第11話 挨拶所、歩行実験

昼前の潮名大通りは、曇天の白さがちょうどいい拡散板になっていた。

「配置、最終確認。挨拶所一号、商店街南口。二号、郵便局角。三号、踏切前。四号、海浜公園入口」

魁晟が一枚絵の端を指で押さえ、秒針の代わりに舌打ちでテンポを刻む。白いチョーク線はすでに舗道に伸び、四ミリ幅の矢印テープが要所で光を拾っていた。

「“歩行実験(ウォークスルー)”は一時間ごとに四回。各回、ありがとうカード十枚ずつ配布。言えたら矢印が一本つながる」

篤仁は厚紙の束を揃え、表紙の〈挨拶所運用票〉に〈言葉=二拍交差/合図=灯台“長”遅延〇・五〉と書き込む。

「声の角度は三十度。相手の目に入れてから。『助かる』『ありがとう』の順序厳守」

「了解。助かる」

花蓮が短く返し、ベルトポーチの中の予備カードを指先で数えた。

「補給隊、出動」

次郎が胸を張り、カートの蓋を開く。透明の容器に入った冷やし蜂蜜レモンの表面に、うすい輪ができていた。

「“褒めなくても出る”仕様に改修済み。言えば速い。言わなくても出る」

「任せた。ありがとう」

言われた瞬間、次郎の背筋が一ミリ伸び、カートの向きがきれいに矢印へ揃う。

「二号、遅延〇・五の受信弱い」

由加莉が耳の後ろの風見札を押さえ、郵便局角の空を睨む。

「建物の腹で反射が鈍る。三号の“踏切ベル”と位相が重なると、言葉が届きにくい」

良照は四ミリテープを一本抜くと、電信柱の影に沿って水平を測った。

「ここ、“遊び”を四ミリ内に収める。矢印の根元を一センチ東へ。――舞世、手伝うな」

「今、手伝ってないから! 私、今日は“お手本の一般人”!」

舞世は派手でない帽子を目深にかぶり、挨拶所二号の列にさりげなく紛れ込んだ。

第一回。

「助かる」

「ありがとう」

花蓮の声に合わせ、最前の女性が小さく頭を下げる。足元の矢印が一つつながり、押し車の前輪が段差で止まらず、そのまま滑るように進んだ。

「通れたわ」

女性の肩がほどけ、後ろの少年が真似をして声を出す。

「助かる! ありがとう!」

順序は逆だったが、勢いに免じて矢印は細く点線でつながった。

「点線は“惜しい線”。次は順番で」

篤仁が少年に見本カードを見せ、点線の上に二拍の丸印を重ねる。少年はうなずき、次の角ではきちんと順序を守った。

「三号、踏切開く」

由加莉の合図に合わせ、灯台の“長”が半秒遅れて街角を撫でる。カンカンというベルの上で、言葉の橋が揺れずにかかった。

「やっぱ遅延〇・五が効く」

次郎がカートを押しながら独り言を言い、すぐさま通行人に向かって肩でテントを支えた。

「日陰、どうぞ。助かる」

「ありがとう」

やり取りの上で、白い点が一つ跳ねた。

第二回。

観光バスが一台、海浜公園の駐車帯に止まった。外国の家族連れが、挨拶所四号へ流れていく。

「英語は任せろ」

ローガンが前へ出、手のひらを胸の前で返す。

「Help us, thanks(助かる、ありがとう)」

「Thanks」

家族の発音は柔らかく、矢印は控えめに伸びた。

「届いてる。言語差、問題なし」

篤仁がチェックを入れる。そこへ、子どもが自販機のボタンを“ぴっ”と押した。

「モットオシテ?」

ローガンが慌てて手を振る。

「ノー“もっと押して”。ボタンは飲み物。言葉は『ありがとう』」

子どもは真剣にうなずき、ジュースを両手で抱えてスタッフに向かって言った。

「Thank you」

矢印は太線に切り替わった。

「二号で『検印』の朱、薄く出た」

江利華が無線で報告する。郵便局角の掲示板の余白に、米粒ほどの楕円が現れては消えたという。

「壁面掲示、押印厳禁。親盤目録に従う」

良照が矢印テープの端を押さえ、掲示板の前に〈声だけ〉の札を立てる。

「“声で押す”は許容、“印で押す”は不可。――次郎、札の脚、四ミリ短い」

「はやっ」

次郎は咄嗟に工具箱からゴム板を一枚抜き、脚の下に差し込む。札は水平になり、掲示板の余白は静かになった。

第三回。

挨拶所三号で、ベビーカーと車椅子が同時に角へ差し掛かった。

「交差、右先行」

篤仁が手を平行に出して角度を示す。

「助かる」

「ありがとう」

順に言葉が渡り、車輪はぶつからずに抜けた。ベビーカーの保護者が小さく息をつく。

「“言われやすい場所”だね。目録どおり」

花蓮が笑い、由加莉は東風の谷を数え直す。

四回目の開始直前、空気がひやりと変わった。海の向こうから、乾いた一拍。

♪し

「ハミング、戻りかけ」

由加莉の声に、魁晟がすぐ反応した。

「“長”遅延〇・五を一〇秒延長。鐘、一打=待機。全所、二拍交差の間隔を半拍伸ばす」

「了解」

良照は四ミリテープの端を親指で押さえ直し、江利華はワイパーを一引きして足元の濡れを消す。

「補給、列の後方に回る。前は詰めない」

次郎はカートのブレーキを踏み、列の最後尾で待機した。

四回目。

「助かる」

「ありがとう」

半拍長い間が入り、言葉がふわりと空中に滞留する。その“余白”に、ハミングの棘が触れて、丸く溶けた。

「歌、再静音」

篤仁がチェックを入れた瞬間、舞世が二号の列からスーッと前に出て、年配の男性の荷物を片手でひょいと持ち上げた。

「私、力持ち担当!」

「申請してから!」

良照の声が飛ぶ。

「申請、今した! 口頭!」

「書面!」

舞世は舌を出し、しかし荷物はぶつからず、男性の足取りは矢印へ素直に乗った。

「助かる」

「ありがとう」

完璧な順序。白い太線が一気に三メートル伸びる。

そのとき、二号の脇で小さなトラブルが起きた。

「『ありがとう』って、言いにくいんだ」

店先で腕を組んだ若い店主が、視線を逸らした。

「言ったら負けみたいで」

花蓮は正面から見ず、店の庇の影と同じ角度で立った。

「負けなしで言う方法、あります。『助かった、ありがとう』を“掲示”にしましょう」

「掲示?」

「店主さんの声じゃなく、店の声にする。――この『ありがとう札』、出入口の上へ」

江利華が薄い札をすでに用意していて、四ミリの脚で水平を取る。札には小さく〈店の規定文〉と印刷されている。

「お客さんが『助かる』って言ってくれたら、札が『ありがとう』って返す。順序も守れる」

店主は鼻で笑い、しかし札の下で客が袋を受け取ると、札が小さな音で“お辞儀”をした。

「ありがとう」

「……………………勝ち負けじゃないか」

店主の肩が、少しだけ下がった。

「店の“手順”にしました。助かる」

花蓮の声に、札の縁が一瞬だけ銀色に光った。

実験終了。

「一回目:達成率七割。二回目:八割。三回目:八・五。四回目:九割」

篤仁が読み上げ、良照がテープ残量を指で数え、由加莉は風の谷を記録に落とす。

「“初対面の照れ”は挨拶所の掲示で吸収。壁面押印の芽は札で抑制。踏切干渉は遅延〇・五で回避」

魁晟が手短に総括し、灯台へ合図を送る。

白い塔の窓が三短一長で返り、港の風がひとつだけ深く息をした。

解散間際、遠くの旧魚市場の方角で、微かなコーラス。

♪イー、ワー、シー

耳を澄ますと、すぐに消える。

「“イワシ合唱団”、練習程度」

次郎が目を細め、江利華はワイパーを握り直す。

「親盤の“目録”どおりに動けば、歌は歌わない。歌わせないで“歌う余地”は残す」

花蓮が自分に言い聞かせるように言い、カードの束を整えた。角は揃い、表紙は水平、余白は最小。

「千霧祭まで、あと六日」

魁晟が指を一本立て、それから五本へ開いた。

「明日は“雨天運用”。矢印テープ防水、札の耐水、声の届き方。――四ミリ忘れるな」

「了解」

全員の返事が揃ったとき、鐘楼が一打だけ鳴る。

ゴン――

その響きに、通りの矢印が細く震え、そしてまっすぐ伸びた。今日増えた“礼の手すり”は、町の角ごとに確かに残っている。

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