著書 「総一郎」
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著書「総一郎」
「頼む……三十万だけ、どうしても出してくれ。」
それは私が総一郎を第一子として迎えて間もない頃の出来事だった。
見覚えのない金融会社からの督促状、昼夜を問わず鳴り響く電話、無機質に届くメール。――テレビの向こうの世界でしか存在しないと思っていた光景が、私たちの暮らしに割り込んできたのだ。
信じたくなかった。新しい命を授かり、これから立派に育てていくはずのときに。よりによって最も祝福されるべき時期に。そんな現実は、あってはならないはずだった。
理由はパチンコだった。共働きで積み立てていた家族貯金――旅行や総一郎の将来のために蓄えていたはずの金を切り崩し、借金の返済に充てるしかなかった。夜、総一郎を寝かしつけた後、私は涙をこらえながら夫に切実な思いを伝えた。もう二度とこんなことが起こらないように、と。未来に希望を持てるように、と。彼もさすがに猛省したのか、それからしばらくは同じことは起こらなかった。一抹の不安はあったが、それも杞憂だと思い込むようにした。
――だが、次は百万円だった。
総一郎が小学校に入り、間もない頃で、持ち前の人懐っこい性格で友達もでき、学校が楽しくなってくるであろう。そんな時期だった。
月に六万円の小遣いをすべてパチンコに費やし、失った分を埋めるために借り、借りた分を増やすためにまた借りる。螺旋のように落ちていくその行為は、もはや正気の沙汰ではなかった。私に嘘をつき、必死に隠していた事実が露見したとき、心の底から寒気が走った。
何人もの友人に「もう別れたほうがいい」と言われた。だがそれでも、私は離婚できなかった。夫は人当たりがよく、ゲームも上手く、場を和ませるユーモアを持っていた。外から見れば、誰もが「理想的な夫」だと思っただろう。実際、総一郎も父のことが大好きだった。私もそんなところに惹かれたのだ。別れれば総一郎は必ず傷つく。それが総一郎の将来設計、人格形成に及ぼす影響は計り知れない。さらに夫の実家は太く、そこからの援助は子どもの未来を考えると心強いものでもあった。この事実を実家にひた隠しにして、一向に増えない家族貯金を見ながら、迫り来るカオスから目を逸らすしかなかった。
そして総一郎が三年生になったある日のこと。
その日、仕事から帰宅すると、公文(くもん)に行っているはずの総一郎が家にいた。私たちは二世帯住宅に暮らしており、私の両親と同じ屋根の下にいたため、母に理由を尋ねると「先生が全員風邪を引いて臨時休業らしい」とのこと。そんな偶然もあるのかと驚きつつも、「今日はラッキーだったね」などと笑い合い、そのまま夕食を囲んだ。
けれど、やはりそんなことがあるはずはなかった。
食卓を片付け、ゴールデンのバラエティを見て、場が笑顔に包まれていた。電話が鳴った。母が受話器を取り、顔色を変えて私に渡す。――「総一郎くんが今日、公文に来ていないのですが、体調でも崩したのでしょうか?」という確認だった。私の中の何処かで、糸がぷつりと切れる音がした。
私は電話を置いた後、すぐに声を荒げることはしなかった。胸の奥で最悪の予感に押し潰されそうになりながらも、私はできるだけ優しい声で総一郎に問いかけた。
小学三年生なら、こういう嘘をつくこともあるのだろう。けれど、どうしても息子に夫を重ね合わせてしまった。人を欺く、狡猾な嘘。胸の奥を握り潰されるような絶望と幻滅、失望に、その夜は息をすることさえ苦しかった。私は総一郎を厳しく叱り、夫も一丁前に説教をしていた。総一郎は素直に反省し、その場は収まった。だが私の心には深い穴が空いたままだった。何を信じればいいのか――そんな問いが、太陽が見えそうにもない黒雲のように心の中に広がっていった。
私の父と母は他界し、総一郎が6年生になる頃。夫の金遣いの荒さは直らず、結局私達は離婚することに決めた。そしてそれを私達で初めて総一郎に伝えた。総一郎は久びさに激しく泣き、私も申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ただ、当時の現状として、形式上離婚し、金銭面を分けただけで、マンションに引っ越しはしたが、同じ家には住んでいるし、以前と変わらず共に暮らしているとても歪な家庭であった。家賃は私が払い、元夫は居候という形になるのだろうか、週に5〜6回家に来て、ソファをベッド代わりにして寝ている。総一郎の遊び相手にもなるし、許容していたが、友人達からは反対されていた。
総一郎が中学生の時、元夫は自営業を初めた。営業職なのだが、確かに元々仕事のスキルはあり、人に好かれやすい性格のため、社員として働いている時の成績は良好だった。だがやはり、金銭面にだらし無い人間が、仕事全体を管理出来るはずもなく、総一郎が高校生になる頃には、500万の借金を抱えていた。別れて正解と言えば正解だったが、いまの居候されている現状には、自分の優しさ、いや、甘さが出てしまっているのではないかとも思う。現在は自営業はやめ、その借金を立て替えてくれる人の下で働いているらしいが、将来の見込みはあまり期待できないそうだ。
私はこの歪な家庭環境のなか、総一郎を立派な大人として旅立たせる責務がある。これからまた多くの決断と実行をすることになるだろうが、親として、この子を立派な大人に育て上げて見せる。 -完-
著書 「総一郎」 手軽に読める小説bot @EringiMeister
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