私の生徒だった君へ
舞夢宜人
第1話 日常の倦怠
じりじりと皮膚を焦がすような太陽が、アスファルトから立ち昇る陽炎をぐにゃりと歪めている。耳の奥にまで染み込んでくる蝉時雨の豪雨は、思考そのものを溶かしてしまいそうなほどの熱量を孕んでいた。八月の下旬。県立湊高等学校に通う三年生の俺、山上健太にとって、その夏は耐え難いほど退屈だった。受験、進路、未来。クラスメイトたちが当たり前のように口にするそれらの言葉は、まるでどこか遠い国の出来事のように、俺の心には少しも響かなかった。
「健太、ちゃんと聞いてる? 夏休み明けの模試、大事なんだからね。ここからが本当の勝負なんだから」
坂道の通学路、俺の半歩先を歩く幼馴染の佐藤陽菜が、少しだけ頬を膨らませて振り返った。活発な印象を与えるショートボブの黒髪が、汗でしっとりと彼女の白い首筋に張り付いている。坂の上からは、太陽の光を乱反射してきらめく青い海が見えた。山と海に挟まれたこの街の、見慣れた退屈な風景だ。陽菜は、俺と同じ、地元の国立大学教育学部を目指している。教師になるという明確な夢に向かって、その瞳はいつも曇りのない、真っ直ぐな光を宿していた。
「聞いてるって。分かってるよ」
俺は気のない返事をしながら、額に滲んだ汗を手の甲で乱暴に拭った。むっとするような草いきれと、微かな潮の香りが混じり合い、汗で背中に張り付く制服のシャツの不快感が、俺の気だるさをじわじわと増幅させていく。陽菜の真剣な眼差しは、夢も目標もない俺の空っぽな心を、まるで太陽光線のように容赦なく突き刺す。焦燥感と、自分自身へのほんの少しの嫌悪。そんな澱んだ感情が胸の奥で渦巻くのを感じながらも、素直な言葉は喉の奥に引っかかったまま出てこない。俺の曖昧な態度に、陽菜は小さくため息をつき、その表情に一瞬だけ寂しそうな影が差した。
外の灼熱地獄とは対照的に、エアコンの人工的な風が空気をかき混ぜる教室も、俺にとってはただの退屈な箱庭でしかなかった。始業式を待つざわめきの中、俺は窓の外のグラウンドをぼんやりと眺める。俺の隣では、陽菜が予備校の夏期講習で使ったであろうテキストを、真剣な表情で復習していた。びっしりと書き込みがされたそのテキストが、彼女が過ごした夏のひたむきさを雄弁に物語っている。その姿が眩しいと同時に、自分との埋めようのない差に、どうしようもない劣等感を覚えて、俺はわざと大きな欠伸をしてみせた。心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくる彼女の優しさが、今は少しだけ重かった。
やがて、全校生徒が体育館に集められた。蒸し暑い空気と、生徒たちの汗の匂いが充満する中、校長の退屈な話が延々と続く。俺の意識は、朦朧としかけていた。そんな灰色の日常に、一条の閃光が突き刺さったのは、その時だった。
産休に入った担任の代わりに、新しい英語教師が赴任してきたのだ。
「今月より、皆さんの英語を担当します、早瀬葵です」
壇上に立ったその女性に、俺は一瞬で心を、いや、魂ごと奪われた。スポットライトを浴びた彼女は、この田舎の進学校の他の教師たちとは明らかに違う、洗練された大人のオーラを放っていた。身長は175cmはあろうかという長身。身体のラインが分かる、上品な黒のタイトスーツ。艶やかなワンレンのロングヘアーが、その凛とした佇まいを完璧に引き立てている。そして、フレームの細い眼鏡の奥で輝く、知的な光を宿した瞳。体育館に響き渡る、少し低めの、しかし凛としてよく通る声を聞いた瞬間、俺自身の心臓が、ドクン、と大きく喉の奥まで突き上げてくるのが分かった。
世界から、音が消えた。退屈だったモノクロームの日常が、突如として極彩色の奔流となって、俺の視界に流れ込んでくる感覚。これまで、どんなものにも心を動かされることのなかった俺の心に、稲妻のような衝撃が突き刺さる。
始業式が終わり、教室に戻ってからも、俺の頭は彼女のことでいっぱいだった。ホームルームで再び目の前に立った彼女の姿、その一挙手一投足を、俺は網膜に焼き付けるように見つめていた。無意識に目で追ったその美しい後ろ姿が、職員室のドアの向こうに消えるまで、俺はずっと見送っていた。
どうすれば、あの先生と話せる? どうすれば、もっと近づける?
その瞬間、俺の空っぽだった頭脳が、生まれて初めてフル回転を始めた。退屈な日常を打ち破るための、甘美で、そしてどこまでも危険な計画。そうだ、成績不振を口実にすれば、彼女は俺を個人面談に呼んでくれるかもしれない。俺の心に、小さな、しかし確かな「悪だくみ」が芽生えた。その瞬間、俺の目に、生まれて初めて明確な「目標」の光が宿った。日常の終わりと、新しい何かの始まりを告げる、予感に満ちた瞬間だった。
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