君の見る前

@eabre1422

序章

0.予防接種

Ⅰ...

 

 夏といえば虫採り網。

 俺の抱く三伏への固定観念である。

 最後に親父と虫採りに出かけたのは、小学3年生時酷暑真っ盛りの七夕月。

 翌年からは誰も連れずに毎年夏の季節のみ、虫採り網片手に昆虫採集へと繰り出した。

 単独採集の経緯を語るに際し、まるで取り調べを受ける被疑者となって、事細かな情景を提供することで、聞き手は彼女に対する免疫を獲得する。

 話し手の注意事項はたった一つだけ。

 彼女が実在するのだと聞き手に思わせてはならない。


 クワガタとカブトの捕獲を目論んだ当時の俺は、親父の運転で京丹波の中腹へと赴いた。

 第一採集地はツーリング目的のバイカーたちが一休みするには最適な休憩所を設けた峠だった。

 柳の木が鬱蒼と生い茂っていて、蒸し暑く蝉の鳴き声が密集し、鼓膜を突き破らんとする大音量を奏でている。

 アスファルトがひび割れた駐車スペースにゴールドのミニバンを止めてから、親父が穴を空ける勢いで柳の幹を睨めつけ、発見したノコギリクワガタを虫籠に納めていた。

 知り合いに教わった第二採集地へ寄ろうと親父は提案してきた。特に断る理由もなかった俺は迷うことなく頷いた。

 峠を降り駅のある市街地へ進むと、緑一色の原風景が顔を出す。

 田んぼ道を突っ切り、山手へ北上した先に厳としたクヌギの大樹が聳えている光景が視界に飛び込んだ。空き地に車を止め、大樹の方へ歩いていくと、その傍らに麦わら帽子を被った白い案山子が寂しげに突っ立っている。

 大樹に繋がる畦道は舗装された道より低い位置にあり、堀さらいされていない溝なのだと解釈した方が違和感はなかった。

 背の高い雑草が繁茂していることにより、足元がまともに見えず、湿地帯の草原めいた佇まいで、当時の俺だと全身がまるごと埋まってしまうほどの混生具合である。

 親父は一人、ブルドーザーと化し腰辺りまで生えている草根を掻き分け、クヌギの大樹まで進み出し、俺には畦道の入り口で待っているよう指示を残した。

 田んぼ以外だと電信柱くらいしか目につかないこの土地は、庇などあるはずもなくて、慈悲の欠片もない日光が頭頂部を焦がす勢いだった。

 風は一遍も吹くことなく亜熱帯然とした熱気に揉みくちゃにされ、燻製器に閉じ込められた気分に苛まれる。

 俺のいる場所とクヌギの大樹までは、目測で50mほどの距離。

 徐々に小さくなる親父の背中を眺めていた俺は、その先に立つ案山子に焦点を合わせた。

 案山子は真珠に等しい純白のドレスを着させられていた。

 クヌギの下では強風なのか、ドレスの裾が暴れ回っていたが、麦わら帽子の下からはみ出ている黒い糸束たちも強風に弄ばれている。それが髪の毛を模しているのだと気付いたときには、ただならぬ怖気が悪寒となって俺の心を蝕んだ。

 案山子の顔部には、黒い太線の丸で目を、真一文字により鼻と口が描かれていて、遠目だとはっきりとはしないが、粘度のある笑みを浮かべているように思えた。

 磔にされている形状の案山子に対して、俺の未熟な本能が警鐘を鳴らす。それは根拠など何ひとつない謎めいた予感だったけれど、追い立てられる強迫観念に突き動かされた俺は、引き戻ってくるよう大声を出して親父を呼んだ。

 遠ざかる背中が立ち止まる気配は毛頭なかった。

 郵便ポストくらいの身長しかなかった俺は、指示を無視し、雑草生い茂る畦道に足を踏み入れる。

 先に進むにつれ、深くなる地面に比例し、草むらへ身体を埋もらせていく。まるで精一杯背伸びをし、やっと水面から顔を出している状態に近い体勢となっていった。

 俺は再び声を大にして親父を呼んだ。

 草むらの中から突然、米粒ほどの大きさをした大量の羽虫が飛び出してきて、口の中に押し入り、喉奥に鋭い痛覚を伴う刺激を与えた。

 思わず咳き込み吐き出そうとするが、喉に突発的に生まれた、鉛玉が食道を閉塞する異物感やチクチクとした痒み、何かが口内で蠢く不快感が治らず何度も咳き込んだ末、雑草の上に倒れ込んで胃の中の物を外へ戻してしまった。

 身体は石膏で固められたかのように硬直して動かない。猛烈な吐き気が絶え間なく押し寄せてきて息も絶え絶えだった。そんな俺を草むらから抱き上げてくれたのは、慌てて雑草を踏み倒しながら戻ってきた親父だった。

 急いでミニバンに戻り、セカンドシートに寝かせられた俺は、冷房をかけた車内でしばらく横になると、次第に身体が楽になっていくことを如実に感じた。

 半時が過ぎ、喉の不快感もいつの間にか取れ、吐き気は霧散していった。

 俺の様子を観察していた親父が、おもむろにズボンのポケットから携帯電話を取り出し、誰かに電話をかける。

 会話が始まってから、話している相手が母さんであることが分かった。病院に行くべきかどうか相談している。母さんは看護師だから判断を仰ぐには打ってつけだった。

 次にどう動くべきか方針が決まると、親父はさっさと電話を切って、近くにある道の駅へ向かおうと言った。俺が小さく頷くと、そそくさと運転席に移動し、エンジンをかけ、アクセルを踏み込み、その場を離れる。

 俺は何の気なしに起き上がって、車窓から外を眺めた。段々と遠ざかるクヌギの大樹が、ゆらゆらと枝葉を揺らしている姿が確認できる。

 白いドレスの案山子は雑草に隠れてよく捉えられなかった。

 俺は束の間の安堵感を胸に抱いていた。


Ⅱ......


 夕方に差し迫ると、蝉の声が控えめになり、辺りも精錬された静けさを醸し出していた。

 道の駅に到着し、俺は着替えの服に袖を通し、公衆トイレで顔を洗い口を濯いだ。

 自販機で買ったスポーツドリンクのペットボトルを親父から手渡される。程良く冷えたスポドリを飲みながら、名産品売り場やフードコートのある物販館へ立ち寄った。

 親父が真っ先にフードコートに向かい、いちごのシロップがかかったかき氷を買ってくる。俺にそれを手渡す際、親父は入り口とは真反対側の裏口を指差した。

 どうやら店員から、裏口すぐの川沿いに東屋があり、そこなら風通しも良く涼むには最適だと教わったらしく、先にその場所に行って休んでこいと、俺の背中を叩いて促した。親父はというと、俺の汚した服を水洗いしてから追いかけると言い残し、小走りに車へ去っていく。

 その背中を見送った後、かき氷の容器とペットボトルを携え裏口を出た。

 目の前にある芝生の広場を越えていくと、緩やかに流れを作る河川が現れる。片側四車線ほどの広い幅を持つ浅瀬には点々と人が立っていて、釣り竿を垂らしつつ、毅然と魚が食らいつくのを待ち構えていた。

 川沿いにひっそりと設けられた東屋に行き着くと、屋根から吊るされた風鈴が軽やかな音を鳴らしている。

 備え付けられた木製のテーブルにかき氷の容器とペットボトルを置いてベンチに座った。

 流れ弾む川面を眺めながら、微睡んだ自然に身を委ねていると、身体に残っていた熱を取り払ってくれる、冷たくも心地よい風が俺の体面を撫ぜていった。かんかん照りの夏空に晒されて疲れ切った身には、この東屋の環境は非の打ち所がなく、まさしくオアシスの体を成していた。

 かき氷を一口ずつゆっくりと口に運びながら、親父が来るのを待っていると眠気が急速に襲いかかってくる。いよいよ強制シャットダウンするパソコンみたく睡魔に抗うことができず、されるがまま夢路を辿ろうとした。

 そんな俺を容赦なく叩き起こしたのは、テーブルの上から倒れ落ちたペットボトルだった。ベンチの座面にぶつかったペットボトルは、鈍くも重たい音を立て地面に落ち、そのまま俺の後ろにある木造の柵まで転がり、やがて時が止まったかのように動くことなく静止した。

 俺は頬を伝う汗を手のひらで拭う。まるで直射日光に晒され、無防備に焼かれるほどの暑さだった。

 あのクヌギの大樹と対面していた時となんら大差ない。どうしてこうもいきなり気温が押し上がったのか訳が分からなかった。

 かき氷は完全に溶け、赤い甘汁と化している。涼しげな東屋はすでに幻に成り果てていた。

 辺りはだいぶ陽が傾き始めたのか、昼間の明るさはとうになく、どちらかというと一枚フィルターを通した薄暗さである。

 俺の脳内にあの案山子がフラッシュバックした。何故、あれを不意に思い出すのか。暑いくせに首筋に走る寒気を感じつつ、不安から周りを宛てもなく見渡す俺は、向こう岸の川辺に視線を差し向けた。

 対岸にて、白いドレスを着た人影が寂しく突っ立っているのを目撃する。

 長く黒い髪に、贅肉のない骨身だけの棒状の腕、スラリと地面から生えてきたのかと錯覚するほどに直立する姿は、枝垂れた柳を思わせる線の流麗さと繊細さを宿していて、性別は女だと難なく断定できた。

 彼女と俺の距離は、電車二両分くらいで、対面する位置関係にある。

 俺はその女の出現もそうだが、また別の現象に驚きを隠せずにいた。

 大量の光り輝く羽虫が、夕陽から河川を覆い隠す巨大な集合体となって、不規則に舞っていたのだ。

 その中でも白いドレスの女に群がる虫の量は尋常ではなく、さながら山肌に漂う濃霧と相違なかった。

 どうしてこれほどの存在感を漏れ放つ虫たちに今まで気付かなかったのか。鮎を求め、川面に糸を垂らしていた釣り人たちの姿はどこにも見当たらない。

 この河原は俺とあの人だけの都合の良い空間となっていた。

 両翅を煌めかせ、彩光を解き放つ羽虫たち。

 白いドレスの女が朝日の昇るほどにゆったりとした速度で大きく口を開けた。赤々としたハバネロに似た舌を前へ突き出すと、その舌先に光を湛えた羽虫が一匹止まる。彼女はそれを待っていたのか、提灯で魚を誘き寄せる鮟鱇と同じ要領でゆっくりと舌を口内へ戻して咀嚼した。

 俺はその光景をまざまざと目に焼きつけ、直感的にあの人は生きた人間でもなければ、そもそも人ですらないのだろうと思うのだった。

 彼女と目が合っていることにようやく気付いた俺は咄嗟に顔を伏せたが、それと同時に自分の口の中に異様な感覚が発生したことで平静が容易く崩れ去る。

 これは何かが口内から這い出ようとして蠢く異物感。堪らず口を開けると、唇に脚を引っ掛け頬を伝い、異物が口外へ這い出てきた。俺は思わず自分の頬を力一杯叩いてその異物をはたき落とす。

 テーブルの上に成人の手のひらほどの大きさをした骨太のガガンボのような羽虫が倒れていた。

 俺はその気色悪いガガンボもどきから反射的に離れようとして後ろへ飛び退ろうとしたが、右腕を何者かに強く掴まれ、テーブルに押さえつけられた衝撃により呻き声を上げる。

 横向きに倒れ込んだ俺の左頬に、ひんやりと冷たさを感じさせる黒い髪束が断りなく垂れてくる。俺は亀の歩行速度に見合う鈍間さで眼球を転がし、髪の先に繋がる人物を見上げた。

 そこには無表情を貫く幸薄い女の顔があった。

 口が裂けていたり、眼球がないといった凄愴な面部を勝手に想像していた俺としては、肩透かし感のある傷ひとつない綺麗な顔だったのだが、反対にその味気ない美妙さが生気を醸し出していないように思えたのだ。

 痛々しい骨ばった腕からは想像できない力で右腕をがっちりと掴まれている。物憂げな眼差しを俺に向けてくる彼女を取り囲んで、光る羽虫が四方八方から湧き出し、羽音を惜しげもなく鳴らす。

 その音は葉擦れの音でもあり、金属同士が互いに擦れ合う音でもあり、寒さに震える顎が鳴らす歯と歯がかち合う音でもあり、耳を塞ぐと頭の中で聞こえる重たくざらついた音でもあった。

 女から逃げ出そうともがく俺の蒼ざめた顔を、筋肉に乏しいか弱い左腕と両脚を、かんなで削いだ木の皮と相違ない薄々とした痩せ身の胴体を拘束するために、女の両背から棒状で琥珀色の長々しい腕が四本、大木を叩き割ったのかと疑う轟音を上げながら飛び出した。

 俺の身体の自由を完膚なきまでに奪うバッタの脚に酷似した強靭なその腕は、およそ人体から生み出せる代物でないことは明白で、すでに俺の頭で理解できる次元を遙か先まで超えてしまっているというのに、容赦なくとどめを刺さんとばかりに厳かな様相を呈しながら、白いドレスの女は透明で艶かしい大きな翅を一面に広げてみせた。

 その姿は禍々しい異形であるとともに、神秘性を内包している容貌だったが、人間らしさは垣間見えず、俺に畏怖の念を抱かせるには十分なくらいの悍ましさだった。

 俺は堪まらず発狂し、助けを呼ぶため涙を流しながら叫び散らかした。

 光るガガンボもどきたちが小さな体躯で壁を作り、俺を嘲る姿勢で隙間なく取り囲んで羽音を立たせている。梵鐘の内に入れられて、外から撞木で叩かれていると錯覚する逃げ場のない空間の中で、心の余裕は淡々と食い潰されていく一方だったが、正気を失う一歩手前の俺の目は、のろりと柔らかく動く彼女の唇を見逃さなかった。

 何か言葉を発しているのだろうが、白いドレスの女の声は、俺の叫声と虫たちの羽音に掻き消されてまともに聞こえず、異形の女が何を言っていたのか、それを考える暇など俺には一縷も与えられなかった。

 再び口内を羽虫が蠢く不快感が訪れた。その度合いはそれまでの比ではなく、胃から食道を通って異物が迫り上がってくる悪心を感じてから胃液とともに羽虫を数匹、丸ごと吐き出した。

 テーブルの上に転がった胃液まみれのガガンボもどきの一匹を、女は右手の人差し指と親指で優しく摘んで、俺に掲げてみせてから口に放り込み、ホテルのディナーを味わう丁寧な素振りで咀嚼した。

 その顔はどこまでいっても色味のない無の表情を張り付けていた。

 羽音はとめどなく鳴り響いている。

 光る羽虫たちはその数を倍々に増していき、俺の全身にしがみついて、母猿の背に寄り添う小猿が憑依したのか、がんと離さない。

 女は空腹なのか、さらにもう一匹、俺が吐き出した羽虫を喰らった。まるで地球外生命体に包囲された哀れな地球人の構図だった。

 俺は支離滅裂で奇矯で地獄絵図と化したその光景を最後に、虫の巣に姿を変えた東屋で気を失った。


Ⅲ.........


 目を開くと、無味乾燥な灰一色の天井が味気なく広がっている。

 俺は慣れ親しんだミニバンのセカンドシートで仰向けになっていた。

 車が風を切る音が車体越しに聞こえていて、それに伴う振動が何気に心地良かった。

 身体にかけられたタオルケットを慣れない手つきで触りながら、パイル地のざらざらとした感触を楽しみつつ、次第に虫食い女と光る羽虫たちの凄惨な襲撃の記憶を蘇らせていく。

 俺は喚び起された毒々しい記憶を脳内から引き剥がしたくて、焦燥感に駆られながら運転席にいるであろう親父を呼んだ。間髪入れずに、まだ家には着かないから寝ておけと、言葉が返ってきた。

 声を聞いて親父のものであることを確認し、ひとまず安心した俺は東屋まで迎えに来てくれたのかと親父に問うた。

 親父いわく、東屋に着くと俺がテーブルに突っ伏して眠りこけていたらしい。

 白いドレスの女とガガンボみたいな虫の大群はいなかったかという俺の問い掛けに、親父は素っ頓狂な声を上げてから、そんな奴は見ていないし、そもそも東屋には誰もいなかったと言い切った。続けて親父は、あの道の駅では鮎が有名で釣り人もちらほらいたから、また赴いて鮎釣りでもしてみたいと呑気なことを話し始めた。

 そんな親父の気の抜けた態度が俺の緊張を忽ち緩めていく。

 俺はあっけらかんとした親父の声を聞き流しつつ、ミニバンの揺れに身を任せながら、あんな非現実的で絵空事な出来事が現実で起こるわけがないじゃないかと、冷静になっていく自分の存在に気が付いた。

 あの慄然とした体験は、クヌギの大樹で遭遇した案山子が強烈な思い出となり、脳内にこびりついていたがために見た悪夢なのだ。

 俺は心中にそういった結論を据えることができた。

 程なくして鮎釣りの話題から離れた親父が、スポドリのペットボトルはどこにやったのか問うてきた。

 俺は東屋のテーブルに置いてきたはずと切り返したが、親父はどこにもなかったときっぱり答えるため、どうしようもなく俺が押し黙ると、それを見かねた親父は、助手席に転がしていたペットボトルを左手で掴み取ってぶっきらぼうに渡してきた。

 道の駅で購入したスポドリと瓜二つのそれは中身が減っておらず未開封で、わざわざ買い直してくれたのだと見て取れた。

 俺はのそりと起き上がり、運転席と対角線上の位置に座る。足元にはクワガタ入りの虫籠が置かれていた。

 差し出されたペットボトルを受け取ると、親父はもったいないことすんなよ、と釘をさしてくる。金には滅法うるさい親父の苦言に対し、俺はしっかり謝罪の言葉を述べてから、ペットボトルを手に取ったが、釈然としない思いが胸中に蟠った。

 確かにペットボトルをテーブルの上に置いたはずなのだが、一体どこへ姿を消してしまったというのか。そういえばテーブルから落ちたんじゃなかったっけ、と記憶を引っ張り出すが、いやあれは夢の中の話じゃないかと、考えを改めたとき後ろから俺の右頬を掠めるようにして何かが現れた。

 それは空っぽのペットボトルだった。

 よく確かめると、俺が親父から渡してもらったスポドリと同じラベルがついている。つまるところ、それは失くしたペットボトルと同じ製品だったのだが、なぜこんなものが視界に踊り出てくるのかよりも、そのペットボトルを持つ手の正体が気になって仕方なかった。

 どう考えても後方から伸びているその手の出所を解明するため、最後部のサードシートへ目を配ると、白いドレスの女が両脇にあるヘッドレストの間から身を乗り出し、ペットボトルの首部分を右手に持ち、ふらふらと揺らしながら俺に優しく微笑みかけている。

 夢の中で晒していた能面に近い無表情さは見受けられず、どこか包容力と慈愛に満ちた相好だった。

 彼女は左手の人差し指を口元に近づけ、静粛のジェスチャーを示してから、ゆっくりと言葉を吐いた。


「見つけました、わたしの芒籠のぎかご


 俺の心内に新たな感情は又と芽生えなかった。

 白いドレスの女に対する恐怖心は一切湧き出さず、かえって関心すらもちらつくことはなくて、ただあの夢は夢ではなかったのだという事実を深く噛み締めるだけとなった。

 白いドレスの女が親父のいる運転席を一瞥してから柔和に微笑み口を開く。


「彼にはわたしを認識できませんが、君が少しでもわたしの存在を彼に示唆するようなら容赦はいたしません。あなたたちの灯火をちょっとした気紛れで吹き消したくはありませんから、君は自分の所作一つ一つに気をつけておくべきなのです」


 俺は軟体生物に近しい動きを見せる彼女の唇を呆然と凝視していた。

 白いドレスの女はさらに言葉を並べ続けていく。


「これから君には毎夏、紛れもなくわたしのために、誰も連れずに芒を採ってきてもらいます。この令達は断ることはできませんし、失敗も許されません。君はわたしのものですから生まれた意味をしっかりと与えてあげます。主人であるわたしの幸福こそ、君の揺るぎない幸せになるのですから」


 俺の右頬を、左の手の平で愛おしそうに触れてくる彼女を拒む気もさらさらない。

 どこぞの教祖に洗脳されている気分だ。これから目の前にいる得体の知れない女に何をさせられるのか、推測は微塵も立たなかった。

 彼女は獲物を捉えた大蛇のようににじり寄り、俺の目元を手で覆い隠す。


「これからよろしくお願いします、わたしだけの芒籠」


 その声が聞こえてから視界が開けると、白いドレスの女はどこにもいなかった。代わりに、俺の座っているそばに空のペットボトルが落ちている。サードシートもすっからかんで、この車内には俺と親父しかいなくて、白いドレスの女は跡形もなく消えていて、最初から誰もその場所にはいなかったという何事もないが故の不自然さが、ひしひしと異常性を訴えかけてくるのだった。

 事態を一切把握していない親父が、また呑気に話し始めた。

 今度虫採りに行くときは、カブトを捕まえにいこうと提案してきた。親父自ら虫採りに誘ってくるとは意外だと思ったが、主目的は鮎釣りではないかと難なく察っせられた。

 そういえば、結局クワガタしか採っていなかったのかと、足元にある虫籠を見つめていた俺が、そのとき親父に対してどんな返事をしたのかは全く覚えていない。

 ついぞ親父とカブトを採りにいくことも実現することはなかった。

 俺の夏は彼女に丸ごと奪われてしまったのだから。

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