31 再起の誘い
悠馬は瑠夏のために研究を進め、遺伝子組み換え操作を実施した。それが成功するか失敗するかはこれからの瑠夏の人生によって明らかになることであり、今置かれた厳しい状況は、あくまで途中の経過にすぎず、失敗という結果ではない。悠馬はそう捉えていた。真綾を失った痛み以外の全ては、そうやって乗り越えられると思った。
「おなかすいたなー瑠夏。朝ご飯ほしいか。今用意するからなーヨシヨシ」
瑠夏を抱えたまま流し台の前に立ち、冷蔵庫を開けた。乳児用のミルクを取り出し、コンロの前に立った。取っ手のついた小さな鍋にミルクを注いだところで、こたつの上で携帯電話が震えた。悠馬は気づいていたが、そのままコンロに火をかけた。
「……七、八、九、十」
人肌の温度に当たりをつけて火を止めた。携帯電話はまだ振動している。鍋に顔を近づけると少し熱い。鍋の中のミルクを遠心力でかき回しながら冷ます。
「ほらぐーるぐーるぐーる……」
瑠夏は鍋の中の白い渦を見てキャッキャと笑う。再び悠馬は鍋に顔を近づける。今度はちょうど良さそうだ。
瑠夏をこたつの横に座らせた。
「おすわりできるか? よーし」
悠馬は瑠夏の両脇からそっと手を離す。瑠夏に背を向けた姿勢で流し台に立ち、鍋の中のミルクをすかさずほ乳瓶に注ぐ。
振り向くと瑠夏はまだ座っていた。
「おすわりできてるなーえらいえらい」
ほ乳瓶を持って駆けつける。携帯はまだ震えている。こたつの前に入り、膝の上に瑠夏を抱えてミルクを飲ませる。携帯の震えは止まった。よだれかけを忘れたことに悠馬が気づいた瞬間、瑠夏はわずかに口元からミルクをこぼした。悠馬は思わず瑠夏の口元に吸いついた。
再び携帯が振動した。さすがに今度は部屋をのぞかれたような苛立ちを覚えた。
「もう一回、おすわりできるよ。ほーら」
瑠夏をそっと座らせると、タンスから瑠夏のよだれかけを取り出した。急いで瑠夏に付けさせる間も携帯は震えている。
悠馬はようやく、ため息をつきながら携帯に手を伸ばした。流貴亜からだった。
「今からそっち行ってええか?」
「いいけど今どこにおるねん?」
「ほんまええんやな?」
「だからどこに今……」
電話は切れた。十秒後、ドアをノックする音が響いた。
「今行くって今すぎやろ!」
悠馬は憮然としてドアを開けたが、ぎょろりとした流貴亜の目を見ると思わず顔がにやけた。拘置所での面会以来だった。
「瑠夏ちゃんこんちゃ。父ちゃんのお友達でーす」
流貴亜は愛嬌たっぷりに挨拶をした。瑠夏は悠馬に抱きかかえられたまま、物怖じせずじっと流貴亜の顔を見つめている。果たして、流貴亜に瑠夏の名前を話したことがあっただろうか。子供が産まれたという話は確かにした記憶があるのだが、名前までは……。悠馬の中で、かすかな疑問が沸き上がったがすぐに消えた。
「出所祝い……ちゃうわ、これからの悠馬の再出発がうまくいくのを祈って……」
流貴亜が持つビニール袋に入っていたのは、箱詰めされたコーヒーギフトセットだった。
「うわ、ほんま助かるわー。コーヒー本当よく飲んでんねん」
悠馬はビニール袋の中をのぞき込むと、流貴亜をすぐに部屋へ招き入れた。こたつに座らせると瑠夏をベッドに寝かせ、流貴亜のためにコーヒーを用意した。
「医者の仕事を、もう一度やってみたいと、思わへんか?」
流貴亜はすぐに切り出した。
「前も話したけど、もう免許がないねん……」
「わかっとる。お前は医師免許を国から奪われた。けどな、お前の頭ん中、お前が学んだことは誰も奪うことはできひん」
「俺に闇医者をやれいうんか?」
「そや」
流貴亜は間髪入れずに答えた。コーヒーを飲もうとしてカップに添えた右手が止まった。
「悪いけどその気はない」悠馬の答えも素早かった。
「闇医者なんて。非合法なことはしとうない」
「は? 今何てゆうた?」
流貴亜の目つきが鋭くなった。その目に悠馬は、長い間見ていなかった流貴亜の殺気を見た。かつて一緒に悪さに明け暮れていた中学校時代が蘇っていた。
「闇医者?」
「ちゃうわ」
「……非合法?」
「そや。非合法。ひ、ごうほうや」
流貴亜の右手は、まだカップに添えられたままだった。
「コーヒーのまへんの?」
悠馬はつとめて優しい口調で尋ねた。
「じゃかあしいわ」
小さく言い放つと、流貴亜はコーヒーを一気にあおった。
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