書寂館
夜市彼乃
1|詩音
名は体を表すというが、実は無意識のうちに体が名ににじり寄っていくのであって、ならば詩を含め文学を、ひいては本というものを軒並み愛する性に育ったのもこの名を授かった瞬間からの使命であり、将来の道をその世界に繋げるのも必定というものではないか。
などというのは回りくどい言い訳ではあるが、この際どんな詭弁を使ってでも譲るつもりはない。十六年と六か月の生涯の中で反抗期らしいものがなかった彼女が一世一代のクーデターを起こすきっかけとなったのは、一枚の紙きれだった。侃々諤々の親子喧嘩の末、進路希望調査票を投げ捨てて、邸宅の裏に鎮座する山林へと飛び込んだ
「お父様のばかぁーっ! わからずや! 職業選択の自由を侵す極悪人ーっ!」
枝を踏み、息を弾ませ、木漏れ日の中をひた走る。がむしゃらに森を突き進んでいた詩音は、痛む肺と鉛のようになった腿の悲鳴をようやく聞き入れて、ゆっくりと足を止めた。栗色の長い髪は乱れ、咄嗟に履いてきたローファーは土まみれ。ここまで風貌を乱しながらも、醜態と呼ぶに至らないのは、さすが良家の息女の貫禄か。
うつむき、落ちかけたピンクの髪留めを直しながら、詩音はひとしずくの言葉をこぼす。
「家なんて継ぎたくない……わたしは司書になりたいのに……」
本に惹かれ、図書館に魅了され、司書に憧れた。その思いは、一人娘を財閥の後継者にしたい父との軋轢を生んだ。怒りこそしないが頑として譲らない父に、さしもの詩音も反抗し、家出めいたことをしてやろうと森に逃げ込んで今に至る。過保護な父のことである、今ごろ右往左往しながら、スマートフォンのGPS機能で愛娘を探していることだろう。だが、生憎、詩音は先んじて位置情報機能をオフにしているため、なしのつぶてだ。
「そういえば……この森、入ったことはあっても、こんなに奥まで来たことはなかったなぁ……」
常緑樹が空を覆うように葉を広げ、風に吹かれて時折さざめく。土のにおいはあまり気にならず、澄んだ空気が辺り一帯を満たしていた。ふと振り向けば、遠目に白い鳥が見える。フクロウのような珍しいシルエットに目を見開き、改めてここが未知の場所であることを認識した。
暗くなる前に帰ればいいや、と歩みを進め、緩い勾配をのぼった先の開けた空間に――それは、あった。
まるで十九世紀に迷い込んだのではと錯覚するような、ネオ・バロック様式の巨大な建物。四本柱の奥に扉を秘めた棟の左右には両翼が控えており、来る者の度胸を試すような、威圧的な迫力がある。
象牙色の壁も柱も、とても新しそうには見えないが、かといって醜く古ぼけている様子でもない。例えるなら、年をとってもなお背筋の伸びた華道家。あるいは生まれた時から老成した超越者。そんな、経年という概念から外れたような雰囲気を醸し出していた。
詩音はしばし呆けた。こんな森深い場所にある、それもヨーロッパの聖堂のような外観をした建築物。一体何の施設なのか、そもそも人はここを知っているのか。森の中に建物があるなどという話、一度として耳にしたことがない。
様々な疑問が渦巻くも、好奇心はそれら全てをねじ伏せて、詩音を突き動かした。中央の扉へ歩み寄り、高まる鼓動を抑えることすらせず、ドアの取っ手に手をかける。不安、恐れ、躊躇、そんなものを彼女はよせつけない。生来、行動的で怖いもの知らずな性格だ。ここへきて怖気づく由もなく、ゆっくりと重厚なドアを開き、屋内へと足を踏み入れた。
中は明かりがついていた。埃っぽくもなく、今も使われているような雰囲気だ。詩音は内部を見まわして、幾つも平行に並べられた物から建物の正体を推し量り、目を輝かせた。
「図書館だ……!」
濃い色合いをした木製の棚に詰められているのは本、本、本。ハードカバーが重々しく腰を下ろしている書架もあれば、あちらではスマートな新書が立ち並び、こちらでは文庫本が身を寄せ合っている。近づいて見てみると、どの本も、建築様式の古風さのわりにまだ新しそうだ。
「すごい……こんなところに、こんな素敵な図書館があったなんて!」
閲覧用と思しき机にも、ソファにも、利用者は一人もいない。立地が立地ゆえに、無名なのだろうか。知る人ぞ知る穴場なのかもしれない。職員の姿さえなく、ここからは見えないカウンターにでもいるのだろう、と詩音は推測した。カウンターが入口付近にない図書館も珍しい。
人っ子一人いない館内は、世界が音を忘れてしまったかのような静謐に包まれている。カーペットを踏むささやかな足音さえ楽しみながら、詩音は右手の書架へと向かおうとして――。
「――どちら様ですか?」
月夜のような声を聞いて、振り返った。声の主は、中央の巨大な階段の踊り場に、いつの間にかたたずんでいた。
モスグリーンをもっと暗くした、深い色のスーツのような服装をした人物だった。年若い青年――否、詩音と同じ年頃の少年だ。真っすぐな黒髪はおとがいの辺りまであり、前髪もやや長めだ。白い肌と線の細さが中性的な、人形めいた端正な顔立ち。しかし目つきは無感動に冷えていて、愛想という言葉からは地球半周ほど遠い。同年代のはずなのに、クラスメイトの男子たちが百年かかっても手に入れられないような、理知的で落ち着き払った風格をまとっていた。
「えっと……」
人間であるかどうかすら疑わしいほど洗練された雰囲気に、詩音は戸惑った。その間にも、彼は半紙のような静寂に黒い足音を落としながら、大階段を下りてくる。近づいてくるにつれて、スーツに見えたその衣服が風変わりなものであることに気づいた。
テーラードジャケットの襟は、セーラーカラーのように後ろに流れ、しかもその裾は切れ込みにより分かれている。燕尾服のテールのようだ。白いシャツの胸元に結んでいるのは臙脂のリボンタイだが、結び目からは短冊のような紙が垂れ下がっている。見ようによっては栞のようでもあるそれには、左右対称の見たことのないマークが施されていた。手にはめているのはフォーマルな純白の手袋。一式、何かの制服だろうか。
装いに気を取られていた詩音は、階段を下りきった少年へのいらえを失念していたことに気づき、慌てて口を開いた。
「わ……わたしは
「どうやってここへ来たんです?」
「えっ?」
交通手段を聞かれているのだろうか。だとしたら徒歩だ。
詩音がそう答えると、少年は「そうですか」とまぶたを閉じて、
「では、もうお帰りください。そしてこの図書館のことは、どうかご内密に」
「……は⁉」
淡々と言い放った少年に、詩音は詰め寄った。
「ちょ、ちょっと待って、どうしていきなりそんなことを⁉」
「ここはあなた方に開かれた図書館ではありません。お引き取りを」
口調は丁寧だが、強制退館させようとしていることに違いはない。彼が何者かも分からないままだが、万人に開かれし知の殿堂から利用者を無下に追い出そうなど、褒められた行為ではない。
取り付く島もない様子の少年をぎゅっとにらむと、詩音は記憶の海から武器を引き抜き、それを突き付けながら堂々と言い返した。
「あなた、知らないの? 国民はみんな、平等に図書館を利用する権利をもっているの。年齢とか、性別とか、そういうので差別されちゃいけないんだよ?」
――伊達に父と口論してまで司書を志望しているわけではない。詩音は、高校の勉学の傍ら大学レベルの図書館情報学を独学し、ある程度の理論武装をしているのだ。
少年は軽く目を細めた。それを不信と受け取り、詩音はなおもまくしたてる。
「嘘だと思う? じゃあ調べてみて。ユネスコ公共図書館宣言っていうのがあって……」
「――『公共図書館は、その利用者があらゆる種類の知識と情報をたやすく入手できるようにする、地域の情報センターである』」
詩音は瞠目した。ため息交じりに、少年は続ける。
「『公共図書館のサービスは、年齢、人種、性別、宗教、国籍、言語、あるいは社会的身分を問わず、すべての人が平等に利用できるという原則に基づいて提供される』……このことですかね」
よどみなく唱える口調には、一片の迷いも見られなかった。答え合わせの必要なく直感的に分かる。彼は、一字一句違えることなく宣言をなぞった。
唖然とする詩音に、少年は変わらぬ態度で応じた。
「確かにユネスコ公共図書館宣言にはそうあります。ですが、それがここにも当てはまるかといえば、答えは否です。まず、この図書館は公共図書館ではない。そして、国立国会図書館が基本的に十八歳以上しか入れないように、大学図書館が大学生にアドバンテージのあるサービスを行っているように、この図書館にも対象があるのです」
高みから降ってくるような少年の言葉に、詩音は何も言い返せなかった。自慢の知識は、一矢も報いることができなかった。たった一つの切り札を難なくいなされ、劣勢に立たされた詩音は、
「もう一度申し上げます。――お引き取りください」
有無を言わさぬ語勢に屈し、再び重い扉に手をかけた。
***
詩音は自室で、クッションを抱きながら仏頂面を浮かべていた。
結局、図書館での一件で毒気を抜かれた詩音は、素直に帰宅した。案の定、父は不安の海で溺死しそうになっていて、詩音は少し罪悪感を覚えたものだ。それからは、進路の話題は暗黙の箱に閉じ込めて、いつも通りに過ごすこと丸一日、現在午後五時四十五分。
「やっぱり気になるなぁ、あの図書館……」
春休みの暇に飽かせて、詩音はずっと山林の奥の不思議な図書館について考えていた。辺鄙な場所に立つ、ほぼ無人の書の宝庫。そして、あの慇懃ながら高圧的な態度の少年。
「内密に、か……。もしかして、何か秘密がある……?」
思い立ったが吉日、とすぐさま着替えて、母に断りを入れると、詩音は暮れだした森の中、バロックの館を目指した。行きは遮二無二走っていたため、往路の道筋は覚えていないが、帰りは冷静だったのでルートは大体わかる。しばらく進んでいた詩音は、歩を止めて辺りを見回した。
「この辺だと思ったんだけど……ないなぁ。まさか幻だったなんてこと……あっ、あれって」
近くの木の枝に、前回も見かけたフクロウらしき白い鳥が止まっていた。高さにして五十センチメートルを超えそうな大型のそれは、黄金色のどんぐり眼で詩音を見つめ返すと、突然翼を大きく開いた。思わず詩音は一歩退く。彼女の前を滑空し、紙飛行機のような姿は右ななめ奥へと飛び去っていった。その方向に灯る温かい光に気づいて、詩音は安堵の息を漏らす。どうやら、幻想などではなかったようだ。詩音は窓明かりへ向かって走り出した。
薄暗闇の中、どっしりと腰を据える図書館は、昼間とはまた違った趣を見せた。眠らない聖堂、というキャッチを思い浮かべてから、午後六時を過ぎてもまだ開館している事実に感心した。この辺りの市立図書館はもう床に就いている時間だ。
ドアノブを握ると、思考が額を横切るように駆けていく。昨日の少年はいるだろうか、また追い返されるだろうか、いや、いたとしても入る、そしてこの図書館の秘密を聞くのだ。彼らが走り去った後、よし、と詩音はドアを押し開けた。
中に入った詩音は、今度こそ幻覚を疑った。昨日とは全く様相が違うのだ。
書架の前では老若男女が品定めをし、ソファでゆったりと読書にふける人もいる。本を出し入れする小さな音、抑えられた話し声、めくられたページのため息。活気に満ち溢れた、静かににぎやかな図書館がそこにあった。
「なんだ……利用者、いるんじゃない」
自然と笑みを浮かべながら、詩音は昨日お預けを食らった右側の書架のほうへ歩き――すぐに、立ち止まった。ひどい違和感だった。こんなにもたくさん人がいるのに、まるで存在しているのは自分一人だけのような感覚。
その原因はすぐに分かった。足音だ。短い芝のようなカーペットを踏む音が、一つ分しか聞こえない。当たり前だ、見渡せば誰も彼も、足を動かして歩いてなどいない。床をすべるように移動し、無重力のような軽やかすぎる動きで椅子に座る。
これこそ幻影か。この世のものとは思えない光景に、しかし詩音は首を振る。彼らは、確かにそこに存在している。虚像などではない。かといって、この世のものと認めたわけでもない。
それは、きっと。
「あなたは――!」
足音がした。暗色に身を包んだあの少年が、焦燥した様子で詩音のほうへと歩み寄ってくる。
「なぜ、またここに……」
「ねえ、ここってもしかして」
少年の言葉を遮っておきながら、詩音はそれを口にするのをためらった。いくら大胆不敵な彼女でも、認めるのには勇気がいる。だが、これが現実なら。
「――幽霊に開かれた図書館なの?」
少年の、苛立ちと諦念の入り混じったような渋面が、その答えだった。
***
「ここまで見られた以上は、話さなければならないでしょう。ただし、他言無用です」
彼は詩音を見下ろして静かに言った。ソファに腰を下ろした詩音は、もちろん、とうなずく。
「きっと話したところで、わたしが変人扱いされるだけだもの」
「よろしい。僕の名は
こういう字を書きます、と斯人が空書するのを見て、詩音は感嘆を漏らした。
「書寂館……
日本最初の公立図書館の名に、斯人はわずかに目を見張った。
「公共図書館宣言しかり、やけに詳しいですね」
「わたし、将来は司書になりたいの。今から独学しているから、ほかの子より断然よく知ってるよ」
「昨日の今日で、よくまあ僕の前で言えますね。図書館学の前に身の程について勉強されてはいかがですか」
「言い方!」
声を荒らげる詩音を無視して、斯人は説明に戻る。
「あの世の人々は満たされています。望めば食べられ、住め、どこへでも行ける。物欲に狂うこともない、穏やかな世界で過ごしている彼らが、最後に欲すものは何だと思いますか?」
詩音は思わず、小さく口を開いた。それだけで、斯人には伝わったらしく、彼はおもむろにうなずいた。
「そう、『知ること』です。アリストテレスは言いました。『人は皆、生まれながらに知ることを欲する』と。あなたもご存じの通り、誰もが皆、差別なく平等に図書館を利用する権利をもっている。それは彼岸の人間も同じです。住んでいる世界が違うからといって、知へと伸ばされたその手をどうして振り払うことができましょうか」
彼の口ぶりに、詩音は崇高な志を見た。熟考するより先に尋ねる。
「もしかして……あなたは、ここの司書?」
通常なら到底務められる歳ではないが、ここは尋常から外れた図書館だ。常識などより、彼の知識、理念、立ち振る舞いのほうがよほど信じられる。しかし、彼の返事は詩音の予想をはるかに上回った。
「僕は書を司る司書ではありません。図書館に仕える、仕書です」
「仕書? 図書館に仕える? どういうこと? まるで、図書館が人間みたいに……」
「ランガナタンの五法則は言えますか?」
ランガナタンは、インド図書館学の父と呼ばれる著名な学者だ。彼が記した「図書館学の五法則」は、司書を目指す者なら一度は目にする。
詩音もまた、その一人だ。これなら、全て諳んじることができる。
「確か……一、『図書は利用するためのものである』。二、『いずれの読者にもすべて、その人の図書を』。三、『いずれの図書にもすべて、その読者を』。四、『図書館利用者の時間を節約せよ』。五、『図書館は成長する有機体である』」
「ええ、その通りです」
斯人は満足げにうなずくと、高い天井をふりさけみた。
「『図書館は成長する有機体である』。彼は、図書館の新しきを取り入れるさまを、古きを淘汰するさまを、生物のアナロジーでそう表現したのでしょうが、言い得て妙です。彼が真実を知っていたのかどうかは定かではありません。ですが、事実としてこの図書館は――生きているのです」
にわかには信じがたい話だった。彼は、比喩でも誇張でもなく、図書館が生きていると断言したのだ。それでは、詩音と斯人、そしてあの世の利用者たちは、生き物の腹の中にいるというのか。当然、建物は微動だにしない。呼吸も心拍も感じない。だが、斯人の言葉を全て狂言としようにも、そうできない証拠が今も足音を立てずに詩音の目の前を通り過ぎていく。
「……図書館が、生きている。それに仕えているのが、日比谷くん……。じゃあ、それは仕事服?」
「ええ、仕書の制服です。ちなみに、このリボンタイについている栞は身分証明のようなものです」
「へえ、大切なものなんだ。……仕書って、日比谷くん一人だけ?」
「はい。仕書は世襲制なんです」
「……ご両親は……」
「とうの昔に亡くなりました」
斯人は目を眇めて、わずかに眉根を寄せた。慌てて謝る詩音に、斯人は沈着して「構いません」と答える。
「じゃあ、ずっと一人で……」
「そうですね」
「大変だね。学校もあるだろうに……」
「学校は行ってませんよ。十歳で仕書を継ぐと同時に辞めました。その後は、全て本から学ぶことで補っています」
「えっ」
「仕事のこともありますが、そもそも、僕はここから出られないんです。僕は仕書になるとき、書寂館……僕は敬意を表して、お
平然と語っているが、永久機関と化した彼はもはや「この世の人間」といっていいものか。
「というか、ユネスコ公共図書館宣言のあれ、その能力で覚えたってこと? ずるい……」
「話がずれています。ともかく、僕は図書館からの加護を得た。ですが、契約は取引です。僕は代わりに自由を失いました。書寂館とは、代々の仕書を館内に軟禁して奉仕させる図書館なのです」
詩音は思わず立ち上がった。唇が震える。
「軟、禁……って」
「僕は十歳からこちら、一歩も外に出ていません。お館は決して、それを許さないのです」
「ひどい……」
「仕方ありません。これが仕書の子として生まれた宿命ですから。書寂館の維持に欠かせない存在として、奉仕することに人生を注ぐ。まあ、おかげで排気ガスやら花粉やら、ろくでもないものにまみれずにすみますが」
「そ、そんなに汚い町じゃないよ、ここ! 緑花公園にはたくさんのお花が咲いているし、雛川では夏に水遊びができるし、素晴らしい町なんだから!」
「知ってますよ」
斯人は夜の静けさに似た声で言った。
「緑花公園の、季節の花コーナーが好きでした。雛川のせせらぎによく耳を傾けていました。僕が生まれ育ったこの町は素晴らしい。僕の存在が消えてから六年、その間にきっと、たくさんの素晴らしいものが新しく生まれたことでしょう」
「――……」
彼の切なげな瞳は、窓の外に向けられていた。ガラスの向こう、果てしなく広がっているはずの世界を見ていた。それだけで、詩音はかける言葉を失った。いくそばくの辞を用意したところで、囚われの仕書を救うことはできない。
それなら、せめて。外の世界へ出られないなら、外の世界を連れて来よう。それができるのは、ただ一人。
「日比谷くん、わたし――」
詩音にかぶさるように、別の声が斯人を呼んだ。利用者の一人だ。和服姿の若い女性が、本のありかを聞いている。詩音への解説を熱心に行ってくれていた斯人だが、執務の真っただ中だったのだ。
「――ご案内します。恐れ入りますが、少々お待ちいただけますか」
相変わらず愛想はないが、文句なしの丁寧な口調で応じた斯人は、詩音を振り返った。
「すみません、何か言いかけましたね」
聞こえなかったかと諦めかけていた詩音だったが、斯人はきちんと声を拾ってくれていたようだ。それだけで嬉しくなって、笑みがこぼれる。
「わたし、また来てもいいかな」
斯人は目をしばたたかせると、小さく上品に嘆息した。
「来るなと言っても来るのでしょう」
「うん!」
詩音は思い切り破顔した。
***
「日比谷くん!」
三度目の来訪は朝十時ごろだった。しんと静まり返ったがらんどうのフロアの真ん中で、斯人が渋面を作って詩音を見返す。
「どうしてそんな顔してるの?」
「……開館中に来なかっただけ助かりますけど」
「助かった顔には見えないよ。っていうか、今日は休館?」
「書寂館の開館時間は午後六時から午前五時までです。今は閉館中ですよ」
「えっ、まさか昨日のは、閉館直前じゃなくて、開館直後だったの⁉」
斯人いわく、彼岸と此岸は昼夜が逆転しており、こちらが夜の間、あちらは活動時間の昼だという。夜に幽霊が出る、という一般論は、実はここから来ているらしい。
「ってことは、日比谷くんは夜通し接客して、昼は……寝ないんだよね。何してるの?」
「もちろん仕事をしようとしたところで、あなたが来たわけです。そちらこそ、何をしているんですか? 手の中に何を隠しているんです?」
斯人が、おわん型にして合わせた詩音の両手を視線で示す。詩音は無邪気な笑みを浮かべた。
「えへへー。日比谷くんにお土産。外の世界を見せてあげようと思って」
「外の世界を……?」
「ここにいたら、季節さえ感じられないでしょ? だから、まずは季節感のあるものをと思って、こちら!」
詩音が両の手を開くと、中からひとひらの白が舞った。花弁のように見えるそれは、しかし自ら羽ばたいて空中を泳ぎだす。
「モンシロチョウでーす!」
「館内にそんなものを持ち込まないでください!」
「えーっ、せっかく捕まえてきたのに……。日比谷くん、外に出なかったらチョウにも会えないから」
「会えなくて結構ですよ! 早く捕まえて逃がしてください、この虫愛づる姫君! 本に卵を産み付けられたらどうするんです!」
「あっ、それはダメ」
過ちに気づいても後の祭り、チョウはひらひらとトリッキーな動きで逃げていく。
「日比谷くん、虫取り網とかない?」
「外に出なかったらチョウにも会えない僕がそんなものを用意しているとでも?」
「だよねー……」
素手で捕まえようにも、気配を感じるとかわされてしまう。詩音が外で見つけたときは、チョウも相当油断していたのだろう。
「仕方ありませんね……来なさい、ハク!」
斯人が声を張り上げた。斯人以外いないはずの書寂館で、誰を呼んだのか。その答えは、力強い羽ばたきとともに現れた。大階段でつながる二階から舞い降りてきたのは、翼長一・五メートルはあろうかという猛禽。詩音の記憶の片隅が閃いた。
「この子……!」
「ハク、あのチョウを捕まえて外へ逃がしてください」
ハクと呼ばれた猛禽は、斯人の頭上を二周ほど旋回した後、鋭く滑空してチョウを捕らえた。そして、あれよあれよという間に、滑るように二階へと戻っていく。
「上に行っちゃったけど……」
「バルコニーから逃がしてくれるのでしょう。彼もそこから入ってきたはずです」
「というか……あの鳥は……」
「僕の式です。仕書の手助けをしてくれる霊的な存在といったところです」
「し、式って……。普通のフクロウに見えるけど……」
「フクロウではありません、ワシミミズクです。式でなければ、あのように的確に僕の言うことを聞くわけがないでしょう」
「それもそっか……うーん、いよいよファンタジーだね」
「事実は小説より奇なり、です。それはともかく、変なもの持ってこないでくださいよ」
「ご、ごめんね?」
***
「日比谷くーんっ!」
一旦帰って昼食後。再びやってきた詩音に、斯人はしかめっ面を向けた。
「どうしてそんな顔してるの?」
「当たり前でしょう。濡れた体で入ってこないでください、本はあなたと違ってデリケートなんです」
道中、突然の天気雨に降られたのだ。長い髪も白いブラウスもぬれそぼり、肌にぴったりとくっついてしまっている。
「失礼しちゃう! こう見えても、わたしだって繊細なんだから!」
「本は湿気に晒されるとカビが生えるんですよ。悔しかったらあなたもカビてごらんなさい」
「カビてまで張り合いたくない!」
白い頬を紅潮させて怒る詩音の相手はそれ以上せず、斯人は二階に向かって叫んだ。
「ハク! タオルを持ってきてください! 例の来客が濡れネズミです!」
「言い方!」
間もなくして、タオルを足でつかんだハクが飛翔してきた。心遣いには素直に感謝することにする。
「ありがとう、ハク。日比谷くんも」
「まったく……。そうだ、お館、大丈夫ですか。館内の湿度はどうです?」
斯人は部屋の壁に向かって話しかけた。書寂館への問いかけのようだが、相手はどのように答えるのか、と詩音が不思議に思っていると、
「わ……!」
目の前の現象に、声を漏らす。壁に、まるで浮き上がるように文字が現れた。明朝体で書かれたそれは、『問題ない。湿度は六割二分だ』と読めた。
「これが、書寂館の言葉⁉」
「はい。お館は声を持ちません。その代わり、館内ならどこでも文字を記すことができるのです。壁でなくても、例えば手帳のページなどでも」
伝えることを伝えたからか、壁の文字はすっと消えた。
「ちなみに、プライベートな私室以外は、館内どこにいてもお館には僕たちの声が聞こえていますし、姿も見えています。下手なことはしませんように」
「しないよ!」
業務以外では不遜な態度の斯人をひとにらみすると、詩音は気を取り直してポケットからスマホを取り出した。元はといえば、これを見せに来たのだ。
「日比谷くん、あのね。ここに来るまでにすごいものを見つけたから、写真撮ってきたの」
「写真?」
詩音がスマホを操作すると、斯人は「これは……」と物珍しそうに画面を凝視した。
「虹! 山に入る前に見えたの。きれいに撮れてるでしょう?」
天気雨だからこその幻想的な七色の弧。山とは反対側、町の方角に、何にもさえぎられることなくかかっていたので、大喜びでシャッターを切ったのだ。
「これも、館内にいたら見られないからね。どうかな?」
「確かに、虹など久しく見ていませんね……」
気に入ったのか、彼は夜の水面のような目で、じっと写真に見入っている。詩音はそっと満たされた気分になった。今度は何を持ってこようかと考えていると、
「虹……まだ見えますかね」
「えっ?」
斯人は詩音にスマホを返すと、彼女を大階段へいざなった。初めて上がった二階には、やはり書架が立ち並んでいた。斯人はもう一つ上へ足を進める。ついて上った三階には、それ以上への階段がなく、ここが最上階であることがわかった。
三階は、これまでとは打って変わって本棚がほとんどなかった。それどころか、縦長のタンスや、テーブルを挟んで向かい合ったソファなど、生活感のある調度品が置いてある。
「ここは……」
「僕の生活空間です。書寂館は職場兼自宅ですので」
「だから三階だけ、階段とフロアとの間に扉があったんだね。プライベート空間だから」
「ええ、閉館中は今のように開け放っていますがね」
階段をぐるりと回って反対側へ行くと、ガラス戸が見えた。開けて入ると、そこは弧を描く柵に囲まれた半円のバルコニー。三歩進めばへりに着いてしまうほどのこぢんまりとしたもので、花もインテリアも何も置かれていない。だが、殺風景かといえば、決してそうではなかった。生い茂る緑ごしに、これだけ町並みが一望できるパノラマがあれば、鉢植えや飾り棚など不要だろう。雨は上がったようで、二人はそのまま外へ出た。
「わぁ……すごい。あ、あれ、わたしの家!」
「あの豪邸、あなたの家だったのですか……」
詩音は手でひさしを作って視線を巡らせたが、天気雨の奇跡は消えてしまったようだった。今はただ、トルコ石のような鮮やかな空に綿雲が浮かぶだけだ。
「……見えませんでしたね」
「そうだね……」
斯人は踵を返して、ガラス戸のほうへ戻った。戸に手をかけると、詩音に背を向けたまま、彼は静かに言葉を紡いだ。
「ここは、僕が唯一、外の世界に触れられる場所なんです」
「そう、みたいだね。でも、たった一か所でも、あってよかったじゃない。……よく来るの?」
「いえ、最後に来たのはいつだったか」
詩音は目を丸くした。斯人は外界を望んでいるはずだ。あえて室内に閉じこもるのは、なぜか。
だが、そのことを問う言葉は、斯人の失望したようなため息で、霧のように消えた。
***
「日比谷くんーっ、たのもーっ!」
夕方になってしまったが、せめて開館して忙しくなる前にもう一度、とやってきた詩音は、食傷気味な面持ちの斯人に口を開きかけて、
「どうしてそんな顔をしているのかと尋ねるのでしょうが、そんなものは火を見るより明らかです。図書館では静かにしろと習わなかったのですか。その程度もわからないなら小学校の低学年図書室から出直してきてください」
「……日比谷くんって、ほんと、丁寧なのは口調だけだよね」
「ブックスタートから出直しますか?」
「乳児扱い⁉ ごめんなさいってば、わたしが悪かったもん!」
斯人はやれやれと肩をすくめると、「今度は何を持ってきたんですか」と尋ねた。詩音の両手は、またもお椀の形で閉じていた。
詩音は、はにかむように笑った。
「当ててみて」
「わかりました。虫愛づる姫君のことです、どうせ毛虫とかでしょう。『趣深い様子をしているのは奥ゆかしい』とか何とか言って、日夜、手に乗せて見つめているのに違いありません」
「違うもん! というか、古文で習ったときに思ったけど、毛虫触ったらかぶれちゃうよね⁉」
形のいい眉を吊り上げて反論する詩音に、斯人は「じゃあ何ですか」と胡乱な目を向ける。詩音は彼に歩み寄ると、その手をゆっくりと開いた。
「言っておくけど、摘んだんじゃないから。落ちてたんだからね」
詩音の手のひらには、小さな色白の桜の花がいくつも乗っていた。先ほどの天気雨のせいか、たくさん地面に転がっていたもののうち、きれいなものを選りすぐってきたのだ。
森深い館の窓からは、木々こそ飽きるほど見られど、花はほとんど見受けられない。なので、これも斯人にとっては、手の届かない外の世界の一部なのだ。
「どう? わたしは虫じゃなくて、花愛づる姫……君……」
詩音の声は、しりすぼみになって消えた。
斯人が、今まで見たことがないほどに目を見開いていた。花桜を凝視するその瞳は、彼の心そのもののように揺れている。虹の写真を見た時に彼の周りに浮かんでいた輝きは、今はひとかけらも姿を現さなかった。代わりに、濡れるような悲哀が、彼を包んでいた。
詩音は、そこで初めて、自らの行いの意味を知った。
外の世界を連れてきて、斯人を満足させているつもりだった。全くの逆だったのだ。彼は、憧れに仮初めの形で触れることで、いっそう苦しく思いを募らせることになってしまった。詩音がいなければ、彼女が余計なことをしなければ、籠の外などに恋い焦がれることはなかったのに。ただ無口な主と、知ることを欲する彼岸の人々のためだけに生きることに、何の疑問も抱かずに済んだのに。
――果たして、それでいいのか。
「……日比谷くん」
詩音の中の羅針が、大きく向きを変えた。
「外に、出よう」
斯人の肩が震えた。視線は上げない。
「出たいんでしょう、本当は。仕方ないって言葉で、あふれてくるものをずっと押し込んでいたんでしょう」
「……ちが」
「緑花公園の、季節の花コーナーが好きだったんでしょう。雛川のせせらぎが心地よかったんでしょう。外の世界は素晴らしいって、日比谷くんが言ったんじゃない」
「僕は、別に外に出たいなど……」
「嘘」
絞りだされた虚勢を、詩音は一言で切り捨てた。
「窓の外を見て、つらそうな顔してた。虹が見られなくて、残念そうにしてた。あれも全部演技だったなら、今の日比谷くんを信じてあげる」
「……」
斯人は押し黙った。もう、強がりさえも口にしなかった。
「ね、日比谷くん」
斯人は顔を上げた。作り物のような端正な顔が、初めて人間らしい表情に染まっていた。
「書寂館にお願いして、外に出ようよ。わたしが連れてってあげるから」
「……お館は、きっとお許しになりません」
「でも、日比谷くんは出たいんでしょう。六年も我慢したんだもの。書寂館は一緒に説得しよう、ね?」
詩音は桜の花を全て左手に移すと、右手を差し出した。夜の水面が揺れる。一瞬一瞬が、ゆっくりと流れていく。
斯人が小さく息を吸った。
右手を少しずつ、少しずつ上げる。
止める。
伸ばしかけて、引っ込める。
じっと待ち続ける詩音の目を見て、微笑む彼女の右手に斯人のそれが重なろうとして、
「……――⁉」
二人の顔が凍り付いた。肌が粟立った。本能の底から恐怖を感じさせるそれは、すさまじい殺気。
詩音は、慌てて辺りを見回した。何の変哲もない、図書館内だ。しかし、周りの空気が振動するほど、空間が赤く変色して見えるほど、館内は激情で満ち溢れていた。差し出していた手は震え、冷や汗が玉を結ぶ。何が起こったのか、と仕書に問いかけようとして、彼のただならぬ様子に気づいた。
「日比谷くん……?」
斯人は瞠目したまま、胸に手を当てて、肩で息をしていた。状況をつかみきれない詩音が呆然としている間にも、だんだん呼吸は浅くなり、詩音以上の汗が頬を伝う。胸元をぎゅっとつかんで固く目をつぶると、彼はその場にくずおれた。
「日比谷くん!」
詩音は悲鳴をあげて、斯人に駆け寄った。手にしていた桜の花が舞って、床に零れ落ちる。
「どうしたの、大丈夫⁉ 聞こえる⁉」
倒れた斯人のもとに膝をつき、声をかけるも、彼は片目を薄く開けるだけで精いっぱいのようだった。もう一度呼びかけようとして、詩音は憤怒の気配に顔を上げる。
向かいの壁一面に、字が浮かんでいた。昼間見た、整った明朝体などではない。手で書きなぐったような、あるいはひっかいて傷つけたような赤黒い字が表していたのは、ただ一つ。
『許さない許さない許さない許さない許さない』と、それだけを連ねていた。
「まさか……書寂館が……」
真っ赤な殺気の中で、詩音が声を震わせる。やがて、壁の文字は新たな言葉を紡いだ。
『汝はこの私の仕書。外に出ること能わず。死より重い苦しみをもって、契約の重さを知れ』
「……お館……っ」
斯人はかすれる声で呼ぶと、弱弱しく咳込んだ。
詩音の手を取ろうとしただけで、外に出たいと望むだけで、瀕死の状態まで痛めつける。これが書寂館。これが斯人の主人。
「や……やめて、やめて! 日比谷くんは悪くないでしょう! こんなのひどいよ!」
『なんぴとの唆しであろうと、此奴の意思に相違無し。私を裏切る契約違反である』
次々と浮かんでは消える書寂館の暴慢に、詩音は歯噛みした。斯人のためと持ち込んだものは彼の心を乱し、やはり斯人のためと差し伸べた手は、今も彼を苦しめている。何もかもが裏目に出た。
「ごめんなさい……わたしが余計なことをしたの、彼は悪くないの! お願いだから許して! もう解放してあげて! たった一人の大事な仕書でしょう!」
詩音は力の限り叫んだ。書寂館は一言、壁に記すのみだ。
『誓え』
主の命令を、斯人はかすむ目で捉えた。
『誓え、二度と望まぬと。汝は私の元で、代替わりのその時まで、使命を全うし続けられたし』
結局、説得の余地などなかったのだ。今でさえ、詩音の訴えは露ほども響かなかった。書寂館の仕書への言葉は一方的な命令。もし書寂館が進言で納得する主であれば、斯人はとうの昔に自由を選んでいただろう。
『誓え、我が仕書よ』
「……っ」
『誓え』
「……僕、は……」
腹ばいのまま、ゆっくりと視線を上げた彼は――ふと、床に散らばったものに目をとめた。薄紅の美しい花が、彼の瞳を縫いとめたように離さない。斯人は数回喘ぐと、再び伏して小さく呼んだ。
「……し、おん」
「え……」
「詩音……」
斯人はくぐもった声で、ゆっくりと言葉をつないだ。
「桜は、どんな風に、咲いていたんですか」
「こ、こんな時に何を……」
「教えて、ください。木に残っていた、桜は、どこで、どんな風に生きていたんですか」
必死にそう伝えた斯人の背中をさすりつつ、詩音は情景を思い出しながら答えた。
「街路樹の桜なの。道路沿いに咲いていて、日の光を透かしてきれいだった。たくさん、たくさん咲いてたよ」
斯人が、浅く嘆息する気配があった。呆れを含んだ声で、途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「全然……わかりませんよ、情景描写が、下手すぎです。言葉だけじゃ、何も伝わってこない。どんな香りがするんです、どれくらいまぶしいんです。どんな風が吹く中で、どんな音が聞こえる中で、あなたはそれを見たんですか」
斯人は息を継いだ。諦めきれない未練が、吐いた息から聞こえた。
「ああ、詩音。この桜はいったい、どんな風に生きていたのでしょう。きっと美しい。きっと素晴らしい。世界は、そんな素晴らしいものであふれている。僕はそれを、いつまでページで知るのですか。いつまでも、ページで知るのですか……」
そこまで言って、斯人は息をつめた。震えるほどに体を固くして、さらなる苦痛に耐える。書寂館の殺気は、質量さえもちそうなほどの濃度になっていた。彼の言葉が、反逆の意思として断罪対象となったためだ。
そう――彼は、反逆したのだ。誰かの手を取って示すのではない、自分の言葉で伝える意志。
「日比谷くん……」
詩音は降り続く殺気に慄きながら、必死で考えた。
(どうすれば……)
ようやく、斯人は自分の気持ちに向き合い、決意したのだ。摘み取られてなるものではない。
(どうすれば、書寂館から解放してあげられるの)
詩音の言葉には聞く耳を持たない。斯人の意見も聞き入れない。そんな非情な図書館に、一矢報いる手は。
考えている間にも、斯人の体力は限界へと近づいていく。このままでは、命さえも危ない。
斯人が、書寂館に殺される――。
(――!)
一瞬の清風を感じた。詩音の中で、ある一つの仮説が組み立てられる。
斯人は言った。彼は書寂館の唯一の仕書であると。
そして、こうも言った。仕書は書寂館の維持に欠かせない存在であると。
成長する有機体、生きている図書館――書寂館。
ランガナタンは、新しきを取り入れ、古きを捨て去る図書館の性質を、生き物の本能になぞらえた。もし書寂館が、生き物のもつ本能を網羅しているなら――。
「――書寂館!」
その声は、令嬢らしからぬ勇ましいものだった。
「あなた、それでも図書館なの⁉」
書寂館が、見えない視線を詩音へ向けた。ひるみそうになりながらも、彼女は勇猛果敢に叫ぶ。
「図書館は全ての人の知る権利を保障するところ! それは年齢も、性別も、どんな社会的地位も関係なく平等に与えられるべき恩恵よ!」
斯人は伏したままだ。はやる気持ちを抑え、詩音は大図書館を相手取る。
「あなただってそうでしょう。住んでいるところが違う人にも知る権利を。その理念で存在しているんでしょう! 日比谷くんはそれを支えるために、あの世の人たちの『知りたい』という願望をかなえるために働いているのに……その日比谷くんには、外の世界を知る権利すら与えてくれないの⁉」
書寂館は黙ったままだ。詩音の言葉が多少なりとも効いているのかもしれない。だが、斯人への暴力は止まない。平行線の予感を覚えて、詩音は最後の手段に出た。
「……あなたがどうしても彼を離さないなら。これ以上拘束して、蹂躙して、苦しめるなら――」
詩音の瞳が陰った。一線を超える躊躇は束の間、彼女は黒い言葉を放った。
「――わたしが、日比谷くんを殺すから」
空気が揺らいだ。書寂館の動揺だ。詩音は間髪入れずにまくしたてた。
「いいの? あなたの維持に必要な唯一の仕書なんでしょう? 彼が死んだら、あなたも永らえられないはずよ」
生き物の最たる本能は生存本能だ。書寂館もその性質を持っているなら、生存に必要な仕書を失うことは避けたいはず。これだけ斯人を苦しめている書寂館も、本当に殺すことはしないつもりだろう。詩音はその仮説に全てをかけた。
「疑ってるの? ハッタリじゃないわ。わたし、本気よ」
詩音はカウンターへと飛び込んだ。引き出しをあさり、目についた千枚通しを手にすると、斯人のもとへ駆け戻った。そして、ぐったりと倒れこんだ斯人の半身を抱き起こし、白い首筋に先端を突きつける。
「いいこと? 命綱を殺されたくなかったら、日比谷くんを解放して! 代々続いてきたそんな因習、もう終わりにして!」
手が震えるのを隠しながら声を張る。ハッタリでないわけがない。本気などではない。出会ってたった数日だが、言葉を交わして、境遇を知って、助けたいと思った相手だ。千切れそうなほど細い呼吸を感じる。熱病に侵されたような体温が伝わってくる。そんな、虫の息となっている彼に凶器を突きつけて、平気でいられるはずがない。
あるいは、仮説が間違っていたら。書寂館が、それなら殺せと冷徹になったなら、全てが水泡に帰す。その不安もぬぐえない。
だが、それらを悟られれば終わりだ。なけなしの凄みをきかせて、千枚通しを握る手に力を込める。
やがて、正面の壁に、先ほどよりも幾分か落ち着いた字が現れた。
『明確な論理の破綻である。救いたい相手なれば、殺す由などなし。不自由ながら生き永らえさせるのが理なり』
詩音は冷たいつばを飲み込んだ。ここが正念場だ。怯えを片鱗ほども見せてはいけない。
「理由ならあるわ。友達が苦しんでいるのをこれ以上見たくないの。不自由なくらいなら、死んだほうがましよ。だってあの世は満ち足りているんでしょう」
『汝に、人殺しに手を染める覚悟があるのか』
「日比谷くんのためなら、わたしはやるわ。日比谷くんは外の世界から隔絶された存在。だったら、遺体は見つからないから、わたしは罪にも問われない。もう一度言うわ。わたしは本気よ。日比谷くんも、それにともなって書寂館、あなたも殺す覚悟がある」
書寂館は、それきり黙りこくった。詩音も、焦燥を押し殺して沈黙を貫く。静まり返った館内で、斯人の喘鳴だけが不規則に空気を震わせた。
引き延ばされたような時間の感覚。永遠に続かんとする膠着。
そして。
『小娘よ』
詩音の精神力が限界に達しようかという、その時だった。書寂館が、無音で沈黙を破った。
『私の負けだ。だが、契約は双方向であることを、努々忘れるなかれ――』
そう書かれた字が消えると、書寂館が放っていた威圧感は遠のき、赤くかすんだように錯覚していた視界も明瞭になった。何事もなかったかのように戻った空間に、座り込んだ詩音と、その腕に支えられた斯人が残された。苦しむ声も、荒い呼吸も、もう聞こえない。
詩音の手から、千枚通しが音を立てて落ちる。
「日比谷くん」
「……」
「……日比谷、くん」
「……」
「……斯人くん……!」
斯人の胸元に、しずくがしみを作った。危うくリボンタイの栞にこぼしそうになって、そっと手で覆う。
「ごめんね、斯人くん……殺すなんて言って、驚いたよね……怖かったよね……」
育ちのいい彼女にとって、ここまでの暴言は初めてだった。魂が汚れたと感じるほどの罪悪感が、今も胸の内でくすぶっている。それ以上に、弱った斯人に追い打ちをかけるような所業を働いたことが、心を痛ませた。申し訳なさと、緊張の糸が切れた反動で、涙が止まらない。
「でも、書寂館が、自分の負けだって言ってた。それって、要求を呑んでくれたんだよね。もう、自由なんだよね」
「……まったく、これからどうするんですか……」
斯人が薄く目を開いて、呆れたように息を吐いた。
「お館、言っていたでしょう……契約は双方向だと。感じますよ、僕の体が普通に戻ったのを。飲まず食わず不眠不休の加護を奪われました。……これからは、食費が必要になりそうです。睡眠時間も確保しなければならない。休んでいる間、仕事が進みません……。ああ、どうしてくれるんです。責任、とってくださいよ」
言葉とは裏腹に、表情は穏やかだ。これまでの、人間味のない張り詰めた緊張感は、夢の中にでも置いてきたように。
「うん……とるよ、責任。これからは差し入れを持ってきてあげる。料理も教えてあげるし、わたしにできるなら……仕事も手伝うから。でも、そっか。加護を奪われたってことは……引き換えに、本当に自由になれたんだね」
詩音の瞳に、先ほどよりも温かい涙が浮かぶ。
「これからは一緒に、たくさん世界を見よう、斯人くん」
「そうですね。では、まずは……」
斯人はゆっくりと首を巡らせ、床の上の桜に目をやった。斯人に最後の勇気を与えたその花は、日の光を透かして、きれいに咲いていたという。
「詩音。明日は、晴れるでしょうか」
「うん……きっといい天気だよ。だって、ほら、こんなにも」
美しい夕日は、森の中まで橙色の光をしみこませ、館の周りを温かく包んでいた。
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