第二十六話 一階層その五
湿り気を帯びた空気が肌に張り付く岩の回廊を抜けると、突然、視界が大きく開ける。高い円天井からは青白く蛍光を放つ苔が垂れ下がり薄明かりに照らされた広大な空間が眼前に広がる。僕らはしばらくその場に立ち尽くし、ただ圧倒されるしかなかった。
壁から滴り落ちる水音が、不規則に響き渡る。空間の中央には、塔特有の幾何学模様が刻まれた大理石の階段がそびえていた。その上端は暗い闇に溶け込むように消えている。しかし訓練施設で学んだ僕たちは知っている――あれが、次の階層へ続く門階段であることを。
階段の手前には古びた石碑が立ち、不自然なまでに苔一つ生えていない表面には、くっきりと文字が刻まれている。
『第二ノ階層へ挑ム勇敢ナル者ヨ、己ガ極ミヲ探レ』
「…ここからが本番って感じね」
舞さんが感慨深げに呟いた。その声には、かすかに緊張が滲んでいる。
僕は周囲を見渡す。広場には既に多くの登塔者たちが休息を取っており、それぞれが思い思いの時間を過ごしていた。
石柱にもたれかかる者、焚き火の前で武器の手入れに勤しむ集団、戦利品を掲げて仲間と談笑する者たち。上層からの帰還者と思しき一団は、ボロボロの防具を身にまとったまま、疲れ果てた様子で地面に座り込んでいる。
訓練施設で見覚えのある顔もちらほらと混じっている。皆、無事な様子で何よりだ。
「一種の安全地帯なのかしら?思っていたより人が多いし、私たちも少し休憩しましょうか」
左近寺さんの提案に、私たちは自然と輪になって腰を下ろした。彼女は水筒の蓋を回し、清龍君は武器に付いた化け物の血を丁寧に拭いていく。根川は遠くで休息する熟練者の一団を鋭い視線で観察し、僕は静かに塔で感じた加護の力を内省していた。
誰からともなく沈黙が流れる。そして、痺れを切らした舞さんが口を開いた。
「それで…このまま次の階層に挑む?それとも、今日は一度引き揚げる?」
議題はただ一つ。だが、それは仲間の体力、精神、そして戦略眼を問う重大な分岐。二つの選択肢を投げかけた舞さんの問いに真っ先に答える男がいた。
「無論登る!俺は一歩でも早く上を目指す。一日たりとも無駄にはできん」
「私は反対です」
左近寺さんが即座に否定する。その声の奥には、慎重な計算があった。
「情報が不足してるわ。第二階層の魔物の特性、地形、罠の種類。地図もない以上、すべてが未知数。不用意に進めば、誰かを失うことになりかねない」
左近寺さんの冷静な指摘に、場の空気がぴりりと張り詰める。慎重派の彼女、闘争心が旺盛の根川が火花を散らすように、二人の見解がぶつかる。
左近寺さんの真剣な眼差しが一同を見渡す。舞さんも無言でうなずき、慎重な意見に同意しているようだった。
正直なところ、僕も帰還に賛成だ。手足には思っていた以上に疲労が蓄積している。自分の手を見つめる。六尺棒を握りしめ続けた指の間に、初めての長時間戦闘によるマメができ始めていた。
「実際、今の私たちが万全の状態かと言えば、そうではないわ。清龍君も、加護の連続使用で脚脚に疲れが見えるし」
名を挙げられた清龍君は、少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに静かに頷いた。呼吸は整っていても、獲得したばかりの加護による負担は、本人にしかわからないものだろう。
「純君、貴方の意見は?」
舞さんからの問いに、皆の視線が僕に集中する。僕は少し考えてから、口を開いた。
「僕も…できれば今日は切り上げて、装備を整え、準備を万全にしてから明日改めて挑む方がいいと思う。疲労を抱えたまま次の階層に挑んだ挙句、全滅するのは避けたい。でも…せっかくここまで来て、何もしないで帰るのも惜しいよね。だから、折衷案を提案したいんだ」
言葉を少し間を置いてから続ける。
「三十分間だけ、二階層の入口付近を偵察しよう。敵が現れたら即撤退。無理は絶対にしないという条件でどう?今日の収穫で地図や装備を整えて、明日改めて挑もう」
「……妥当な線だな」
意外にも、根川がゆっくりと頷いた。嫌っている相手の提案に、不承不承ながらも同意したようだ。
舞さんは「うん」と小さく頷き、左近寺さんは「了解です」と警戒の表情で答えた。清龍君も「もす」と短く返事をする。
「では決まりね。二階層の入口付近だけ探索して、時間が来たら速やかに戻りましょう」
舞さんがまとめ役として場を締めくくる。張り詰めていた空気が、ほんのりと和らぐ。
「ただし、敵を発見した時点で即座に撤退よ。相手の戦力も特性も未知なのだから、無謀は禁物」
続けられた言葉に、全員が真剣な顔で頷いた。
そして僕たちは、水音の鳴り響く広場を背に、第二階層への階段をゆっくりと登り始める。白く輝く大理石の一段一段を踏みしめるごとに、足元から冷たい気配が這い上がってくる。昇るにつれ、空気の質が変わっていくのが分かる。
階段の半ば、ふと背後に人の気配を感じて振り返る。見下ろす広場には、そこには様々な思いを抱えた挑戦者たちの姿があった。きっと、僕たちも彼らから見れば同じように映っているのだろう。
この選択が正しかったのか、その答えはまだ見えていない。だけど初陣を共に戦い抜いた仲間と共に一歩ずつ階段を昇るこの瞬間が、確かに僕たちを変え、強くしている。そんな確かな手応えを、僕は感じていた──。
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