32 ふぬけの記憶
「悠馬、お前ほんまふぬけになりよったな」
その言葉を聞いたのは悠馬にとっては二度目だった。最初に聞いたのは中学二年の春休みに悠馬が受験勉強に専念することを流貴亜に告げた時だった。悠馬は瞬時にその時を想像した。
「中三ときと何も変わっとらんやないけ。結局、自分が一番可愛いんや」
流貴亜から目を反らそうとしたことを勘付かれたと悠馬は思った。こたつの中で拳を握りしめた。自分が一番可愛い。最初は確かにそうだった。世の中でのし上がるつもりで大学入学まで突き進んでいた時は確かにそうだったのかもしれない。しかし、今は全くそんなつもりなどなかった。今までに接した患者や学内の先輩や後輩、同僚、そして真綾と瑠夏。それぞれの出会いが悠馬の心と志を少しずつ変えた。
「俺には瑠夏がおる。今はこいつを育てるだけでいっぱいいっぱいなん……」
「目の前に助けを求めているやつがおってもか?」
「目の前にはおらんやろ」
悠馬の語気が荒くなった。彼の表情にわずかに現れた焦りを流貴亜は見逃さなかった。
「国民皆保険制度の崩壊。二〇三〇年の南海トラフ地震。ここで医者をやってたお前にとっては、どちらも目の前の話ちゃうんか?」
「免許が奪われさえしなければ、俺は医者を続けてた」
「免許免許。免許と法律がそんなん大事なん? あの地震で焼津におった連中は、背後に津波が迫ってても、目の前が赤信号で誰もおらんでも律儀に信号待って津波に飲み込まれなあかんかったん?」
「それとこれは話が違うだろ」
流貴亜はふーっと大きく息を吐き、悠馬に吹き付けた。ここにやってくるすぐ前まで煙草を吸っていたのがすぐにわかった。臭いに顔を背けたかったが、悠馬は平気なふりをした。
「法律法律免許免許ゆうて逃げるちゅうのは結局そういうことや。ま、ここは特区や。経済的に恵まれた連中ばかりやねん。悠馬は実感薄いかもしれんが……、静岡の浜松より向こうは、ほんとひどいもんやで?」
そんなことは何度も聞いた。悠馬は口を挟もうとしたがやめて、ただうなずいた。
「焼津とかあの辺はひどいで。復興復興騒がれとるが、仕事もロクにない連中ばっかりや。病気になっても医者にかかる金もないねん。そもそも病院がないねん。三割負担なんて昔の話。あそこの連中は七割も払えへん。もうからないから医者も寄りつきゃせえへん」
その通りであることを悠馬はよく知っていた。「実感が薄い」という流貴亜の指摘は受け入れざるを得なかった。
「あれが東京オリンピックの後だったのがせめてもの救いだった、なんてほざいた国会議員もおったな?」
「ん? ああ……」
「お前のおった選挙区やねん」
「俺はそいつに入れてない」
「フーッ。そうやって逃げるのがお前の小さいとこや」
なんでやねん! そう叫ぼうとしたが悠馬は抑え込んだ。代わりにつばをゆっくりと一度、飲み込んだ。そして気づいた。明らかに強引で、挑発的ですらある流貴亜の論法に対してあえて自制の構えをとることによって、結果として自分は流貴亜のペースに乗せられている。
悠馬は流貴亜を睨み付けた。ところが流貴亜の表情は瞬時に柔らかくなった。全ての暴力を甘んじて受け入れるとでも語りかけるようだった。流貴亜がそんな表情をするのは今まで考えられなかったし、実際に見たのも初めてだった。
「なあ悠馬。おれはあん時とはもう違うで。相変わらずちゃらんぽらんやってる思とるやろ? 俺は確かに今も外っ面はちゃらんぽらんでやくざもんかも知れん。せやけど、俺も俺なりに、人としての筋の通し方を学んだんや」
「そうやな。もう十五年も経ってんねんで……」
振り上げた拳の行き場がなくなったような曖昧な口調で悠馬は応じた。
「なあ、こういう言葉知っとるか? 相手を救うことができる時、飢えで苦しんでいる人をそのままに放っておかないことは……」
その問いかけだけは、もう何回も同じせりふを繰り返してきたかのように、悠馬にはなめらかに聞こえた。
「人間に対する永遠の義務の一つである」
「そや!」
力強いその返事によって、悠馬には、なぜ自分が中学時代にこの男とつるんでいたのか、その理由がわかるような気がした。一方で「義務」という言葉は、たとえ流貴亜が長い年月の内に変わってしまったとしても、依然として流貴亜にはあまりにもなじみにくいものに感じられた。そんな言葉が二人の会話に出てしまうこと自体に、漠然とした不自然さを悠馬は抱いた。
「……一週間、考えさせてくれへんか?」
悠馬の心は揺れていた。流貴亜が訪問する直前には考えられないことだった。先ほどまで解いていた情報処理試験の問題集は頭の中から隅の隅に追いやられていた。
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