栗の甘い匂いが漂ってきて、雨気に混じった。


「よぉ、〝鍛冶通りの金剣〟が珍しいとこにいるな」


 ふと、野太い声が響いた。

 カイが素早く礼の姿勢を取った、その先からは屈強な男が笑顔で近づいてきた。

 その肩にはレオハルトと同じく近衛騎士団の紋章が付けられている。


「いつもギルド鍛冶通りにしか行かねぇと思ってたよ……おっと」


 男はリオンに目を留めた。


「こちらは……」

「ああ、私の妻だ」


 ためらわずにそう言って、レオハルトは唇をほころばせた。

 まるで、その言葉を口にすることすら愛おしい、とでも言うように。

 人前で妻と呼ばれることは初めてで、リオンはそんなに堂々と紹介されたことに胸が熱くなった。

 しかし、この慣れ親しんだ呼びかけや、レオハルトのリラックスした様子は……。


――きっとこの方は、レオハルト様にとって大切な方なんだ。


 リオンはぱっと笑顔になった。


「初めまして、リオンと申します。よろしくお願いします」


 深く頭を下げて、頭(こうべ)を上げた時は人懐こい笑みを浮かべていた。

 騎士は目を見開き、そして照れたように頷いた。


「あ、ああ、こちらこそ」


 レオハルトはその様子を微笑ましげに見つめていた。


「……おいおい、マジか、いい子じゃねえか! 羨ましいな、畜生」


 リオンはくすぐったい気持ちでその言葉を受け止めた。

 レオハルトの横で羨ましいと言われる存在であること、それがお世辞であっても嬉しかった。


「ああ? お前のところにも、可愛い奥方がいたろう」

「それでも羨ましいって思うんだよ。お幸せに、団長殿」


 暫く立ち話をして、騎士が去っていくと、その後ろ姿に向かってリオンは深々とお辞儀した。

 その姿が見えなくなると、レオハルトはリオンの乱れた髪をそっとつまんで直した。


「そんなに気を遣わなくていいぞ」

「今のは自然に体が動いたんです。とても素朴で素敵な方ですね」

「奴はオスカー。近衛副団長だ」

「そうなんですね、ではご挨拶できてよかったです」


 通りに並ぶ店のひとつ、異国の装飾品を並べたショーウィンドウの前で、リオンはふと足を止めた。

 ガラスの目の象や、青い陶器、金糸の飾りのついた小袋などが並んでいる。


「わぁ……」


 レオハルトが一歩前に出て、背後からそっと手を添える。


「入ってみるか?」

「はい」


 店内に入ると、異国の香の匂いがした。

 嫌いではないが、甘さの中に独特のクセがある。

 並んでいる服や小物はどれも見たことのないものばかりで興味をそそられた。

 やがて店主が近づいてきた。黒髪に丸眼鏡をかけた、品のある青年だ。

「いらっしゃいませ、それは根付と申しまして、東洋の品でございます。本来は帯につけるものですが、お守りにもなりますよ」

「可愛い、持ってみていいですか?」

「どうぞ」


 リオンの手の中に象牙で彫られた雪うさぎがちょこんと乗せられた。


「いかがですか?」

「ええと……」


 とても可愛いが、かなり高そうに見える。


「気に入ったならそれを買おう。他にも欲しいものがあったら好きに買っていいぞ」

「……ありがとうございます」


 いくつか買い物をして店を出ると、ショーウィンドウの前に人影があった。


「……おや。これは近衛騎士団長殿。こんな市井に、お珍しい」


 まるで待ち構えていたかのような挨拶に、レオハルトは一拍の間をおいて、静かに答えた。


「フェルナー卿、お久しぶりです」


 フェルナーは、ベルベットのダブレットに裏地が毛皮のマントを羽織っている。その横には上品そうな女性が微笑んでいた。

「これは、奥様でいらっしゃいますかな? 初めてお目にかかります」


 フェルナーの視線が、リオンの顔から足元までを無遠慮に往復する。

 その視線から逃れるように、リオンはレオハルトの半歩後ろに下がった。

 レオハルトの肩が庇うように半歩、前へ出た直後――リオンは姿勢を正して、腰から体を浅く折った。

 片手を胸元に当て、優雅に頭(こうべ)を垂れる。

 まるで舞踏会で出会った旧知の貴族にするような、完璧な礼だった。


「わたくし、リオンと申します。お目にかかれて光栄です」


 フェルナーの表情が一瞬止まり、気まずげに唇が引きつった。

 その隣で、夫人が小さく目を見開いたのを、リオンは見逃さなかった。


「まあ、ご丁寧に。わたくしはフェルナーの妻、クラリッサと申します。

……お若いのに、とても美しい所作をなさるのね」


 夫人は、まるで心から感心したように、優雅に礼を返した。

 その様子を横目で見たフェルナーの顔は、さらに引き攣っていた。


「ふむ……なるほど。しっかり躾けておられるようで……では、我々はこれで」


 皮肉とも取れる台詞を残し、フェルナーは足早にその場を立ち去ろうとした。

 だが、妻は名残惜しげにリオンへと視線を送り、「本当にお綺麗な礼でしたわ」と囁くように言ってから夫に従った。

 レオハルトは呆けたようにリオンを見つめていた。


「あなたは……」


 小さく呟いたその声に、リオンが不安そうに首を傾げる。


「どうかされましたか? あっ、もしかして……さっきの礼の仕方、間違ってましたか?」


 その表情に気づいたレオハルトは、ふっと息をつき、視線を逸らした。


「……惚れ直し――いや、見直した。あんな所作ができるとは」

「後宮では、当たり前にやっていましたから」


 リオンは照れたように微笑んで、少しだけ胸を張った。

 後宮で習ったことは当たり前でやっていたことだけど……もしかしたら武器になるのかもしれない。


――小さいけれど、レオハルト様のためになるなら、これを使わない手はない。



カーン……

硬質な鐘の音が石造りの街に響いた。

第六の鐘、正午の合図だ。



  ※  ※  ※



 店で昼食をとった後、レオハルトとカイは御者に呼ばれて、馬車を見に行くことになってしまった。

 ジーンはその後ろ姿を眺めながら「食後に散歩でもいたしましょうか」と言った。

「この商店街の裏手に、湖畔の公園があります」

「わあ、行ってみたい」

「暫く寒い日が続きましたので、湖は凍っていると思いますが……」

 二人は話しながら、公園に向かう遊歩道を和やかに歩いて行った。


 ピキッ――冷たい音が、どこかで鳴った。

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