第1話 『四畳半のはずが』⑦


午前二時十三分。


壁が、音もなく開いた。


人一人が通れるほどの黒い隙間。その奥から、カビと古い畳の匂いが漂ってくる。そして——微かな光。


「行くな!」


田所さんが俺の腕を掴む。だが俺の足は止まらない。まるで見えない糸に引かれるように、隙間へと近づいていく。


スマホのライトが、奥の空間を照らし出した。


そこは、確かに部屋だった。俺の部屋と同じ四畳半。ただし、時間が止まったような古さ。壁には昭和のカレンダーが掛かり、畳は褐色に変色している。


部屋の中央に、女性が正座していた。


背中を向けている。黒髪が畳まで伸びている。着物は白いが、ところどころ赤黒いシミがある。


「房江……?」


田所さんの声が震える。


女性はゆっくりと振り返った。


顔は、美しかった。四十年前のまま、若々しい顔。ただし、眼球がない。空洞になった眼窩から、暗闇が覗いている。


『やっと、七人目が来たのね』


声は口からではなく、壁全体から響いてきた。


『私は、ずっと待っていた。この部屋を完成させる、最後の一人を』


俺の手が勝手に動いて、スマホを構える。録画ボタンを押してしまう。


『記録して。私たちの永遠を』


隙間の奥から、黒い手が伸びてきた。


いや、手じゃない。よく見ると、それは髪の毛だった。無数の髪の毛が編み込まれ、手の形を作っている。


その手が、俺の頬に触れた。


冷たい。そして湿っている。


『あなたの顔、素敵ね。私の次の顔にちょうどいい』


髪の手が、俺の顔をなぞる。その軌跡が、焼けるように熱い。鏡を見ると、俺の顔に赤い線が走っている。まるで縫い目のように。


「やめろ!」


隣室の男性がスマホのフラッシュを焚いた。強い光に、髪の手が一瞬ひるむ。


その隙に、田所さんが叫んだ。


「房江! お前は房江じゃない! 房江は優しい女だった!」


女性の動きが止まる。空洞の眼窩が、田所さんを向いた。


『優しい……? 私は優しいわ。だから、みんなを一緒にしてあげる』


髪の手が今度は六本に増えた。それぞれが、失踪者たちの手を模している。相沢美咲の細い手、田中浩二の厚い手……


全ての手が、俺を掴んだ。


引き込まれる。隙間の奥へ。


しかし、予想外のことが起きた。


俺のスマホから、声が聞こえてきたのだ。


『助けて』


若い女性の声。画面を見ると、録画していたはずの映像が勝手に切り替わっている。


そこには、本物の相沢美咲が映っていた。二十年前の姿のまま。


『私たち、まだ生きてる。この部屋の中で、ずっと』


画面が次々と切り替わる。田中浩二、他の失踪者たち。全員が必死に訴えている。


『あれは房江じゃない』


『部屋が作った、偽物』


『本当の出口は——』


映像が乱れた。そして、新しい画面が映し出される。


壁の設計図だった。そこには、隠された通路が描かれている。北側の壁の中を通って、屋上へ続く階段。


『ここから、逃げられる』


だが、その瞬間——


髪の手が、スマホを叩き落とした。


『余計なことを……』


女性の顔が、怒りに歪む。いや、顔自体が変化し始めた。房江の顔から、別の何かへ。


無数の顔が重なり合った、異形の貌。


『もう、優しくしない』


黒い髪が、部屋中に広がり始めた。天井も床も、全てを覆い尽くす勢いで。


逃げ道が、なくなる——




**次話**

絶体絶命の瞬間、田所さんが最後の切り札を出す。それは四十年前、本物の房江が残した手紙。「もし私が怪物になったら」という書き出しで始まるその手紙には、部屋を浄化する方法が……。

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