18 握った手、離した心
植え込みを蹴散らすように突っ切りながら、利仁亜は早足で戻ってきた。彼の表情を確かめて、瑠夏はようやく震えを治めることができた。深呼吸をしながらゆっくり立ち上がり、サンダルを履き直した。
「畜生。完全に見失ったよ。そっちは警察、来た?」
瑠夏は俯いたまま頭だけでうなずく。
「じゃ、もう大丈夫か。あいつはもうじき捕まるよ……どうしたの? 顔色悪い? サンダル脱いじゃったりしてどうしたの?」
息を切らしながら答える利仁亜は、瑠夏の顔をのぞき込む。瑠夏は俯いたまま、上目遣いに彼を見る。
「警官に、手紙を取られたの」
利仁亜はさらに顔を近づけて、やっと瑠夏の声を聞き取ることができた。
「手紙?」
「さっきの男の子からもらったんだけど……」
利仁亜は笑い出そうとして、思わず鼻息が先に漏れた。
「下着泥棒からラブレター? いらねえだろそんなもん」
「ちがうの!」
瑠夏は顔を横に振る。利仁亜には理解してもらわなければと気持ちが高ぶり、焦った。
「なんだよ?」
「多分、下着泥棒じゃない……警官は私に最後まで手紙を読ませてくれなかったの。でも、ちょっとだけど、私、見たの。手紙を書いた人の名前は福田……ユウマ、って名前で、私の本当の父親が……とか、そんなことが」
「あいつが? 瑠夏の父親? 若過ぎだろ」
「だから、彼は頼まれて持ってきただけだって……下着も」
「下着?」
たった今気づいた。紙袋で渡された下着がない。周囲を見回したが、それらしいものは落ちていない。落としたはずはない。警官が持っていったとしか、瑠夏には考えられなかった。
「実の父親が代理人を通じて娘に告白? 盗まれた下着といっしょに手紙を渡して? おかしいだろ。大体、一緒に下着を渡すってのが。気にすることないよ」
「でも、警官の様子があまりにも変だった。私……」
瑠夏の声が震える。彼女自身、全くそんなつもりではなかった。
「私、こわい……」
彼女は自身の震える声を聞き、さらに感極まった。押さえ込めていたと思っていた自分の心が全く抑え切れていないことに驚いた。
「大丈夫だよ……」
利仁亜はそっと瑠夏の肩を抱いた。瑠夏がさらに体を預けようとするかすかな兆しを、彼は確かに感じ取った。そして、続く彼女の言葉を注意深く拾おうとした。
「助けてほしい時には、もう、誰も守ってくれない……」
とっさに、しかしかすかにゆっくりと、利仁亜は瑠夏の肩を抱える腕から力を抜き始めた。瑠夏は利仁亜に気づかぬよう、一瞬強く目を瞑った。二人の体の間には少しづつ空気が挟まれていった。利仁亜の胸からは瑠夏の体が少しづつ軽くなった。それは自分の力だけによるものとは思えなかった。瑠夏の体を支える必要がなくなると、体をかすかに反らした。瑠夏は抵抗しなかった。彼は、この日二人で会うことにした本来の目的を忘れてはいなかった。
「大丈夫だよ。瑠夏のお父さんはずっと昔に亡くなったって言ってたじゃん。お父さんは生きているよって嘘ついて、金でも振り込ませようとしてたのかもしれないじゃん?」
利害の絡まないであろう外の人間から今の状況を眺めてみれば、案外その程度なのかもしれない。
「うん……そうだね。そうだよね、きっと」
瑠夏は静かにうなずいた。もう大丈夫と微笑みかけようともしたが、そこまではできなかった。彼女も忘れてはいなかった。この場所で待ち合わせることになった本来の目的を。
「で、今日。瑠夏に話があるって言ってた件だけど……」
話し出す口調には、いかにもついでに、といった素振りが利仁亜からは出てきてしまう。彼は既に瑠夏の気持ちを知っている。半ば義務的に話を続けようとした。
「私のこと、守ってくれて、ありがとう」
「え、ああ……で、さ」
「何かあるの?」
「いや、その……」
「じゃあ、もういいじゃん。これで」
「瑠夏……」
「ありがと。じゃあね」
瑠夏は利仁亜に右手を差し出した。戸惑い気味に利仁亜も右手を差し出す。彼が瑠夏の手に触れるや否や、瑠夏は渾身の力を込めて利仁亜の手を握った。利仁亜の顔が歪む。
「おい、お前、ここでこれかよ!」
利仁亜のうろたえる表情を見て瑠夏は吹き出す。
「まさか、こうくるとは思わなかったでしょ」
瑠夏の表情から笑いが漏れる。利仁亜は握る手に力を込め始める。それが間もなく、瑠夏の力を上回ろうとしたところで、瑠夏は瞬時に力を抜き、利仁亜の手からすり抜ける。その瞬間の利仁亜の表情を、瑠夏は確かに見た。そして、それを一生頭に焼き付けておこうと思った。
「じゃあね、利仁亜」
二人の距離は、手を伸ばせばかろうじてお互いが届く位だった。瑠夏は利仁亜に手を振る。たった今、瑠夏は利仁亜が今までに見た瑠夏の中で一番可愛い瑠夏であってほしいと願った。実際にその通りである自信があった。自分ではなく詩織を選んだことを思い切り後悔させる瞬間であることを願った。
「ああ。じゃあな!」
利仁亜の声は、意を決したように、これが最後であることを決定付けるかのように快活で、優しく、張りがあった。彼の目を一瞬見据えると、瑠夏は背を向けて走り去った。
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