第9話:山越え

「ここに、泊まっていくのか?」

旅人が去ったあと、ローワンが恐る恐る声をかけた。


「──…いや、先へ進む」

エリアスは椅子から立ち上がり、外套を払う。


「大丈夫なのか? その、襲われたって話だったが……」

自分の声に怯えが滲んでいるのが、ローワン自身にも分かった。


──何せ、外の世界は初めてなのだ。

馬に乗るのも、まだ「乗せてもらっている」だけで、何一つできていない。

痛いほど理解している。


「そんなのが怖くて、精霊獣狩人なんてやってられるか」

言い放つエリアスの声音には一片の迷いもない。


ローワンは思わず眉をひそめる。

「でも……」


「それに、俺たちにはアルシュタインがいるからな」


その名を呼ばれた栗毛の馬が、ちょうど窓の外で鼻を鳴らした。

瞬間、ローワンの胸を覆っていた不安が、なぜかすっと引いていく。


「腹いっぱい食ったか?」

馬の立髪を撫でるエリアスに、ローワンはつい問いかけていた。


「アルシュタインは……いつから一緒に?」

エリアスは僅かに口元を緩める。


「もう五年になるか。まだ子馬だった頃から世話してる」


「信頼してるんだな」


「ああ、当然だ。それに、ここの山越は初めてじゃない」

短い答えだが、その響きには確かな重みがあった。


ローワンはうなずきながら、ブルルと息を吐くアルシュタインを見やる。

──己が信じるものを、迷わず「当然」と言える強さ。

それが心の奥で静かに波立っていた不安を凪がせていった。


◇◇


だが、王都への道は、エリアスの知っているものではなかった。


山道の一部は雨で崩れ、谷に向かって大きく抉れている。

踏み固められた獣道も土砂に埋まり、何度も遠回りを余儀なくされた。

まるで意図したように、進むほど道は荒れ、時間を奪われていく。


空は早くも群青に沈み、森の影が濃く落ちる。

風が谷を抜け、松葉をざわめかせる音が不気味に響いた。


「……日が暮れるな」

エリアスが馬上でつぶやく。


ローワンは無言で頷いた。

手綱を持つ指は汗ばみ、膝は揺れに合わせて強張っている。

朝から馬の背に揺られ続け、全身が軋むように痛んでいた。


「今日はここまでだ。火を起こす」

エリアスは慣れた手つきで薪を集め、火打石を打つ。

すぐに火花が散り、乾いた枯れ枝に小さな炎が生まれた。


ローワンは隣に座りながら、暗闇に沈む道を見返る。

昼間の賑わいが嘘のように、世界は静まり返っていた。

だが耳を澄ませば──遠くで何かが動く気配がする。


「……ここで、本当に大丈夫なのか」


問いかける声は震えていた。

エリアスは焚き火に枝をくべ、ちらとローワンを見やった。


「大丈夫だ。俺がいる。アルシュタインもな」


そう言って火の明かりに照らされた横顔は、迷いなく静かだった。

ローワンは唇を噛み、火に照らされた馬の姿を見やった。

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