第1話 『四畳半のはずが』⑤
管理人室のドアは開いていた。
「田所さん?」
返事はない。隣室の男性と顔を見合わせ、恐る恐る中を覗く。
部屋の壁一面に、二〇一号室の間取り図が貼られていた。数十枚、いや百枚以上。そして全てに赤いペンで『もうすぐ完成』の文字。
田所さんは奥の座椅子に座っていた。目を閉じ、何かをつぶやいている。
「……あと三日……あと三日で房江が……」
「田所さん!」
老人がゆっくりと目を開けた。その瞳は焦点が合っていない。
「お前か……七人目」
「奥さんを、生き返らせようとしているんですか」
田所さんは力なく笑った。
「生き返る? 違う。房江は死んでない」
震え声で続ける。
「あの女は、壁の中に入り込んだんだ。自分から」
男性が間取り図を手に取った。日付を見て息を呑む。
「これ、全部違う日付だ。二十年間、毎日描いてる」
「部屋を、少しずつ狭くしてるんです」
田所さんが立ち上がった。
「房江の居場所を作るために。でも足りない。材料が足りない」
「材料?」
「人間だよ。部屋に溶け込んだ人間。六人じゃ足りなかった。でも七人目で——」
突然、アパート全体が振動した。
二〇一号室から、激しい物音が聞こえる。
俺たちは階段を駆け上がった。部屋のドアは内側から軋んでいる。鍵を開けて中に入ると——
壁が、呼吸していた。
石膏ボードが膨らんだり縮んだりを繰り返している。まるで巨大な肺のように。
「おい、あれ」
男性が指差す先、壁のシミが人の形をはっきりと描いていた。女性が両手を広げて、こちらに近づいてくるような形。
そして、壁から声がした。
「やっと……会えるね」
女の声。でも相沢美咲の声じゃない。もっと年配の、湿った声。
「房江さん……ですか」
壁がさらに大きく膨らむ。亀裂が走り、石膏の粉が舞う。
「七人……七人の命で、やっと一人分の隙間ができる」
隙間? そうか、消えた半畳分の空間。あれは人を取り込むための——
「逃げろ!」
男性が叫ぶ。だが遅かった。
壁に大きな亀裂が走り、中から白い腕が伸びてきた。細く、病的に青白い腕。爪は異常に長く、黒く変色している。
腕は俺の足首を掴んだ。
「一緒に……なろう」
引き込まれる。壁の中に。男性が俺の腕を掴んで引っ張るが、向こうの力が強すぎる。
「離せ!」
もがいても無駄だった。壁の亀裂が広がり、中の空間が見えた。
そこは、四畳半の部屋だった。
ただし、普通じゃない。壁も床も天井も、全てが肉のような質感で脈打っている。そして中央に、髪の長い女性が座っていた。
顔は見えない。でも、俺には分かった。
あれは田所房江じゃない。
六人の失踪者が融合した、何か別のものだ。
女性がゆっくりと顔を上げる。その顔は——
「これで……完成」
俺の顔だった。いや、相沢美咲の顔でもあり、田中浩二の顔でもある。見る角度によって変化する、複数の顔が重なった異形。
腕に力が込められる。俺の体が壁の中へ——
その時、階下から田所さんの叫び声が響いた。
「房江! それは房江じゃない! 騙されるな!」
一瞬、引く力が弱まった。その隙に男性が俺を引っ張り出す。
壁の亀裂が閉じ始める。中から恨めしそうな声が漏れる。
「あと……一人……あと一人で……」
亀裂が完全に閉じた。部屋は元の静寂を取り戻す。
ただし、壁のシミは確実に大きくなっていた。
もう、布団まで三十センチもない。
**次話**
田所さんが重要な事実を告白する。本物の房江は四十年前に病死していた。壁の中にいるのは、房江の執念が作り出した「部屋の意識」。そして、それを止める方法はただ一つ……。
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