第2話王子と椅子

第二節 王子と椅子


階段を下りながら、あくびが出た。

「昨夜、小説を読みすぎちゃった。早起きはやっぱりちょっとキツいな」と独りごつ。

でも仕方ないよ。『彼岸』は夢が大好きな作家、PEROの作品だ。あの絵に没頭する夢でさえ、PEROの新作が発表されれば必ず筆を止めて優先的に読み切るくらいだ。夢は彼を好きすぎやしないか?ちょっと嫉妬しちゃうな。でもそのおかげで、新作が出るたびに、その内容を話題に夢とたっぷり話せる。好きな作品の話をする時の夢の表情は、可愛くてたまらない。まさに天使だ。

なに、妹フィルターかって?ぶっ飛ばすぞこいつ、俺の妹はどこに行っても天使と崇められるレベルで可愛いんだよ!夢も、夕も。

よく考えれば、妹萌えの定義って何だろう。以前なら、俺は妹萌えだって胸を張って言えたけど、今では、夢に対して人倫に反した感情を抱いていることだって自覚している。もう夢を妹って存在として見るのは難しくなってきている。夢は賢いから、多分何か気づいているだろうか?でも彼女は一度も俺を拒絶するそぶりを見せない。それが余計に、夢への想いを抑えきれなくさせる。今みたいに、夢と話すために、夜更かししてでも新作を読み、早起きしてでも会いに行く。一刻も待てないんだ。

アトリエに近づくにつれ、足取りはどんどん軽くなり、小走りになった。待ちきれずにアトリエのドアを右に力任せに引いたら、勢い余って壁にぶつかり、音を立ててしまった。驚かせてなければいいけど。

「へいへーい!おはよう夢!愛しの妹よー、お兄ちゃん参上〜」

「うるさいわね兄さん、朝からそんな大きな音出さないでよ!」

うっ…また怒られた。最近の夢は俺に随分ぞんざいになったような気がする。あの事故の後、夢も少し変わったんだろう。でも、本質的には昔と同じ、優しい夢だってわかってる。笑顔も昔と同じくらい可愛いし、夢にこうやって怒鳴られても全然不快じゃない。むしろ、心がむずむずする。

言っておく、俺はMじゃないからな。

「悪い悪い、早く『彼岸』の感想を話したくてさ。もう読み終わったんだろ?」

「あ、兄さんも読んだの?いやぁ、PERO先生さすがですよね〜」

PEROの話になるとすぐ優しくなるよな。よし、こいつ見つけてぶん殴ってくるか。

そう言いながら、部屋に入って左側、夢がよく使っているアトリエのドアが開いた。半開きのドアから陽光が差し込み、続いて一人の天使が現れた。肩まで届く黒髪が光に柔らかな輝きを帯び、微かに跳ねた毛先が彼女の歩調に合わせて軽く揺れ、いたずらっぽく存在をアピールしている。彼女の瞳は透き通り、夏の湖水で洗われたかのようで、曇りひとつなく、すべての陰りを払いのけてくれそうだ。今日は淡いブルーの半袖シャツを着て、袖口は適当にまくり上げられ、胸元には小さな白いボタンが二つ。下は白のプリーツショートスカートで、裾が動くたびに軽やかに揺れ、すらりと均整の取れた脚を見せる。黒のニーソックスがくっきりとしたラインを描き、雪のような肌と強いコントラストを成していて、無邪気さとほのかな大人の色気を感じさせる。彼女は光の中に立ち、笑いながら俺を見ている。ああ、これはどこの国からやって来たお姫様なんだ?って、絶対領域がちょっとエロいな…

「兄さん、褒めてくれるのは嬉しいんだけど、最後の方いつも気持ち悪くなるの何なの?」彼女はため息をついた。

また思わず口に出ちゃった。これで何回目だ?優しい夢が毎回許してくれるから助かるわ。

俺の小さなお姫様の今日の姿を堪能した後、思わず視線が右奥のあのアトリエに向かう。

「夕は、今日もいないのか…」

「いないよ。兄さんが来ると分かると夕は隠れちゃうの。兄さん、嫌われてるんじゃない?前に夕に『兄さん気持ち悪い』って聞いたことあるし」

「いや、俺何もしてないぞ!?気持ち悪いって初めて聞いたよ!?前は俺の後ろについて回って、口には出さないけど心の中では『お兄ちゃん』って呼んで、『大きくなったらお兄ちゃんと結婚する』って言ってた夕が…ていうか、ママの事故以来、ほとんど会えてないじゃないか!夢としか話さないし、いつも夢から夕の様子を聞くばかりで、俺もたまには会いたいよ。夕に会えないと寂しいんだから!」

「夕が兄さんと結婚するだなんて、兄さんの妄想でしょ。キモいからやめてよね。それに、仕方ないでしょ。夕は『放っておいて』って言うし、他の人にも会いたくないみたいだし、私と話してくれるだけでも十分じゃない?昔から人付き合いが得意じゃなかったし、あの事故でかなり傷ついたんだと思う。だって夕もママのことが大好きだったから」

そうなのか…

南宫夕。夢の双子の妹。正直、外見だけなら、長年一緒にいる俺でもよく見ないと見分けがつかないくらいだ。でも、夕と夢の性格はかなり違う。夕は人付き合いが苦手で、顔はいつも無表情。内心はすごく感情豊かな子なのはわかっている。彼女の絵は上手いとは言えないけど、自由な想像力が感じられて面白い。ただ、それを表に出すのが苦手なだけだ。一方、夢はいつも笑顔で、話し方も優しく、絵は素人目にもわかるほど優秀だ。ただし、とてもきちんとした、夢らしい絵だけど。

だから、夢と夕は簡単に見分けがつく。長年一緒にいて、母親が亡くなった直後の一時だけ、夢が急に夕のようになり、笑顔がどこか強張っていた。あれは俺たち全員にとって大きな打撃だったから。それでも夢は笑顔を作って俺を励ましてくれた。夢がそばにいてくれたから、俺はこうやって普通の生活を取り戻せたんだ。でも、夕は…。俺は夕のために何かしてやりたいのに、会うことすらできない。たまに一人で家を歩いている時、ちらりと見かけるだけだ。なんてレアなポケモンなんだ?

心配ではあるけど、夢が彼女と交流しているようだ。双子特有の信頼感なんだろう。だんだん、夕に会えない生活にも慣れてきた。いつか彼女が心の障壁を乗り越えて戻って来てくれる日を、俺と夢で待っている。

「それはさておき、兄さん、PERO先生の新作の話をしましょうよ〜」夢は笑顔で言った。

「ああ、もちろん。アトリエに入ろうよ、立ったままだと疲れる」

「兄さん、そのクマ、隠れてないよ?昨夜遅くまで読んでたでしょ〜。座ったらすぐ寝ちゃうんじゃない?もう、そんなに私と感想を話したいの?それってつまり、私のことが大好きってことでしょ、妹〜萌〜え〜の〜兄〜さ〜ん〜?」

「そうかもね、寝ちゃうかも。その時は可愛い妹の膝枕、くれないかな」正直、「好き」って言葉に少しドキッとしたけど、いつもの調子でごまかした。

「うんうん、それは兄さんが私をうまく楽しませられるかどうかね。この本の話で私の地雷を踏んじゃったら、兄さんを蹴り飛ばすことになるけど〜」

「お、うっ…」本の話で夢の地雷を踏むのは冗談じゃない。前にまる一週間口をきいてもらえなかったことがある。でも、蹴り飛ばすか…夢に蹴られる姿を想像した。少し胸が高鳴った。

「兄さん、もしかして『妹に蹴られるのってなんか気持ちいい』とかいうキモいこと考えてないよね〜」

「……ないよ」

「変態がアトリエに入ると私の絵が汚れちゃうから、今回は外で話しましょう〜」そう言うと、彼女はアトリエに戻って読書ノートを持ってきた。

「わかったよ。椅子はまだ夢のアトリエにあるだろ、持ってくるよ」

「何言ってるの兄さん。兄さんの椅子はここにあるよ」夢が床を指さした。うん、父が大枚はたいて特別に敷いた木の床、質感いいな。「俺の椅子」ってどういう意味?お前の椅子はどこだ?

俺が困惑しているのを見たか、夢は再び床を指さして言った。

「兄さんの椅子」

そして、その指を俺に向けた。

「私の椅子」

なるほど、ハハハ、もう何歳なんだよ、子供の頃の肩車遊びかよ。夢もこういうところは子供っぽいな、彼女の一部と同じで。

「兄さんも喜ぶと思ったんだけどな〜。大好きな私に座られるなんて、だって兄さんは変態だもんね〜。兄さんの背中はちょっと汚れてる感じがするけど、兄さんの変態な願いを叶えてあげるよ。だって兄さんは変態だけど、私も兄さんが大好きだし。兄さんは変態だけど」

「なんか同じ言葉繰り返しすぎないか?ていうか、夢、だいぶキャラ変わったんじゃないかって時々思うよ」小悪魔な夢。うん、悪くないけど。

「人も成長するんだから〜」

「いや、ねじ曲がった方向に成長しただろ」

「兄さんは、こんな夢のこと、好きじゃないの?」突然、上目遣いで見てくるなんずるいよ。これすごく可愛いからやめてくれ。

「好き…」

「そうでしょ〜?だってもういい子ちゃんの椅子になってるんだから〜」

「うるさい、これが兄ちゃんの覚…うっ」夢がどさっと座った。柔らかい、そして温かい。

「じゃあ始めよっか、愛しのお兄様〜」

そうだな、せっかくの時間を無駄にしちゃいかん。まあ、無駄じゃないか?

「で、兄さんが読んで印象的だったシーンはどこ?」

夢は読書ノートを開いて話し始め、俺も慌てて彼女のペースに合わせる。やっぱり夢はすごく楽しそうだ、超好き。俺もこの時間を楽しみ始めていた――

話の途中で、夢が突然言った。「兄さん、明日で私18歳の誕生日だよね」

「ああ、俺の天使たちが誕生した日だよ、もちろん覚えてるさ」

「昔約束したこと、まだ覚えてる?」

「ああ、もちろん。肖像画を描くんだろ?その日のために練習頑張ってるぜ」

昔、夢が俺を元気づけようと、気分転換に絵を描いてみないかと勧めてくれた。そして毎日教えてくれて、練習に付き合ってくれた。実際、俺はあの時の状態から少しずつ抜け出せた。夢への感謝を込めて、一度でいいからモデルになってほしい、夢の絵を描きたいと伝えた。それなら18歳の誕生日にプレゼントしてよ。大人になる瞬間を見届けて欲しいの、と夢は言った。

「夕は明日は出てくるかな?」明日みたいな特別な日は違うかもな。これまでの誕生日には出て来なかったけど。

「わかんない。もしかしたら来るかもね。でも来たとしても多分私たちには構わないと思うよ」

「そうか、それでもいいよ、久しぶりに三人で過ごそう!」それでも俺は嬉しい。振り向いて夢に言った。

でも、なぜか、夢は少し悲しそうな表情を浮かべた。やっぱり彼女も夕のことを心配しているんだな。

「大丈夫だよ、夢。いつか絶対また三人で一緒に暮らせる日が来るさ」

「三人で…うん、そうだね、三人一緒」夢の笑顔はやはりどこか力ない。

話題を変えようと、俺は慌てて言った。

「じゃあ約束だぞ、夢。さあ、『彼岸』の話を続けよう」

「うん、話そうね。PERO先生、今回もすごく良かったよ」夢はまた楽しそうに笑った。

よし、明日あのPEROとかいうやつの住所調べて、文句の手紙でも送ってやるか。

膝、ちょっと痛いな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る