2.予防接種Ⅱ
夕方に差し迫ると、蝉の声が控えめになり、辺りも精錬された静けさを醸し出していた。
道の駅に到着し、俺は着替えの服に袖を通し、公衆トイレで顔を洗い口を濯いだ。
自販機で買ったスポーツドリンクのペットボトルを親父から手渡される。程良く冷えたスポドリを飲みながら、名産品売り場やフードコートのある物販館へ立ち寄った。
親父が真っ先にフードコートに向かい、いちごのシロップがかかったかき氷を買ってくる。俺にそれを手渡す際、親父は入り口とは真反対側の裏口を指差した。
どうやら店員から、裏口すぐの川沿いに東屋があり、そこなら風通しも良く涼むには最適だと教わったらしく、先にその場所に行って休んでこいと、俺の背中を叩いて促した。親父はというと、俺の汚した服を水洗いしてから追いかけると言い残し、小走りに車へ去っていく。
その背中を見送った後、かき氷の容器とペットボトルを携え裏口を出た。
目の前にある芝生の広場を越えていくと、緩やかに流れを作る河川が現れる。片側四車線ほどの広い幅を持つ浅瀬には点々と人が立っていて、釣り竿を垂らしつつ、毅然と魚が食らいつくのを待ち構えていた。
川沿いにひっそりと設けられた東屋に行き着くと、屋根から吊るされた風鈴が軽やかな音を鳴らしている。
備え付けられた木製のテーブルにかき氷の容器とペットボトルを置いてベンチに座った。
流れ弾む川面を眺めながら、微睡んだ自然に身を委ねていると、身体に残っていた熱を取り払ってくれる。冷たくも心地よい風が俺の体面を撫ぜていった。かんかん照りの夏空に晒されて疲れ切った身には、この東屋の環境は非の打ち所がなく、まさしくオアシスの体を成していた。
かき氷を一口ずつゆっくりと口に運びながら、親父が来るのを待っていると眠気が急速に襲いかかってくる。いよいよ強制シャットダウンするパソコンみたく睡魔に抗うことができず、されるがまま夢路を辿ろうとした。
そんな俺を容赦なく叩き起こしたのは、テーブルの上から倒れ落ちたペットボトルだった。ベンチの座面にぶつかったペットボトルは、鈍くも重たい音を立て地面に落ち、そのまま俺の後ろにある木造の柵まで転がり、やがて時が止まったかのように動くことなく静止した。
俺は頬を伝う汗を手のひらで拭う。まるで直射日光に晒され、無防備に焼かれるほどの暑さだった。
あのクヌギの大樹と対面していた時となんら大差ない。どうしてこうもいきなり気温が押し上がったのか訳が分からなかった。
かき氷は完全に溶け、赤い甘汁と化している。涼しげな東屋はすでに幻に成り果てていた。
辺りはだいぶ陽が傾き始めたのか、昼間の明るさはとうになく、どちらかというと一枚フィルターを通した薄暗さである。
俺の脳内にあの案山子がフラッシュバックした。何故、あれを不意に思い出すのか。暑いくせに首筋に走る寒気を感じつつ、不安から周りを宛てもなく見渡す俺は、向こう岸の川辺に視線を差し向けた。
対岸にて、白いドレスを着た人影が寂しく突っ立っているのを目撃する。
長く黒い髪に、贅肉のない骨身だけの棒状の腕、スラリと地面から生えてきたのかと錯覚するほどに直立する姿は、枝垂れた柳を思わせる線の流麗さと繊細さを宿していて、性別は女だと難なく断定できた。
彼女と俺の距離は、電車二両分くらいで、対面する位置関係にある。
俺はその女の出現もそうだが、また別の現象に驚きを隠せずにいた。
大量の光り輝く羽虫が、夕陽から河川を覆い隠す巨大な集合体となって、不規則に舞っていたのだ。
その中でも白いドレスの女に群がる虫の量は尋常ではなく、さながら山肌に漂う濃霧と相違なかった。
どうしてこれほどの存在感を漏れ放つ虫たちに今まで気付かなかったのか。鮎を求め、川面に糸を垂らしていた釣り人たちの姿はどこにも見当たらない。
この河原は俺とあの人だけの都合の良い空間となっていた。
両翅を煌めかせ、彩光を解き放つ羽虫たち。
白いドレスの女が朝日の昇るほどにゆったりとした速度で大きく口を開けた。赤々としたハバネロに似た舌を前へ突き出すと、その舌先に光を湛えた羽虫が一匹止まる。彼女はそれを待っていたのか、提灯で魚を誘き寄せる鮟鱇と同じ要領でゆっくりと舌を口内へ戻して咀嚼した。
俺はその光景をまざまざと目に焼きつけ、直感的にあの人は生きた人間でもなければ、そもそも人ですらないのだろうと思うのだった。
彼女と目が合っていることにようやく気付いた俺は咄嗟に顔を伏せたが、それと同時に自分の口の中に異様な感覚が発生したことで平静が容易く崩れ去る。
これは何かが口内から這い出ようとして蠢く異物感。堪らず口を開けると、唇に脚を引っ掛け頬を伝い、異物が口外へ這い出てきた。俺は思わず自分の頬を力一杯叩いてその異物をはたき落とす。
テーブルの上に成人の手のひらほどの大きさをした骨太のガガンボのような羽虫が倒れていた。
俺はその気色悪いガガンボもどきから反射的に離れようとして後ろへ飛び退ろうとしたが、右腕を何者かに強く掴まれ、テーブルに押さえつけられた衝撃により呻き声を上げる。
横向きに倒れ込んだ俺の左頬に、ひんやりと冷たさを感じさせる黒い髪束が断りなく垂れてくる。俺は亀の歩行速度に見合う鈍間さで眼球を転がし、髪の先に繋がる人物を見上げた。
そこには無表情を貫く幸薄い女の顔があった。
口が裂けていたり、眼球がないといった凄愴な面部を勝手に想像していた俺としては、肩透かし感のある傷ひとつない綺麗な顔だったのだが、反対にその味気ない美妙さが生気を醸し出していないように思えたのだ。
痛々しい骨ばった腕からは想像できない力で右腕をがっちりと掴まれている。物憂げな眼差しを俺に向けてくる彼女を取り囲んで、光る羽虫が四方八方から湧き出し、羽音を惜しげもなく鳴らす。
その音は葉擦れの音でもあり、金属同士が互いに擦れ合う音でもあり、寒さに震える顎が鳴らす歯と歯がかち合う音でもあり、耳を塞ぐと頭の中で聞こえる重たくざらついた音でもあった。
女から逃げ出そうともがく俺の蒼ざめた顔を、筋肉に乏しいか弱い左腕と両脚を、かんなで削いだ木の皮と相違ない薄々とした痩せ身の胴体を拘束するために、女の両背から棒状で琥珀色の長々しい腕が四本、大木を叩き割ったのかと疑う轟音を上げながら飛び出した。
俺の身体の自由を完膚なきまでに奪うバッタの脚に酷似した強靭なその腕は、およそ人体から生み出せる代物でないことは明白で、すでに俺の頭で理解できる次元を遙か先まで超えてしまっているというのに、容赦なくとどめを刺さんとばかりに厳かな様相を呈しながら、白いドレスの女は透明で艶かしい大きな翅を一面に広げてみせた。
その姿は禍々しい異形であるとともに、神秘性を内包している容貌だったが、人間らしさは垣間見えず、俺に畏怖の念を抱かせるには十分なくらいの悍ましさだった。
俺は堪まらず発狂し、助けを呼ぶため涙を流しながら叫び散らかした。
光るガガンボもどきたちが小さな体躯で壁を作り、俺を嘲る姿勢で隙間なく取り囲んで羽音を立たせている。梵鐘の内に入れられて、外から撞木で叩かれていると錯覚する逃げ場のない空間の中で、心の余裕は淡々と食い潰されていく一方だったが、正気を失う一歩手前の俺の目は、のろりと柔らかく動く彼女の唇を見逃さなかった。
何か言葉を発しているのだろうが、白いドレスの女の声は、俺の叫声と虫たちの羽音に掻き消されてまともに聞こえず、異形の女が何を言っていたのか、それを考える暇など俺には一縷も与えられなかった。
再び口内を羽虫が蠢く不快感が訪れた。その度合いはそれまでの比ではなく、胃から食道を通って異物が迫り上がってくる悪心を感じてから胃液とともに羽虫を数匹、丸ごと吐き出した。
テーブルの上に転がった胃液まみれのガガンボもどきの一匹を、女は右手の人差し指と親指で優しく摘んで、俺に掲げてみせてから口に放り込み、ホテルのディナーを味わう丁寧な素振りで咀嚼した。
その顔はどこまでいっても色味のない無の表情を張り付けていた。
羽音はとめどなく鳴り響いている。
光る羽虫たちはその数を倍々に増していき、俺の全身にしがみついて、母猿の背に寄り添う小猿が憑依したのか、がんと離さない。
女は空腹なのか、さらにもう一匹、俺が吐き出した羽虫を喰らった。まるで地球外生命体に包囲された哀れな地球人の構図だった。
俺は支離滅裂で奇矯で地獄絵図と化したその光景を最後に、虫の巣に姿を変えた東屋で気を失った。
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