第18話 千霧前夜・印盤暴走

千霧祭の前夜、町が寝静まった深夜一時。海霧聖堂の床石は、昼の湿りを残したまま低く息をしていた。

キィ――

格子扉の蝶番が四ミリの遊びで鳴く。魁晟が合鍵を抜くより早く、地下の奥で、薄い紙を束ねたような音が立ち上がった。

♪し、し、し

ハミングではない。拍が硬い。棚の最下段――“親盤”R-00の呼吸が二吐一吸から一吐一吸へ変調している。

「暴走前兆。格子、閉め気味で」

良照が水平器を覗きながら、小声で角度を指示した。

「灯台“長”は〇・五遅延で維持。鐘は一打、いつでも打てる待機」

魁晟が短く告げる。地上の白い窓が半拍遅れて石の目地を舐め、階段の陰影が一段浅くなった。

踊り場を抜けると、棚の列が、いつもの四ミリの“待つ”を解いていた。

――寄る。

反射テープの手すりに沿って、未使用印盤が音もなく前へ滑る。縁の格子が粟立ち、三本筋が針の先のように尖っている。

「自己詰め、解除。榔(ほぞ)外れた動き」

良照の眉が四ミリ浮いた。

「“座”の外で“返し”が溜まってる。町じゅうの“言い忘れ”が、今夜一気に押し寄せてる」

篤仁は記録板に〈未載置=レフトオーバー・サンクス〉と書き、親盤のほうへ身を寄せた。

「――R-00、応答を確認。『用途・対象・発声』まで自動で点灯。四枠目は、白」

「“座”に載せるだけじゃ間に合わない」

花蓮が掌を胸の前で重ね、深く一度吐いてから吸う。

「“返す”を、急がせて」

棚の奥で、薄い合唱がさらに硬く跳ねた。

♪し、し、し、し

「待て。手すりが剥がされる」

良照がテープの端を押さえる。指の腹に来る圧が、いつもの倍近い。

「四ミリ維持、ギリ。――やるなら今」

篤仁は透明ケースから“N-01”を取り出し、R-00に対面させた。

「“白い枠”は、鐘一打で生まれる“座”。そこに『ありがとう』を載せると成立する――はずだが、今夜は“座”が追いつかない。……………………だから、次に戻る」

「次?」

「“押す”の定義を、もう一つ復権させる。“未記入欄の緊急封止”。押し付けるんじゃない、“返納する”ための押印――“謝辞押印(しゃじおしいん)”。」

「押さないのが、私たちの――」

花蓮が言いかけて止まる。

「“壁は押さない”。“座へ載せる”が本則。だけど、親盤が“返納用の受け板”を持っているなら、そこへ“謝辞”だけ押す。目録の左下、見て」

R-00の縁に浮かぶ目録が、一行だけ薄く光った。

〈返納板=押印受容(条件:鐘一打/四ミリ水平/発声同時)〉

「“押せる板”、あった」

良照が目を細め、手すりの水平をもう一度合わせる。

「条件は三つ。鐘一打。四ミリ。声と同時」

「――やる」

魁晟はためらわない。ジャケットの内ポケットから、透明の小箱を出す。

「“謝辞印(小)”。文言は『ありがとう』だけ。印肉は薄朱。使用は“返納板”に限る。ルール」

「了解」

四人は一列に立つ。R-00の前、受け板は台座の手前に薄い枠として浮かび、角に“座標”の印が二つだけ灯っている。

「順序。鐘一打→『助かる』→『ありがとう』同時押印。誤差四ミリ。失敗したら即時中止」

良照の号令で、胸の奥が一段冷える。花蓮が縄を引く。

ゴン――

空気の角が丸くなる。

「助かる」

四人の声が揃い、半拍。

「ありがとう」

同時に、透明ケースから出された小さな印が、受け板の真ん中へ。

ちいさな、乾いた音。

“押した”瞬間、R-00の白い枠に薄墨の楕円がすっと定着し、棚の列が四ミリぶんだけ後ろへ吸い込まれた。

「――効いた」

魁晟の呼気がわずかに震える。

「もう一度。今度は、未返納“まとめ押し”」

「まとめ、って」

花蓮が目を瞬かせる。

「“ためて押す”じゃない。“ためらいごと押す”。――『言い忘れた感謝』を、誰のでもない形に整えて、返納板に“封じる”。押すのは『ありがとう』だけ」

篤仁は記録板の余白に〈謝辞押印=未載置の束を“誰でもない”へ戻す〉と書いた。

「見た目は、変だ。……………………でも、こっちが“押す意味”だ」

暴走は待ってくれない。棚の奥が唸り、三本筋の角度が揃って鋭くなる。

「時間、ない。――二列目、来る」

良照の声に重なって、薄い楕円の群れが空中で弾み、受け板の上へ落ちた。

「第二波、来訪」

魁晟が短く言い、花蓮は掌を重ねる。

「助かる」

半拍。

「ありがとう」

四人の手が、同時に受け板へ。

ポン、ポン、ポン、ポン――

小さな音が連続して、白い枠の縁が静かに閉じる。棚の列は“待つ”に戻り、紙魚の影は鱗片のまま沈んだ。

「もう一回。――三波来る」

良照のカウントが速い。

「助かる」

「ありがとう」

ポン。ポン。ポン。

四人は真剣な顔で『ありがとう』を押し続ける。滑稽さは自覚している。だが、笑いは出ない。出る代わりに、棚の唄が一音ずつ短くなる。

「――止まりかけ」

花蓮の声が少し緩む。

その瞬間だった。

階段の上、鐘楼が、自分で息を吸った。

ゴォン――

深い。いつもの浅い“一打”ではない。祈りの朝を呼ぶ長い音。

地下の空気が大きく膨らみ、R-00の三本筋が鐘の波形に合わせて伸びる。

♪し――

「同期した」

魁晟の表情が強張る。

「祈りの鐘と“親盤”が、直結。――外から“長”が入るたび、暴走拍が立つ」

「鐘楼、停止できる?」

「今は無人。定時打鍵の自動が“祭前夜モード”に入ってる。止めるには……………………」

魁晟が無線を取る。上のチャンネルが一瞬だけ沈黙し、ローガンの低い声が返る。

「止められない。プログラム。だが、“位相”はずらせる。遅延、いじれる」

「〇・五じゃ足りない。――一・〇は?」

「試す価値あり」

良照は水平器を外し、R-00と受け板の間の“遊び”を四ミリから六ミリへ広げかけて、すぐ戻した。

「ダメ。四ミリは“座”の肋骨。壊れる」

「なら、“押印の拍”を変える」

篤仁は受け板に並ぶ薄い楕円の列を見つめ、鉛筆で小さく三角形を描いた。

〈一・一・二〉

「鐘“長”に対して、『助かる』を一拍遅らせ、『ありがとう』をさらに一拍遅らせる。前に“座”を置くのをやめ、後ろで“封じる”。」

「逆位相封止」

良照が目だけで頷く。

「やれる」

花蓮が息を整え、縄へ手を伸ばす。

「鐘楼の“長”は自動。だから、こちらは“座標=一打”を自分で作る」

魁晟が合図。篤仁は記録板の端に〈封止手順 Ver.0.1〉と太字で書いた。

「来るぞ。三、二、一――“長”」

ゴォン――

空気が膨らむ。

「一」

「助かる」

「一」

「ありがとう」

「二」

ポン。

受け板の中央、薄墨の楕円が静かに閉じる。鐘の尾の揺れが一段だけ弱くなり、R-00の三本筋が刃先から糸へ変わる。

「効いた。もう一回」

「三、二、一――“長”」

ゴォン――

「一」

「助かる」

「一」

「ありがとう」

「二」

ポン。

棚の列は手すりの内側で完全に“待つ”に変わり、紙魚の気配は梁へ出ない。空気はまだ重いが、拍の棘は消えた。

「封止、暫定成功」

良照の声に、四人の肩がわずかに落ちた。

「“謝辞押印”……………………変な作業だったけど、助かった」

花蓮が照れ笑いを浮かべる。

「“押す”を取り戻すなら、こういう押し方なら、私、好き」

「ルールに書く。“返納板に限り、押印可”。――“押す”は“返す”に使う」

魁晟が短くまとめ、篤仁は大きく○を付けた。

〈“押す”=返納/“載せる”=受渡〉

「二本立てで、町を守る」

しかし、静けさは長く続かなかった。

ゴォン――

鐘の“長”が、さっきより半拍早く、勝手に鳴った。

「位相、ずれた」

良照が顔を上げる。

「誰かが“祈りの鐘”を、内側から増幅してる」

棚の奥――R-00のさらに向こう、石室の床下で、細い光が蜘蛛の巣のように走った。

目録にない線だ。

「“本丸の下”が、起きる」

花蓮がささやき、篤仁は無意識に印を握り直す。

「――上と、つながったまま」

鐘が、地下の拍に呼吸を合わせた。

♪し――

霧は、祈りと同期し始める。

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