2|斯人

 斯人が書寂館の呪縛から解放された、次の日。

「ああ、詩音。あなたがこれほどまで無能だとは思いませんでした。少しでも見込んだ僕は、目も耳も何もかも、カリウムチャネルに至るまで節穴だったようです」

「言い方!」

 斯人に罵倒される羽目になったことの発端は、数分前にさかのぼる。

 朝起きてすぐに身支度をすると、詩音は書寂館を訪ねた。昨日は結局、もうすぐ開館するからと家に帰されたのだが、体質が変わってしまった斯人が気がかりで仕方なかったのだ。

 館に飛び込むと、いつも通り愛想のない斯人が迎えた。元気そうな様子にほっとしていると、

「おはようございます、詩音。昨日はどうも、お手数をおかけしました」

「ううん、気にしないで。わたしこそ……その、勝手に加護をなくしてしまって、ごめんね」

「構いません。その責任をとるために、今日もここへ来たのでしょう。あなたのせいで自由になれたんですから」

「え? いや、わたしはただ斯人くんの体が心配で……っていうか、日本語変じゃない?」

「口答えする暇があったら、頷くか首肯するか点頭するかしなさい」

「是が非でも頷かせようとしてる⁉」

 とはいうものの、責任をとって差し入れをしたり、仕事を手伝ったりすると約束したのは詩音だ。それをただの場の勢いだったと反故にするつもりはない。それに、図書館の仕事に携われるなど、司書志望の詩音にとっては降って湧いたような僥倖だ。ここで修業を積めば、夢に一歩近づけるかもしれない。

「……よし、わかった。わたしは何をすればいいの?」

「そうですね、今から資料装備をしようかと思っていたので、それを覚えてもらいましょうか」

 図書館の本は、発行されたそのままの姿で配架されるわけではない。帯を取り、バーコードや請求記号ラベルを貼って透明なブックカバー――通称ブッカー――をかけ、天地印を押してようやく書架に並ぶ。その一連の作業を、ここ書寂館でもするというのだ。

「おおっ、図書館っぽい仕事!」

「図書館ですよ、ここは。何を今さら」

 斯人は呆れながらカウンターにつくと、山になった本に手を伸ばした。詩音は首をかしげる。その本は、すでに装備されていた。

「図書館の加護については重々ご存じだとは思いますが」

 詩音が問いかける前に、仕書は口を開いた。

「それとは別に、仕書には術を使う霊力が宿ります。その一つがこの装転そうてん。通常の図書館と違って資金が潤沢でないため、愚直に書籍を購入することはできません。そこで、通常の図書館から借りてきた蔵書の魂をコピーして、この依り代に移すのです」

「ここの蔵書、全部そんな風に……⁉」

「ええ。違法コピーに類する行為のようにも思えますが、だからといって現世の人間に資金を求めることはできませんから。ちなみに、出来上がったコピーの本は霊体ではなく、普通の本と同じです。彼岸の人々は、物体をすり抜けるイメージがあるかもしれませんが、任意で物に触れるので」

 斯人が本に手をかざすと、まるで脱皮するように、本が幽体離脱を始めた。燐光を放つ幽体が、用意された短冊形の紙片に移されると、紙片は幽体になじむように形を変え、やがてもう一冊の本へと生まれ変わる。

「……と、この作業を頼みたいのですが」

「ちょちょちょ、無理でしょ! わたし人間だよ⁉」

「僕も人間ですよ」

 まるで化け物扱いされたような気分で、斯人が苦い顔をした。

「先程、仕書には霊力が宿るといいましたが、仕書にしか宿らないとは言っていません。普通の人の中にも、いわゆる霊感があったり、奇跡を起こしたりと、霊力の素質がある者はいるんですよ」

「えっ……でも、わたし、霊なんて全然見えないよ? 奇跡なんかも起こしたことないし」

「しかし、霊力の素質があるのは確かです。その証拠に、あなたはここへやってきた」

 詩音が首をかしげていると、斯人は指を立てて説いた。

「考えてもみてください、あの世とつながっている場所など知れ渡ったら、人は何をしでかすかわかりません。ゆえに、書寂館は非公式で秘匿された存在。だから緘口令を敷いたのですが、それはさておき。周りは人払いの結界に囲まれていて、通常は無意識にこの場所を避け、外から見ても、まるで盲点に入ったかのように認識しなくなります。だからこうして人が訪ねてくることなんて、まずないんです。まれにあるとすれば、その人はすべからく、結界を破る程度の霊力をもっている。あなたもしかりです」

「そうなのかな……じゃあ、わたしが気づいていないだけ?」

「霊力にもいろいろな形がありますから、感受性には表れないだけかもしれません。とにかく、霊力がある限り、誰でも練習すれば、この術は使えるようになります。まず、本に手をかざしてみてください。そして、その本質に集中してください」

「こ……こう?」

 斯人の真似をして、本に手をかざし、物の本質とやらを意識してみる。が、何の変化も訪れない。

「で、できないけど……」

「教示が難しかったのでしょうか。こう、中を透かし見て、それを持ち上げるように」

「うーん……」

「いうことを聞かない犬のリードを引くように」

「うーん……?」

 その後も、斯人は数多の直喩隠喩提喩換喩を用いて詩音を指導するが、彼女はうなるばかりで一つも成功しない。

 やがて、

「ああ、詩音。あなたがこれほどまで無能だとは思いませんでした」

 そう見限られるに至った。


***


「仕方ないので、書架整理でもしておいてください」

 そう言い渡された詩音は、頬を膨らませながら書架へ向かった。

 途中、振り返ると、斯人は生成した本に指を置いたり、手を滑らせたりして、要領よく装備を進めていた。ブッカーやラベルなども、霊力によるものらしい。あまりにもよすぎる手際は、プロの技そのものだった。

「勝手に霊力があるなんて決めつけて、無能だなんて。ひどいよ、もう」

 ぶつぶつと文句をたれながらも、詩音は書架の本をそろえ始めた。しばらく、黙って作業を行う二人の手元から生まれる無機質な音だけが場を支配した。静寂に終止符を打ったのは、斯人のため息だ。

「これで全部ですか……。詩音、そちらはどう……⁉」

「ん?」

 呼ばれて、詩音は高所から斯人を見下ろした。彼女が乗っているのは、木製の椅子を組み合わせて作られた簡易な踏み台。ぐらぐらと揺れていて、見るからに危なっかしい。

「何をしているんです⁉」

「書架整理だよ。斯人くんがやれっていったんでしょ?」

「ええ、質問が悪かったですよ! 何を踏み台にしているんですかと聞いているんです。脚立を使いなさい、脚立を!」

「えー、脚立なんてどこに……わ⁉」

 周囲を見回そうとしてバランスを崩した詩音は、重力に抗えるはずもなく落下。同時に、簡易踏み台が崩れる音が響いた。

「び、びっくりした……、あ」

 顔をあげて、詩音は固まった。すぐそば、ほんの十センチほどの距離で、彼と目が合った。イケメンというより、美人という表現が似合う整った顔にはめ込まれた双眸。詩音は、これまで黒目がちだと思っていたその瞳が、間近で見ると深い緑をしていることに気が付いた。

 呆けるように見とれていると、常盤色が不機嫌そうに細められた。

「僕はびっくりした上、ぎっくり腰になりそうですよ。早くどいてください」

「あっ、ご、ごめん!」

 詩音は慌てて体を起こした。彼女は、下にいた斯人を押し倒し、覆いかぶさるように倒れていたのだ。

「大丈夫? ぎっくり腰になっちゃった?」

「いいえ、韻を踏んだだけです。ご心配なく」

「何それ……?」

 ふきだしそうになりながら、詩音は斯人の手を引いて助け起こした。一息ついて、詩音は、斯人がカウンターを離れた理由に気づき、声をかける。

「お仕事、終わった?」

「ええ、目処はつきました」

 そう言って、斯人は窓の外に目を向けた。こらえきれない高揚感を察して、詩音は笑みをこぼす。

「じゃ、さっそく行こっか」


***


 きれいな夕日が見えたら、次の日は晴れる。言い伝え通り、今日は文句なしの晴天だ。

「では、行ってきます……お館」

 斯人は扉の前で深々と頭を下げると、六年ぶりの外へと足を踏み出した。予想以上のまぶしさに、目をつぶる。

「大丈夫?」

「慣れてくるとは思います」

 斯人はジャケットを脱いで、シャツに黒いベストだけの格好だ。さすがに、燕尾襟つきのテーラージャケットは人目につく。栞付きリボンタイも、ポケットの中にしまっていた。

「それにしても、詩音はどうしてまた、この森に入ったんですか」

「お父様と喧嘩しちゃって、プチ家出してたの。でも、おかげで斯人くんに出会えてよかった」

「そうですか」

 斯人は町へ下りる道を覚えているらしく、詩音と遜色ない足取りで歩を進めていく。やがて、木立を抜けると、斯人は嘆声を漏らした。

「懐かしい……ような、新鮮なような。複雑ですね」

「六年ぶりだもの、もう新しい世界みたいに感じるでしょ」

 しきりにきょろきょろしながら、斯人は詩音について歩いた。

「この辺りはあまり覚えていません……あっ、もしかしてあれですか?」

 斯人が車道を挟んで向かいの道を指さしながら、青信号の横断歩道を渡ろうとした。その時、

「危ない!」

 詩音が慌てて斯人の腕をつかんで引っ張った。二人の目前で、車道の端を歩道の延長線と勘違いしているのか、信号を無視した自転車が走り去った。

「もう、危ないじゃない、ちゃんと周りを見ないと」

「青信号でしたよね」

「それでも! 右見て、左見て、もう一度右見て、渡るの!」

 長らく道路に出ていなかった斯人は、そのあたりの感覚が欠如しているらしい。詩音の言いつけに素直に従って安全確認した後、斯人は改めて道を渡った。

 そして到着したのは、今も花びらを舞わせる桜並木が植えられた歩道。人々が一瞥もくれずに通り過ぎる街路樹の一端で、斯人は満開の桜を恍惚と見上げていた。

「きれいでしょう?」

「きれいです……薄い花びらが、日の光の中で輝いて……詩音が言ったとおりです」

 斯人は、この世の全てに意識をつなげるように瞑目した。

「枝が揺れる音、乾いた晴れの香り、日差しの温かみ……。ああ、忘れていました。これが……世界なんですね」

 その言葉に、詩音は心が震えるのを感じた。彼女が何の気なしに過ごしてきたこの世界は、斯人が長く長く待ち望んでいた、尊いものだったのだ。今、積年の憧れの真ん中に立った彼の心中たるや、詩音にははかり知ることができないだろう。

 斯人はそっとまぶたを上げると、詩音を見つめ、花の色より淡い淡い笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、詩音。あなたのせいで自由になれて、よかった」


***


 そのまま、詩音は斯人を連れて町をそぞろ歩いた。公園、神社、小学校……と見てまわっていると、だんだん斯人の歩くペースが落ちてきた。

「もしかして、疲れちゃった? そっか、ずっと室内にいたから、あまり体力ないのかな」

「疲れた……んですかね、ちょっとよくわかりませんが……なんだか、この辺りに違和感が」

 そう言って、斯人は自分の腹部に手を当てた。詩音はぎょっとして、

「え、だ、大丈夫? 痛い? 気持ち悪い?」

「不快ではありますが……痛みとは違うような。何でしょう……」

「どうしよう、急に連れ出したから体調が……⁉」

 慌てふためく詩音の耳に、小さな声が届いた。鳴いた虫は、斯人の腹の中にいるようだ。

「……もしかして、お腹すいてる?」

「ああ、そうか。これは空腹の感覚だったんですね」

「心配させないでよ、もう!」

 飲まず食わずの加護があった斯人は、空腹さえも忘れてしまっていた。脱力した詩音に、斯人は眉根を寄せて言う。

「意識したら、耐えられなくなってきました。あなたのせいですよ、責任とってください」

「わ、わかったってば。書寂館って、台所とかある? 十歳までは斯人くんもご飯食べてたんだよね?」

「ありますよ。冷蔵庫と、電子レンジと、コンロもそろってます。ただ、ホコリをかぶっているでしょうね」

「料理の前に掃除が必要だね……」

 詩音は苦笑しながら、スーパーのほうへ足を向けた。


***


 三階の生活空間は、階段がある本館だけでなく両翼にも広がっているようだった。台所があるのは、入口から見て左の棟だ。

 ようやく台所を使用可能な状態にしたころには、斯人の我慢も限界に近づいていた。

「詩音、もういいです。食べましょう、買ってきたもの、そのまま」

「だめだよ! 斯人くんは絶食後なんだから、ちゃんとお粥にするの! というか、卵とニンジン、生だよ⁉」

 幸い、鍋などもそのままあったので、軽くすすいで使うことにした。詩音はスーパーで購入した白米と卵、ニンジンを袋から取り出し、そこでふと疑問を覚えた。

「水と電気って、どうやって引いてるの?」

「電気ではなく、霊力をエネルギーに変換して使っています。水はこっそり引いていますが」

「霊力で動く電化製品ってどこで買えるの……まあいいや。とりあえず、まずはお湯を沸かします。斯人くん、その間にニンジン切……れる?」

 頼みかけて、語尾は疑問形に終わった。よく考えれば、詩音が十歳の時といえば、調理実習を通して、おそるおそる包丁を握り始めたころだ。

 まして、十歳からこちら、料理する機会などなかった斯人に、まともな手つきを期待していいものか怪しい。

 心配する詩音の前で、棚から包丁を取り出した斯人は「こうですか?」と勢いよく刃を振りおろした。

「きゃあぁー⁉」

「な⁉」

「そんな切り方! 危ない! 手を切っちゃうし、ニンジンが宙を舞うよ⁉」

「今の声、もしかして詩音ですか? 切られたニンジンの断末魔かと思いましたよ」

「マンドラゴラ⁉」

 冷や汗たらたらの詩音が、「手は猫の手!」「野菜は押し切り!」と教授するが、台所に立つのも初めての斯人はぎこちない。

 詩音は、ほんの意趣返しの気持ちで、ちょうど同じ文言を引用してため息をこぼした。

「ああ、斯人くん。あなたがこれほどまで無能だとは思わなかったよ」

「ということは、あなたの目や耳やカリウムチャネルは節穴だったのですね。まあ、だろうとは思いました」

「だろうと思ったの⁉」

 結局言い負けた詩音は、

「もう、そうじゃないってば! こう、だよ!」

 無気になって斯人の後ろに回ると、包丁を持つ彼の手に右手を重ねた。反対の左手は、やはり斯人の左手をつかみ、猫の手になるよう指の形を作らせる。

「こうやって野菜を押さえる! 包丁はこう! 動きを覚えて!」

 背中から前に腕を回し、斯人の両手を動かす。まるで二人羽織だ。

 ようやく斯人自身で正しい動きを作れるようになると、詩音はホッとすると同時に我に返った。異性の背中にぴったりと密着し、手を取っていた自分の体勢を客観的に見直して、彼女は瞬く間に赤面した。

(わ、わたしったら、必死だったとはいえ、なんてことを……!)

「詩音、水が泡立っています。これは沸騰ではありませんか?」

 詩音とは対照的に冷静な斯人が指摘する。なぜ落ち着き払っていられるのかと解せない気分で、詩音は鍋に白米を投入した。

「残りのニンジンはわたしがみじん切りにするから、卵を割ってくれる? これくらいならできるよね?」

「割ればいいんですよね。こうやって」

 台の角に思い切りぶつけられた卵は、あっけなく崩壊した。

「ああーっ、もう! 力入れすぎ! あと、卵は平面に打ち付けるの! わたしがやるから、斯人くんは台を拭いて!」

 あわただしくも調理は進んでいき、ようやく二人分のニンジン卵粥が完成した。

「今さらだけど、館内で食べていいの?」

「三階の、ここならいいですよ」

 椅子が三脚入れられた、四角いテーブルが食卓らしい。二人は向かい合うように座って、木製のさじをとった。

「いただきまーす!」

「いただきます……んぐ⁉」

「え、どしたの⁉」

 一口食べた斯人が、慌てて口を押える。ぎゅっとつぶった目じりに、わずかに涙が浮かんでいた。

「熱い……っ」

「あたりまえだよ! まさか、やけどしたの?」

「ヒリヒリします……せ、責任とってください」

「法廷で証言してもいいくらい自信あるけど、わたし悪くないよね。もう……お水とってくるから」

 台所に戻りながら、詩音はおかしくなって、くすくすと笑った。

 出会ったときは、人間離れした完璧さを醸し出していた斯人。実際、仕事も手際がいい。なのに、横断歩道の渡り方も危なっかしくて、料理はからっきし。あげくに食べ物でやけどするなど、まるで子供だ。

「子供、なんだろうな」

 蛇口をひねりながら、詩音はそうひとりごちた。

 六年間、仕事だけに従事してきた彼は、その間、あらゆる面での時が止まっていたのだ。いくら業務が玄人の腕だとしても、彼の中には、未熟な十歳の子供の部分が多く残されている。

(……たくさん、いろんなことを教えてあげたいな)

 春休みがもう残りわずかなのが、悔しくてもどかしくもあった。


***


 食後、一階に戻ると、二人は次の作業に移った。本の修理だ。

 返却の際に傷みに気づいたものや、利用者から指摘されたものはすでにカウンター内に引き取ってある。その他、配架されている本の中で傷んでいるものを取ってくるのが詩音の仕事だ。斯人は、いわずもがなカウンターで修理作業をしている。

「わたしにも霊力があったら、こうやって指でなぞるだけで修理できちゃうのかなー……」

 破れかけたページの端を触りながら、詩音は唇を尖らせた。祖母は、どこであったかお守り石で有名な神社の巫女だったようだが、詩音自身はそのようなものに縁もゆかりもない。

「もしかして、おばあ様ならできるのかな?」

 そんな想像をしながら、ページが傷んだその本をブックトラックに乗せた。もう十分な数を集めたので、いったん斯人の元へ戻ることにする。

 ブックトラックを押すだけでも、司書になれた気がして、自然と頬が緩んだ。だが、それもカウンターを目にした直後、一瞬で消し飛んだ。

「斯人くん⁉」

 詩音はブックトラックを置いて駆け出した。斯人は、作業台に体を預けてぐったりと伏していた。意識はなく、微動だにしない。

「お、起きて! 何、どうしちゃったの⁉」

 カウンター越しに揺すると、斯人は身じろぎした。顔を上げた彼の目はぼんやりしている。

「詩音……?」

「大丈夫⁉ 気分悪いの⁉」

「詩音……あなた、食事に何か盛ったでしょう……意識が朦朧として、たまりません……」

 斯人はそう言うと、口に手を当てて小さくあくびした。

「……斯人くん、あれから寝た?」

「寝てませんけど……ああ、なるほど。これは睡魔ですか」

「頼むから、頼むからびっくりさせないでよ!」

 今日はひやひやしっぱなしだ。詩音はふらつく斯人をどうにかソファまで連れて行き、そこに寝かせた。もぞもぞと体勢を整えると、彼はすぐに寝息を立て始めた。そつがない仕書の無防備な寝顔を見て、詩音は思わず笑ってしまう。

「毛布とか、ないかな……」

 室内は快適な温度で、風邪をひくとも思えないが、このまま放っておくのも無粋だろう。詩音は生活圏である三階へと向かった。

 階段を上がると、詩音は視線を巡らせた。見える範囲に、掛け布団になりそうなものはない。大きめのキャビネットに歩み寄り、ここに収納されているだろうかと手を伸ばし――ふと、その上に写真が二枚、写真立てごと伏せられているのを見つけた。

 ごくりと唾をのむ。得体のしれない書寂館にも侵入するほどの好奇心の強さだ。詩音の中で、興味と背徳感がせめぎあった。手を伸ばすこともできず、かといって視線を逸らすこともできない。

 膠着状態が続いた。

「――どうされましたか」

 突然、背後から声をかけられ、詩音は飛び上がりそうになった。反射的に振り向くと、そこには見たことのない男性が立っていた。

 二十歳くらいの青年だ。斯人が成長したらこのようになるのだろうか、美しい顔立ちと白い肌が似通っていた。ただし、髪は純白で、斯人とは正反対。あげく、服装は白と水色を基調とした狩衣だ。斯人以上に人間離れしている。

 否、彼は人間ではないだろう、と詩音は直感した。

 その黄金の瞳に既視感を覚えて、彼女はあっと声を上げた。

「もしかして……ハク?」

「ご明察。この姿では初めまして」

 ハクは、両腕を反対側の袖に入れた姿勢のまま、恭しく礼をした。

「すごい、人間姿にもなれるんだ」

「はい。斯人様の業務補助のほか、外に出られない斯人様に代わって、装転のための図書を借りに行ったりもしますので。もちろん、服装については人目に注意しますが」

「そっか、これまでそうしてたんだね」

「ええ」

 ハクは、無愛想とまではいかなくとも表情の乏しい顔でうなずいた。

「それよりも……詩音様はその写真が気になるご様子」

「あ、うん……でも、見てないよ」

「そのほうがよろしいかと。斯人様がなんと仰るかわかりませんので。せっかく親しくなられたのに、そのようなことで仲違いされてはもったいない」

「そ…そうだね。ご忠告ありがとう」

 ハクの言葉で諦めがついた詩音は、本来の目的を思い出して声を上げた。

「あ、そうだ、ハク。今、下で斯人くんがお昼寝しているから、毛布か何かあれば持っていきたいの」

「私が持っていっておきましょう。しばらく起きられないと思いますので、詩音様はどうぞお帰りください」

「そう? んー……わかった。じゃあ、斯人くんによろしくね」

「かしこまりました」

 詩音は階下へ下りた。そして、まだ健やかに眠っている斯人を見届けると、彼女は小さく手を振って、書寂館を後にした。


***


 目が覚めたのは、夜中の一時だった。

 早めに床に就いたからか、もう一度眠れる気がしなくて、詩音は体を起こした。起きてすぐに頭に浮かんだのは、帰り際に挨拶もできなかった疲れ気味の仕書のこと。

「大丈夫かな、斯人くん……仕事に支障とか出てないかな」

 書寂館は開館している時間だ。詩音は思い切って着替えると、そっと家を抜け出した。

 夜の森は、まるで混沌とした別世界のような不気味さがあった。書寂館で幽霊を見て慣れてしまった詩音は、その出現など少しも恐れてはいないが、長居したい雰囲気ではない。小走りで書寂館にやってくると、静かな喧騒を期待して戸を開いた。

 しかし、詩音を待っていたのは、昼間と同じがらんと空いた館内だった。利用者が一人もいなければ、仕書の姿もない。

「……斯人くん?」

 呼んでも返事は帰ってこない。さすがに、まだ寝ているということはあるまい。

「ハク、いる?」

 式の名も呼んでみるが、やはり詩音の声は残響の後、消えてそのまま終わるだけだった。

「何かあったのかな……そうだ、書寂館! 何か知らない?」

 見えないもう一つの存在、この図書館自体に問うてみるが、何の反応も示さない。書寂館は常に存在している以上、必ず聞こえているはずだ。無視しているのだろう。彼にとって、詩音は無理やり契約の一部を破棄させ、斯人を奪った天敵である。この反応はさもありなんといったところだ。

 詩音は館内をうろついた。書架の林のどこにも、人影はない。今日は休館だろうか。

 ついに、今まで来たことがない最奥部にたどり着いた。ちょうど階段の裏にあたるところで、ここからでは、森から入ってきた入り口は見えない。そんなフロアの果てに、異様な扉があった。

 有り体に言えば、洋書の表紙のような外見をしていた。深い茶色の地に、金色の額縁のようなデザイン。額縁の四隅には、曲線で形作られた模様が配置されている。中央には、タイトルのように何か書かれているが、言語も不明なうえに記号のようなカリグラフィで、一つも読めない。

 それでも、壁にはめ込まれた本のオブジェではなく、扉だと認識できたのは、金のドアノブがついていたからだ。

「この奥は……書庫かな」

 詩音はドアノブを握ると、扉をそっと引いてみた。

 すると、まるで本物の書物のように、表紙についてページがパラパラとめくられて、詩音は立ち尽くした。

「ドア……だよね?」

 数十枚めくられたところで、まばゆい光が見えた。昼間のような明るさだ。というよりも、そこは昼の世界そのものだった。

 足を踏み出すと、後ろでページが走る音がして、扉が閉まった。

「夜なのに、昼間……。まさか、ここがあの世……⁉」

 想像と全く違う景色に、詩音は驚嘆した。桜の木や、立ち並ぶ平屋は現世と同じで、しかし車道ほどの広さの道はなく、電柱も立っていない。まるで一昔前の日本のようだ。

 おっかなびっくり歩いていくと、三人の少女たちとすれ違った。小学校の低学年ほどの彼女らは、地面を滑るように、音もなく走り去っていく。それがこの世界が何たるかの証明だ。

「……あの歳で、死んじゃったんだ……」

 死者への恐れはなく、詩音はただ、そんな痛みを覚えた。

 なおも歩みを進めていくと、大きな広場が見えてきた。緑の芝がしきつめられた公園だ。そこに、人だかりができている。興味をそそられ、そちらへと足を向けた、刹那。

 全身の毛が逆立つような、耳障りな笑い声が頭上で響いた。

 心臓を鷲掴まれたような悪寒とともに天を振り仰ぐと、黒い不定形な物体が三つ浮いていた。目はない。鼻もない。だが、大きく裂けた口から歯がのぞいている。笑い声は、それらから発せられていた。本能が危険を察知した。

 慌てて走り出すと、地面に映った三つの影は追いかけてきた。しかも、影は徐々に大きくなっている――地面に近づいてきている。それに気を取られたからか、足がもつれて、詩音は転倒した。

「きゃっ⁉」

 倒れたまま体をよじって見ると、黒い物体がにじりよってくるところだった。どこからか、「出た!」「逃げろ!」と声がする。獲物を前にした黒い物体は、満悦そうに高笑った。高音と低音、男声と女声が重なったような、歪な不協和音。不気味な口は、詩音を飲み込むのも造作ないだろう大きさだ。

 襲われる――体の温度が一気に冷え込んだ、次の瞬間。

 ドドドド、という衝撃とともに、黒い巨体に何かが撃ち込まれた。呆然としているうちに、一体が消し飛ぶ。残りの二体が我先にと詩音に襲い掛かるが、それより早く、間に滑り込む姿があった。背中のテールが揺れる。

 彼は手元から光弾を放っているように見えた。それらが敵に次々と着弾し、存在ごと消し去る。三体とも葬ると、周りから歓声が沸いた。

「よっ、さすが仕書だ!」

「助かったぜー!」

 彼はそれに見向きもせず、振り向くと、

「詩音! どうしてここにいるんです!」

 怒る、というより、叱る口調で糾弾した。詩音は目をしばたたかせて、

「え、ごめん、書寂館の奥の扉を開けたら、ここに……」

「あの扉は術で閉め切っておいたはずなのに……無理やり解いたというのですか?」

「術? 何のこと? 普通に開いたよ?」

「……無意識に発動するタイプなのでしょうか、詩音は……。まあ、この際もういいでしょう。でも、今後は断りもなく彼此の扉を開けたりしないでください」

 斯人は大きく息をついた。詩音は「ひし?」と首をかしげる。

「彼岸と此岸をつなぐ扉です。ここは死後の世界ですよ。迷い込んで出られなくなったら神隠しです。さあ、早く帰りなさい……と言いたいところですが、またアレに襲われても難儀ですし、だからといって仕事中の僕がこれ以上持ち場を離れて送っていくのもいかがなものかと思いますので、ひとまず僕についていてください。勝手にどこかへ行かないこと。いいですね」

「はーい。……ところで、さっきの黒いのは何? めちゃくちゃ怖かったんだけど……」

「アヤメです」

「アヤメ?」

 公園の奥に戻る斯人は、ついていく詩音に道すがら説明した。

 アヤメは、平たく言えば悪霊。名前の所以は、曰く、『文目』も知らず――つまり道理や善悪の区別なく、他の魂を襲うから。曰く、黄色い『菖蒲』の花言葉である復讐を連想させるから。曰く、魂を『殺め』るから。

「アヤメは、元は人間の霊なんです。あの世の人々というのは、基本的に穏やかなのですが、並々ならぬ執念、負の感情をもっていると、あのような化け物に変貌します。そうなったら最後、もう戻らないので、元々人間の霊だったなどと情けをかけることなく消すしかないんですよ」

「そうなんだ……。もしあのまま襲われていたらどうなっていたのかな」

「それについては色々聞きますね。魂ごと消滅する、際限ない苦しみに襲われる、襲われた霊もまたアヤメになる……まあ、ろくなことがないので気を付けてください」

「は、はい……」

 うすら寒さを覚えながら到着した公園の奥地。そこには、六台連結された大きなブックトラックと、白いクロスがひかれたテーブルがあった。ブックトラックの取っ手にはワシミミズク姿のハクが止まっている。

 斯人は詩音に「大人しくしていてください」と言いおくと、仕事を再開した。テーブルをカウンター代わりに、ここで貸出や返却の業務を行っているようだ。いわゆる移動図書館である。

 詩音はカウンターの奥で、斯人に譲られたパイプ椅子に腰かけて、その光景を見ていた。

 当初、見ているだけの時間は、退屈なものになるかと思われたが、ひとたび斯人が動き出すと、たちまち詩音は釘づけになった。

 丁寧に用件を聞くところから始まり、貸出希望の本と利用カードを流れるような所作で受け取ると、無駄のない動きで素早く記帳し、恭しく相手に手渡す。全ての動作が完璧だった。まるで磨き抜かれた演劇か舞踊のように美しい。

 返却希望の利用者が来ても、本の所在を問われても、利用上の質問を矢継ぎ早に投げかけられても、そのリズムは崩れなかった。時々、詩音を誰何する者もいたが、斯人は当り障りのない答えを返して、順番待ちの人を待たせない。

 たどたどしい子供のような斯人は、ここにはいない。彼は今、文句のつけようもないほど熟達した、一人前の司書だ。その姿が、詩音にはまぶしくて仕方なかった。

 不意に、彼の髪が栗色のロングヘアに見えた。ペンやメモをポケットに詰めたエプロンが重なった。ちらりと見えた名札には、「白柳寺」と書かれている。彼女は、多忙など吹き飛ばす笑顔でくるくると動いていた。心の底から楽しそうに、本と、本を愛する人々に囲まれて働いていた。――そんな白昼夢を見た。

 詩音は思った。あの諍いは間違っていなかったと。進路希望調査を手にして父のもとを訪れたあの日。もし父の言いなりになって、盲目的に跡継ぎを選んでいたなら、こんな輝きを永久に手放していただろう。

 時間にして二時間たらず。斯人の閉館宣言で、本日の移動図書館は幕を閉じた。詩音は心の中で、主演の仕書に最大の拍手を送った。


***


「僕たちが今晩、書寂館を空けていたのは、この移動図書館のためです」

 人がはけた公園で、後片付けをしながら、斯人は言う。

「前に、彼岸では望めばどこへでも行けるといいましたね。ですが、わざわざ書寂館へ行くくらいなら本など読まなくてもいい、と考える方もいらっしゃいます。あるいは、一時的にせよ、此岸に戻るのを厭う方や、思い切りしゃべりながら誰かと本を眺めたい方など、書寂館を避ける理由は様々です。そんな方々にもサービスを提供するため、不定期ながら予告制で、こうして彼岸へ出向くのです」

「なるほどね」

 手伝いながら、詩音。

「斯人くん、こっちの世界なら外に出られるんでしょう? だったら、桜も町の景色も、そんなにお預けだったわけじゃないよね」

「今はこちらにいるからそう思うのでしょうが、帰って気づくと思います。この世界の風景もにおいも、何もかもが曖昧にぼかされていくのを」

「……どういうこと?」

「彼岸というのは、境界の曖昧な世界なんです。距離が曖昧だからどこへでもいける。感情が曖昧だから穏やかでいられる。そんな不確かな世界のことは、現世に戻るとあまり覚えていないんです。まるで前の晩に見た夢のように。だから、僕は現世の、本物の外の世界に触れたかったんです」

「そうだったんだ……」

 言われてみれば、周りの風景はハレーションのように少し不鮮明だ。空の色も、よく見るとピンクがかってふわふわした色彩に見える。かと思えば、そうでもないようにも見える。

「でも、これはこれで素敵な世界。また来たいな。それで、今度は仕事を手伝いたい」

「詩音はもう来ないほうがいいです」

 予想外にぴしゃりと言われ、本を整頓していた詩音の手が泳いだ。

「ど、どうして?」

「あなたや僕のような生きた人間は、彼此の扉で霊体化されるとはいえ、魂が濃いんです。そういうのは、アヤメに狙われますから」

「え……じゃあ、わたしや斯人くん、狙われやすいの?」

「そういうことです。僕は護身できますが、あなたはそうではないのだから、来ないほうが……」

 斯人の顔に緊張が走った。詩音も体をこわばらせる。

 四方八方で、高笑いが聞こえる。初めは見えなかったが、一体、また一体と姿を現していく、アヤメ。その数、片手の指では足りない。

「くっ……噂をすれば、ですか。詩音、僕から離れないでください」

 横目で詩音を見る斯人の目の色が徐々に変わっていく。暗い色の虹彩が、ハクのそれのような金色に染まるのを見て固まる詩音に、斯人は「戦闘時は少々不気味な目ですみません」と断った。彼はそう言うが、詩音のほうは不気味だなどとは一つも思わなかった。むしろ神々しささえ感じる、というのが率直な感想だ。

 斯人は突然、手のひらを上に向けて空中に差し出した。そこにキラキラとポリゴンの粒子が集まると、一つの道具に姿を変える。斯人の手にも余るほどの、大きな紙綴器だ。

「ホチキス……⁉」

「僕はステープラーという呼称のほうが気に入っているので、そう呼びますが、これはただのステープラーではありません。霊力を打ち出す武器です」

 言って、彼はそれを数回、素早く握った。その回数分、光の弾が撃ちだされ、アヤメに命中する。着弾したところからボロボロと崩れていくアヤメは、次のとどめで雲散霧消した。

 だが、それらはのべつ幕なしに襲ってくる。弾丸では攻撃範囲が狭いと踏んだ斯人は、横一直線に並んだアヤメをなぞるように、閉じたままの紙綴器を薙いだ。光線がアヤメの群れを水平にスライスする。

 頭上では、ハクも応戦していた。光をまとった翼やくちばしで一体ずつ相手にしている。

「普段はこんな大群では来ないのに。詩音の魂に引き寄せられましたかね……」

 忌々しげな斯人の背中に隠れながら、詩音はハラハラと様子を見守っていた。と、背後で物音がして、振り向く。

「本が!」

 書架代わりの大型ブックトラックに並べられた本が、アヤメに蹴落とされた。開かれたまま地面にたたきつけられ、ページが折れかけているものもある。咄嗟に拾おうと駆け寄る詩音の目前に、アヤメが迫った。

「詩音!」

 気を取られた斯人の右腕にアヤメが噛みついた。肘から先は気味の悪い口の中だ。斯人は嫌な汗をかきながら、アヤメの口腔内で弾を放つ。数発お見舞いして、ようやく解放されるも、詩音には手が届かない。

 アヤメが大口を開いた。憐れな魂を頭から呑もうとする。

 斯人は間に合わない。

 空中のハクも間に合わない。

 頭をかばった詩音の腕に、アヤメの歯が突き立てられた。そして、そのまま黒い口腔に飲み込まれる――誰もがそう思った。

「え……」

 本人よりも先に、斯人が状況を理解した。

 確かに、アヤメの歯は詩音の腕をとらえた。だが、接したところから、まるで斯人の光弾を食らったように、アヤメの方が壊れていく。そこでようやく、詩音も何が起こっているかを把握した。

「た、助かった……?」

 もう元の半分ほどしか残っていないアヤメに無慈悲な光弾が撃ち込まれ、ようやく全てが駆逐された。

 斯人はどっと疲れたように息をつくと、怪訝そうな顔で詩音を見つめた。目はいつもの色に戻っている。

「あなた……やっぱり、何か霊力をもっていますよね」

「そう……なのかな?」

「素手でアヤメに対抗できるなど……。体にまとうタイプでしょうか……? いえ、それは後です。詩音、僕言いましたよね。離れるなと」

「あ……」

 憤然たる面持ちで、斯人は詩音をにらむ。委縮する詩音をしばらく叱責の目で射止めていたが、やがて諦めたように視線をそらした。

「……まあ、今回はいいでしょう。自己責任、とったんですし」


***


 書寂館へ戻る彼此の扉に到着した詩音は、差し出された斯人の手を取って、ブックトラックから降りて地に足をつけた。

「まさかブックトラックに乗るなんて罪なことをすることになるとは思わなかった……」

「さすがに六台も引き連れて歩けませんよ、重すぎます」

 帰り道、二人は連結されたブックトラックの先頭車両に座って空中を走行していた。霊力をエネルギーに、列車のように動くブックトラックを使って、大量の書物や折り畳みのテーブル、イスを難なく運んでいたようだ。二両目以降は、乗せた荷物が落ちないように、横にも柵がついている。

「これに味をしめて、普通の図書館でもブックトラックに腰掛けたりはしないでくださいよ」

「しませんーっ」

 ぷりぷり怒る詩音を軽くあしらって、斯人は扉を開いた。来る時と同様、ページがパラパラとめくられ、書寂館への道ができる。自動走行のブックトラックを引き連れて中に入ると、耳に痛い静寂が迎えた。

「今さらですが、詩音……あなた、夜中に抜け出してきたんですか?」

「えへへ、その通り」

「怖いもの知らずにもほどがありますね。どれだけ肝が大きいんですか。肝臓肥大ですか」

「言い方!」

 軽口をたたきあいながら、中ほどまで進み――。

「斯人くん?」

「しっ」

 突然、斯人が足を止めた。息を殺して立ち止まる斯人に倣っていると、かすかな物音が詩音の耳に届いた。

 音源は上。リズミカルな、硬い音だ。足音のように聞こえる。

「……二階に、誰かいる……?」

「そのようですね。お館が認めた来客ならともかく、詩音のように不測の訪問者だとしたら……」

 ささやきあいながら、二人はそろそろと階段のほうへ歩みを進めた。斯人が、ブレザーのポケットから取り出した手帳を開いて、主に問いかける。

「お館、誰か招き入れたんですか」

 白紙のページに綴られた返事は、一言。

『上を見よ』

 を見よ参照に従って二人が顔を上げると、ちょうど足音が踊場へ下りてくるところだった。

 フリルが揺れる。

 スカートの裾が揺れる。

 エプロンが揺れ、金糸のごとき長い髪が揺れる。

 そして最後に、さえずりのような可憐な声に、止まっていた空気が揺れた。

「こんばんは、かくと」

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