第21話 先生の導き


 あの日、俺が自分の心と向き合い、教師という真の目標を彼女に告げて以来、早瀬葵先生と俺の関係は、静かに、しかし決定的にその姿を変えた。

 彼女の部屋での、あの甘く危険な密会は、もうない。肌と肌を重ねる、あの燃えるような時間は、まるで遠い昔の夢物語のように、俺たちの間から消え去っていた。そのことに、俺の身体のどこかが、ほんの少しだけ寂しさを感じていなかったと言えば、嘘になるだろう。

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 しかし、それ以上に、俺の心を満たしていたのは、これまで感じたことのない、誇らしいような、そしてどこまでも心地よい充実感だった。

 放課後の誰もいない教室。それが、俺たち二人の新しい聖域となった。先生は、俺との肉体的な関係を完全に断ち、その代わり、純粋に「教師」として、俺の受験勉強を、そして俺の夢を、全力でサポートしてくれるようになったのだ。

 それはもはや、俺の欲望を試すための、あるいは俺を支配するための道具としての勉強ではなかった。彼女は、俺を、ただ一人の、未来ある生徒として、そしていつか同じ教壇に立つかもしれない、未来の同業者として、真剣に向き合ってくれている。その事実が、俺に何物にも代えがたい自信と、喜びを与えてくれていた。


 夕暮れの教室。机を並べ、俺が書いた小論文の草稿に、先生が赤ペンを入れていく。カリ、カリ、というペンの走る音だけが、静かな部屋に響いている。窓の外は、深い茜色と藍色が混じり合った、美しいグラデーションを描いていた。やがて、街に一つ、また一つと明かりが灯り始め、まるで宝石をちりばめたように、きらめき始める。その光景は、俺たちが今いるこの穏やかな空間と、これから俺が歩んでいくであろう未来を、優しく祝福してくれているかのようだった。

 「教師の仕事ってね、本当に大変なのよ」

 赤ペンを走らせながら、先生はぽつりと呟いた。

 「毎日、膨大な授業準備に追われるし、生徒指導は一筋縄ではいかない。保護者からのクレームもあるし、部活動の顧問になれば、土日だって潰れてしまう。……正直、割に合わないって、何度も思ったわ」

 その声には、一切の飾り気がなかった。

 「でもね」と、彼女は続けた。

 「でも、たった一度でいいの。自分が担任した生徒が、卒業式の日に『先生が担任でよかった』って、涙ながらに言ってくれたり、授業がつまらないっていつも寝ていた子が、ふとした瞬間に、真剣な顔でこっちを見ていたり……。そんな瞬間に立ち会えたら、それまでの苦労なんて、全部吹き飛んでしまうの。これほど、人の人生に深く関わって、その成長を間近で見届けられる仕事は、他にないと思う」

 先生は、自らの短い教師経験を、そして大学時代に経験した教育実習での出来事を、俺に語ってくれた。その横顔は、俺がこれまで見てきたどんな顔よりも、美しく、そして尊く見えた。俺は、その言葉の一言一句を聞き漏らすまいと、ただ黙って、相槌を打つことさえ忘れて、彼女の話に聞き入っていた。


 先生の導きによって、俺の中で漠然としていた「教師」という夢は、より明確で、具体的な、そして揺るぎない目標へと変わっていった。そうだ、俺は、この人のようになりたいのだ。一人の生徒の人生を、これほどまでに変えてしまう力を持った、こんなにも魅力的な教師に。

 俺の心は、早瀬先生への、もはや性的な欲望だけではない、人間としての深い愛情と尊敬の念、そして、彼女が示してくれた夢に向かって、何があっても突き進むのだという、鋼のような決意で満たされていた。


 その日の指導が終わり、俺たちは誰もいなくなった夜の校舎を、並んで歩いていた。職員室の前で、別れの時が来る。俺は、どうしても、これだけは伝えておかなければならないと思った。

 「先生」

 俺は、彼女を呼び止めた。

 「俺、高校を卒業したら……先生と生徒じゃ、なくなったら……その時は、また、会ってくれますか」

 それは、新しい告白であり、そして、未来への、新しい約束の申し込みだった。

 先生は、驚いたように目を見開くと、その美しい瞳に、みるみるうちに涙の膜が張っていくのが分かった。彼女は、何も言わなかった。ただ、俺の目を真っ直ぐに見つめ返すと、静かに、しかしはっきりと、一度だけ、こくりと頷いてくれた。

 それだけで、十分だった。俺たちの未来を繋ぐ、新しい、そして今度こそ本物の光が、確かに灯った瞬間だった。

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