第8話:黒い噂
「さて、何にするかな」
壁に掛けられた木札のメニューを見上げながら、エリアスが顎に手を当てる。
ローワンはといえば、文字の羅列をじっと眺めても味の想像がつかず、仕方なく目についた“赤い細い実”の絵が添えられた料理を指さした。
「それにするのか?」
「……ああ」
「意外だな」
首を傾げるローワンに、エリアスは苦笑するだけで詳しくは言わなかった。
やがて料理が運ばれてくる。
立ちのぼる香りに鼻をひくつかせ、そっと一口。──瞬間、舌が焼けるように痺れ、喉の奥まで熱が走った。
「っ……!」
思わず肩が震え、額にじわりと汗が浮かぶ。
「……お前、辛いのダメだったのか」
低い笑い声が隣から落ちる。呆れ半分、どこか楽しそうな響きだった。
「……知らなかったんだ」
小さく咳をするローワンの前に、エリアスが自分の皿を押し出す。
「ほら、こっちにしろ。俺は平気だ」
「……いいのか」
「食えないもんは仕方ねぇだろ」
皿を入れ替え、口にした瞬間、広がるのは穏やかな塩気と香ばしさ。
火照った口内がじわじわと和らぎ、思わず肩の力が抜けた。
「……ありがとう」
不意に零れた言葉に、エリアスの手がぴたりと止まる。
ローワンは慌てて顔を背け、もぞもぞと口を結んだまま食事を続けた。
工房で孤独に生きてきた彼にとって、誰かに感謝を伝える行為はひどく照れくさい。
「礼なんざ要らねぇよ」
そう言いつつも、エリアスの口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
正面からそれを見ることができず、ローワンは視線を皿へ落とした。
◇◇
そのとき、重い荷を背負った旅人が食堂へ入ってきた。
外套の裾は泥に汚れ、肩に積もった埃が長旅の過酷さを物語っている。
「ここらに宿はあるかい?」
低い声に、店主がカウンター越しに顎をしゃくる。
「そこにあるよ。表を出て右手、灯りが見えるだろう」
安堵したように頷いた旅人に、別の客が興味本位で声をかけた。
「……あんたも王都に向かうのか?」
「そうだ。だが……」旅人は視線を落とし、声を潜める。
「道中で耳にしたんだ。最近、夜に獣に襲われるらしいって。本当か?」
食堂の空気がわずかにざわめいた。
店主は言葉を濁したが、別の客が椅子をきしませて近づき、低く答える。
「ああ……俺の前を歩いていた一団も、王都へ向かう途中でやられたらしい」
「やられた……?」旅人の顔が強張る。
「詳しくは知らねぇ。生き残りがあまり口を開かないんだ。だが馬は引き裂かれていたって話だ。爪痕も牙の痕も、まるで本物の狼の群れに襲われたみたいにな」
「……狼?」
「いや、そうとは限らん。旅人を狙う連中が暗闇に紛れてるって噂もある。獣か、人か──それすら分からん」
食堂の明かりが暖かくとも、妙な冷気が忍び込んだように背筋が粟立つ。
旅人は肩をすくめ、早々に席を立った。
「……厄介な話だな」
エリアスの低い呟きに、ローワンは無意識に隣を見上げた。
その琥珀の瞳は険しく細められ、まるで外の闇を睨んでいるかのようだった。
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