第17話 ただ好きな人を想ってもいい
僕は手にしていた杖をぐっと握りしめ、
粉雪は舞うようにさらりとしているので、もしかしたらそんなに深くはならないかもしれない。
いつもの呼び鈴に使っているベルがローブのポケットに入っていることを確認し、どんどん足を速めていく。そう遠くまでは歩いていなかったようで、すぐに視界がひらけて聖樹の姿が見えた。
サン=シルヴァン聖王国が建国する以前から、この場にあって人々を見守ってきたとされる聖樹は大聖堂よりもずっと大きい。
春になり、精霊祭が行われるときは、みなの祈りに応えるように薄緑にぽうっと輝く不思議な大木だ。
ほかの木々のように冬でも葉を落とすことはないけれど、今は、静かにそこに鎮座しているだけだ。
さっきまで帰路を急いでいた人たちもすっかりいなくなってしまったようで、広場の辺りは閑散としていた。広場からぼんやりと聖樹を見上げていると、すぐ隣の横道をオクターヴさまの馬車が通っていくのが視界をかすめた。
百合の花の紋が金色で施された白いきらびやかな馬車は、街中を走っているだけですぐに誰が乗っているのかを誇示してくる。好奇心をひかれてついそのまま見つめていると、プラチナブロンドの長い髪を手で払いながら、華やかな装いで楽しそうに笑っているオクターヴさまの姿がのぞいた。
ここで生活していたころは、彼と出くわしそうになると、逃げたり隠れたりしていた。だけど、ひさしぶりに見かけてみると、なんだか彼もひとりの人間であり、ただの風景の一部でしかないような不思議な感覚が広がった。
そのままぼーっと馬車を見ていたら、オクターヴさまが外に目を向けたので僕と目が合った。
その途端、彼の表情が一瞬で変わった。
(なんでそんな、オバケでも見たみたいな顔……変なの)
浮かんでいた表情は嫌悪でも憎悪でもなく、純粋な恐怖だった。
顔を顔を歪ませて、本当に僕のことを怖がっているように見えて、僕は逆にあぜんとしてしまった。
どうしてオクターヴさまは、そんなに僕のことが怖いんだろう。
そのまま固まっていると、窓に張りついて僕をよく見ようとした彼の奥に、オーギュスタンの姿があった。
(なるほど……なるほど……)
オクターヴさまとなにかを話して、オーギュスタンも驚いた顔でこちらを見た。
二人がつながっているだなんて思ってもみなかった。セヴランが来なければ、王都に足を運ばなければ、僕はずっとオーギュスタンを信じてあのまま古城でひっそりと生活をしていただろう。
信じがたいことだけれど、オクターヴさまが汚名を着せてまでこんな僕を追い出したかったのかなという想像が、現実味を帯びてきた。
セヴランが疑っていたことは、間違いではないのかもしれない。オーギュスタンがあのベルを鳴らせないのは、精霊の加護を失っているからなんだろうか。
精霊は、それぞれの人生に学びがある形で僕たちに関与するとは、よく年配の国民が口にすることだ。精霊が明確な罰を個人に与えるようなことはないのかもしれないけど、罪人などが加護をなくすというのも聞いたことがある。
本人は気がついていないようだけど、本当に加護を失っているのならば、オーギュスタンはすでにたくさんの不運に見舞われているはずだ。
オクターヴさまのことはわからない。まだ精霊士でいるのだから、加護を失ったわけではないだろう。
でも、そうまでしてどうして――?
(彼らは……僕が持ってるものなんて、なんでも持ってるのに)
もし僕しか持っていないものがあるのなら、なんだって渡してあげるけれど、こんな僕にもひとつだけ――譲れないものができてしまった。
彼らは僕を引きずり下ろすために、僕がどうしても受け渡せないものをさらっていった。
(奪われたのは、セヴランさんの……尊厳だ)
みんな懸命に生きている。
ほかの人が想像する以上に、自分の人生をみんな懸命に生きている。
きっとオクターヴさまだって、自分の人生に必死なんだ。
きっとみんな、必死なんだ。
ただ漠然と全部を守ろうと考えて、精霊にみんなを守ってくださいと祈りを捧げてきた。だけど、そんなのは不可能なことだった。
精霊たちが見守ってくれているこの国の中でだって、消えていく命はある。
失われていく人生がある。
みんながもがいた過程が、いつも美しい結果を生むわけではない。
(それでも、大切なものを奪っていい理由にはならない……)
セヴランは騎士の資格を失うんだろう。
もしかしたら、伯爵家の生まれをも失うのかもしれない。
ただの孤児である僕の人生を守ろうとして、そして、犯してもいない罪の告白をセラフィオスさまに伝えなければならなかった。
どうして彼が目をつけられていたのかを、僕は知らない。
要領よく、いつも笑顔で渡り歩いていた彼にも、どこか不器用なところがあったに違いない。
僕はそっと目を閉じた。
王都にはたくさんの音があふれている。
霜を踏みしめるブーツの音、ガタガタと大げさな音を立てる荷馬車の音、店じまいをする人たちの話し声、足早に歩く人の服がこすれる音、街灯に火を入れている音。
遠くでだだをこねている子どもの声、鳥が羽ばたいている音、耳をすませば――雪が積もっていく音さえも、すぐそばにあるように感じられた。
すぅっと大きく息を吸い込む。
いつもの森とは違う、生きている人たちのいる空気だ。
僕は自分の手にしたベルを強く、横に振った。
――リリィーン――
思いのほか大きな音が鳴った。いつもは門から音が自分に届きさえすればいいと思ってた。セヴランが来てからは、何度ものあの丘に出向いて、二人で夜空を見上げながら鳴らした。
だけど、セヴランはいつだって僕のすぐ隣に座っていたから、こんなにも音を遠くに響かせようと思ったことがなかった。
でも今日は――。
(響かせたいと思いながら鳴らす――)
精霊士が自らの杖に込める力というのは、特別な力でもなんでもない。
ただの――想いだ。
この世界が幸せであるようにと、みなの今日が幸せであるようにと、そう願う気持ちを精霊に届けているだけだ。
だから今までは、いつだってこの国中の精霊たちのことを考えて、あたたかな気持ちでいようと努力した。自分の心が空っぽなことから目を逸らして、みんなの心を満たしてくれることを祈った。
(空っぽな僕が……そんなことを、できるわけがなかった)
広場に残っていた人たちが、僕のほうを見てざわめいている音がする。
それはそうだ。精霊祭でもないのに、王都のこんなど真ん中で、突然祈りを捧げ始める精霊士などいない。
精霊士はいつだって、人々の幸せを、実りある収穫を、災害のない穏やかな日々を、その祈りを精霊に届けるために存在している。すべての感覚を使い、自然と口から溢れる言葉を唄に乗せて。
だけど――。
――リリィーン――
僕はもう、知ってしまった。
僕の五感のすべては――。
(あなたのためにある……)
まぶたの向こうにかすかに感じる星たちの光も、指先から伝わる僕の杖のぬくもりも、大きく響く僕の命の脈動も、聖樹をすり抜けていく冷たい風の匂いも、全部、僕の命は――僕の大切な人のためにあった。
あなたと一緒に食べたごはんだって、あなたがいたから味がしたのだ。触れられたところから広がった愛も、冷たい言葉に剣の切先でえぐられたようにうずく胸の痛みだって。
――リリィーン――
頭の中に音が鳴る。
あなたのことだけを思って溢れる音が聴こえる。
口をひらくと風に乗るように、旋律がこぼれ出した。その音色は今まで僕が口にしたようなものとは違って、透明な水のように遠く、遠くまで、その音を響かせていく。
まるでなにもない鏡のような湖面の上を、ひとり裸足で歩いているような感覚に酔う。
僕はゆっくりとまぶたを上げ、前にある聖樹のきらめきを瞳の中に閉じ込めるように映した。
僕の唄に呼応するように、少しずつ聖樹がぽうっと光を宿していくのが見える。
だけど僕の頭の中には、セヴランの笑う姿だけがあった。
(好きです――……)
子守唄のように優しく体を包み込み、すべてを許してくれるような風が吹き抜けた気がした。覚えていない母のこと、誰だかわからない父のこと、それでも僕はこの世界に生を受け、こうして大地を踏みしめて立っているのだと思った。
(精霊さまごめんなさい。愛する人のために唄うことを許して……)
誰かの生きる世界ではなくて、僕の愛する人の生きるこの世界が、ずっと幸せであるようにと、これからも願うから。
今日を一生懸命生きているあなたが――。
(生まれてきてくれた世界が幸せでありますように……)
傷つけてでも僕を守ろうとしてくれたあなたと出会えた世界が――。
(今日も美しいものでありますように……)
冷たい檻の中で小さくなっているあなたの未来が――。
(どうか……どうか……明るくあたたかなものになりますように……)
楽しさがこぼれてしまったみたいな笑顔も、驚いた顔も、嫌そうな顔も、嘘をついている顔だっていい。ひどい言葉を投げつけているときだって、あなたが一生懸命生きていることを誇りに思っていてほしい。
(僕に出会ってくれてありがとう……)
出会いやきっかけがなんでもいい。
ただ、あなたのことが愛しくて、僕はあなたの存在するこの世界を――心から幸せにしたいと願う。
(好き――……)
誰とも競い合いたくなんてない。なにに選ばれても、なにに選ばれなかったとしても、ただあなたが幸せであればいい。
あなたが誰かを蹴落として上を目指すなら、僕はそのあなたの幸せだけを願う。
(大好き――……)
聖樹だけを見て唄を捧げていた僕のうしろで、大きなざわめきが起きるのが聞こえた。
気づいたときにはさっきまで降っていた粉雪は止んでいて、空で大きな光が動くのを感じた。僕は声につられて、空を仰いだ。
いつもの丘よりもずっと狭そうに見えたけど、星鯨が雪雲の晴れた夜空を泳ぎまわっているのが見えた。いつの間にか家からも店からもたくさんの人たちが外に出て、空を見上げて歓声を上げていた。
僕のうしろにも、精霊士や聖騎士団の宿舎から出てきた人たちが大勢いて、びっくりした。
でも、僕は唄い続けた。
この声が、冷たい場所でうずくまっているセヴランにも届くといいなと願った。
ぶわりと星の波が揺れる。聖樹越しに見る星鯨は、たくさんの人たちの声に応えるように泳ぎ、それはそれで楽しそうに見えた。
はじめて星鯨を見たときに、誰かほかにも空を見上げている人がいないかと探したことを思い出す。
僕の隣にはセヴランがいるようになって、そして、もっと多くの人たちが今、一緒に空を見上げてるのだと思ったら不思議だった。
僕に星鯨を呼ぶ力があるとは思えない。きっとあれは気持ちのいい場所を泳いでいるだけだ。
でも、こうして王都にいる僕のところにも来てくれたのは、なんだか――。
(別にそれでいいよって言ってくれてる気がする……)
そんなこと考えたら、精霊たちに「都合がよすぎる」って怒られてしまうだろうか。
聖樹はいつの間にか薄緑色に輝いて、僕の杖も呼応したように嬉しそうに光っていた。あたたかな気持ちが胸に込み上げる。僕がなにをできたわけでもないし、僕は結局のところ、なにができるわけでもない。
それでも、言葉にしていいのだという気になった。
言葉にして伝えていいのだ。
きっと計算高く要領がよくて、粗雑なところもあるけど丁寧に僕にツッコミを入れてくれる。いつも人の輪の真ん中にいるのはわかるのに、どこか寂しそうな表情をする。僕を迎えにきたくせに、帰りたくないとだだをこねて、そのくせあっさりと僕を捨てて帰って行った。
黒い艶やかな髪も、美しいラピスラズリの瞳も、笑うと見える白い歯も、なにもかもが好きだった。
僕は伝えてもいいはずだ。
「ありがとう……って」
みんな僕のことなんて誰も気にもかけていなかった。
夜空を仰ぎ、星鯨に歓声を上げ、結局僕は――何者でもなかった。
失敗したって成功したって、僕のことなんてみんなに見えていないみたいだった。
でも、それでよかった。
僕はもう、伝えたい言葉も、伝えたい人もいて、それが僕のすべてだったから。
「ありがとう」
もう一度口にして、そのあたたかさを噛みしめた。体中に満開の花を詰め込んだみたいに、やっぱり胸がいっぱいだった。
――ありがとう。
(僕に愛を――教えてくれて)
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