エピローグ 豊かさの光と忍び寄る影
カイルの前世知識がもたらした、二つのささやかな革命。
「ヴァルモットの白パン」と、高級美容石鹸「ヴァルモット・ボーテ」
それらは、辺境の地に、確かな「豊かさ」という名の光をもたらし始めていた。
クレストン・ベーカリーは、もはや町の小さなパン屋ではなかった。
カイルの助言とクロエの資金援助により、店舗は三倍の広さに増築され、多くの従業員を雇う、領内随一の大店へと成長を遂げていた。
店の前には、かつてほどの狂乱的な行列はできなくなったものの、一日中、客足が途絶えることはない。
町には、常に香ばしいパンの匂いが漂い、人々の心を豊かにしていた。
マリアは、実家が豊かになったことを、誰よりも喜んでいた。
彼女は、厨房でパン作りを手伝いながら、カイルへの感謝と、そして、日に日に大きくなる、憧れとも恋ともつかない特別な感情を、その胸の中で大切に温めていた。
「ヴァルモット・ボーテ」は、クロエの卓越した商才によって、辺境の地の特産品という枠を、とうの昔に飛び越えていた。
彼女が確立した王都への販売ルートを通じて、その名はアストレア王国の貴族たちの間でも、垂涎の的となっていたのだ。
フォルクマン商会の名は、この歴史的なヒット商品によって、大陸に広く知れ渡ることになる。
クロエは、定期的にカイルへ送られてくる手紙の中で、熱っぽく、そして嬉しそうに綴っていた。
「カイル様という『最高の投資先』の価値が、私の手で証明されたことに、打ち震えるほどの喜びを感じています」
と。彼女の、カイルに対する信奉は、もはや揺るぎないものとなっていた。
カイルは、そんな領地の変化を、城のバルコニーから静かに見守っていた。
眼下に広がる活気に満ちた城下町を眺める。
人々の顔には、以前よりも多くの笑顔が浮かんでいるように見えた。
パン屋から出てくる子供たちの嬉しそうな顔。
市場で談笑する、以前よりも肌艶の良くなった女性たちの姿。
(よし。上々の滑り出しだ。この世界のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を向上させる、という僕の計画は、順調に進んでいる)
彼は、自らの知識が、人々の幸福に直接繋がっていることに、前世では決して味わえなかった、深い、深い満足感を覚えていた。
前世では、バグを修正しても、感謝されることは稀だった。
ユーザーからの罵詈雑言、新たなバグの発生、そして、次から次へと押し寄せる、終わりのないタスク。
だが、この世界では、違う。
自分がしたことの結果が、人々の笑顔という、温かい形で返ってくる。
この手応えこそが、彼が本当に求めていたものなのかもしれない。
(このまま、少しずつ、この世界をより良い場所に変えていければ。大きなデッドエンドさえ回避し続ければ、あるいは……)
そう、彼が、穏やかな未来への、淡い希望を抱いた、その時だった。
ズキン、と。
前触れもなく、彼のこめかみに、鋭い痛みが、まるで杭を打ち込まれたかのように走った。
それは、紛れもなく、デッドエンドを予知する時の、あの嫌な感覚。
「……っ!」
思わず、バルコニーの手すりに手をつき、カイルはその場にうずくまる。
だが、今回は、マリアやクロエの時のような、鮮明な未来のビジョンは見えない。
ただ、一瞬だけ、ノイズ交じりの、意味の分からない映像の断片が、脳裏に激しくちらついた。
――雪のように白い、どこかの大聖堂の、石畳。
――そこに広がる、一筋の、鮮やかすぎるほどの、血の赤。
――そして、誰かの、聞いているこちらの胸が張り裂けそうになるほどの、悲痛な叫び声――
(……なんだ、今のは……? デッドエンドの予知とは、違う……?)
すぐに痛みは引き、ノイズに満ちた映像も、幻のように消え去った。
だが、カイルの胸には、重い鉛を飲み込んだかのような、不吉な予感が、どす黒い染みのように残されていた。
あの血は、誰のものだ?
あの叫び声は?
何も分からない。
だが、これまでの予知とは質の違う、もっと根源的で、抗いがたい運命の気配を、彼は確かに感じ取っていた。
カイルの知識は、人々の生活を豊かにし、少女たちの未来を明るく照らし始めていた。
だが、彼自身はその裏で、自分がまだ知らない、この世界の根幹を揺るがす、着実に迫りくる大きな滅びの影を、ただ一人見つめていたのである。
平和な日常は、まだ、薄氷の上にあるに過ぎないのだと。
彼は、バルコニーを吹き抜ける涼しい風に、改めて思い知らされたのだった。
本当の戦いは、まだ始まってもいないのだ、と。
僕の“鑑定眼”は未来まで見通します~【神眼】スキルを持つ辺境貴族、滅びの運命(デッドエンド)を回避してハーレムを築く~ のびろう。 @nobiro2525
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