1-1 マジで捕まる三秒前

『薬人』という新たな人間が世に認知され始めたのは、今から百年ほど前のことだ。

 薬人は薬効を持つ植物や菌類などの特徴と、人間の特徴が混ざったもの。いわば、植物や菌の擬人化のようなもの。

 原因とか発祥は、正直よくわかっていない。けれどこの百年で薬人たちは着々とその生息域を伸ばし、街を歩けばそこそこの確率ですれ違うほどに増えた。


 うちのじいちゃんは、「助けた鶴が人の姿で恩返しに来る国だ、まぁそんなこともあらぁな」と言っていた。それくらい、違和感なく薬人たちは普通の人間社会に馴染み、受け入れられている。


 しかし一方で、人間に有害な成分を持つ薬人というのも、一定数存在する。例えば――。


「うふふ、だ~れだぁ?」


 薬人についてまとめた記事をスマホで読みながら次の授業の準備をしていると、不意に目の前が暗くなった。

 奇妙に甘ったるい声と香りがする。


「麻依だろ、やめろ」


 即答すると、俺の目を覆っていた緑の五本指がぱっと開いた。


「わぁっ、すごぉい! どうしてわかったのぉ?」

「そのキメてるような蕩け声と、妙に甘ったるい匂いだよ」

「えぇ~? 私の匂い、覚えちゃってるんだあ? やらしぃんだ」

「できれば一生知らないままでいたかったけどな!」


  怒号を一切気にすることなく、麻見麻依は蕩けたような笑みを浮かべて、腕の途中から緑色に染まった手をひらひらと揺らした。



 こいつと初めて出会ったのは、高校入学と同時だった。


「わたしねぇ、あなたに一目惚れしちゃったぁ。ねぇ、付き合お?」

 入学初日に呼び出されて告白された時の衝撃は、今でも覚えている。


 正直、バカみたいに浮かれてた。


 女性と無縁すぎた今までの人生が、ようやくひっくり返った。自分にもモテ期が来たんだ。そう思った。

 相手は薬人だったが、植物的な特徴がある以外は普通の人間と変わらない。偏見もないし、初めての彼女が薬人でもぜんぜんいいなとも思っていた。


 ――麻依が、その言葉を口にするまでは。


「でーいちくん。わたしで、ブリブリになって?」

「は?」


 昔、どこかで聞いたことのある単語だった。


 麻依が目を閉じて、顔を近づけてくる。

 その時、異変に気付いた。

 彼女のなんともいえない甘い香りの奥に野性味というか、青臭さというか、そういった異物を感じたのだ。


 瞬間、ぞっとした。そして、思い出した。


「寧一。おめぇも気をつけろよ。薬人と付き合うのはいいが、危険薬人にゃ手を出すな。一時的にブリブリになれても、その後に待ってんのは地獄だ。妙な甘い香りがしたら、全力で逃げろよ」


 ――面会室の分厚いガラス越しに、じいちゃんがそう言っていたことを。



 当時は幼かったから言葉の意味がわからなかったが、今ならわかる。

 俺は逃げた。それはもう全力で逃げた。


 短いモテ期だった。けど、それでいいと思った。警察に捕まって、十五歳で人生が終わるよりはずっと。


 しかし――これだけ明確に拒絶したのに、翌日から麻依は、俺の彼女面をするようになった。


「ね~え~、まだこの前のこと、気にしてるのぉ? 別にいいのにぃ。わたし、逃げられても気にしないよ?」

 さりげなく肩に絡みついてくる手を、思い切りはねのける。

「マジでもうほっといてくれよ、俺はお前とは付き合えないって! 薬人相手なら逮捕されないんだから、そっち行けよ!!」

「なぁに、カリカリしちゃって。ほら、一緒にガンジャキメよぉ? ブリブリになれるよぉ」

「なってたまるか!! こちとら、そうなったら終わりなんだよ!!」


 隣にいるだけで甘ったるい匂いがたちこめてきて、反射的に鼻を押さえる。


 だいたい、なんで乾燥大麻を持ち歩いてるんだ。本当に捕まって欲しい。


「それにぃ……薬人と付き合うなんてつまんなぁい。だって薬人って、ブリブリになれない人ばっかりなんだもん」

「普通の人間はブリブリになっちゃいけねえんだよ」


 それにしても、と思い返す。

(俺、よくとっさに逃げられたなあ……)


 薬人には、恋愛や結婚において特に制約はない。自由だ。

 ただ――ある特徴的な薬効を持つ種は別。


 仮に覚醒剤やマジックマッシュルームなど、人体に対して依存性のある薬効を持つ薬人が、人間と付き合ったり結婚したとする。

 この場合、恋人や結婚相手は例外なく、麻薬および危険薬物取締法違反で逮捕されてしまう。

 知らずにキスしたなんて場合も、多少の情状酌量はあろうが例外なく逮捕される。

 そうなれば、社会的信用は地に落ちる。終わりだ。


 そして麻依はそんな危険薬物の中でも最も有名な植物、大麻の薬人。

 俺はあと一歩判断が遅れていたら、若干十六歳にして人生が終わっていた。


「はぁ……最悪だよ。なんでよりにもよって、大麻なんだよ」

 ぼやきつつ、麻美を一瞥する。


 薄い栗色の大きな瞳、さらりとした頬。常に笑みをたたえる、少し大きな口。

 頭には大きな手のような葉が生えていて、それが人間における髪の形を成している。

 まるで吸い込まれてしまいそうな、独特の雰囲気がある。テレビで見るような女優のオーラというものが、うっすらと感じられた。


 顔だけ見れば、かなり可愛いのに――と言ってしまうと麻依が調子に乗りそうなので、黙る。

(いや、よく見るとなんか怖いな……特に目が)


 麻依の大きな瞳はなんとなく、焦点が合っていないように見える。ぼうっとして、見られているのに見られていないような感覚がある。


 なにこの目、なに見てんの? 幻覚?


「とにかく、俺に関わるなよ。逮捕されたくないんだ」

「いいじゃ~ん。わたしぃ、でーいちくんと一緒なら刑務所の中でもチルできるよ?」

「その場合、俺は離脱症状で苦しんでるだろうけどな!!」

「うふふ、そうかも~」


 麻依が喜怒哀楽の楽しかないような顔で、くすくすと笑う。

 本当にどうして、こんな奴に好かれてしまったんだろう。 田舎を出て上京したいなんて、思わなければよかった。受験勉強なんて、頑張らなければよかった。


 都内に薬人が多いことなんて、世間一般の常識として知っていたはずなのに。

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