第3話 灯台守同盟へようこそ
翌日の夕方、北灯台の会議室は、壁一面が白い紙で埋め尽くされていた。
「秒単位手順、第一版」
魁晟がホチキスで最後の一枚を留め、真ん中に黒の太字で〈00:00〉を記す。海に面した窓からは、まだ薄い霧が吐息のように入り込んで、紙の端をふるりと揺らした。
「……………………では始める。合図は“光三短一長”。舞世、外へ――」
「はいはい、もう行ってる!」
声が終わる前に、舞世は椅子を蹴る勢いで立ち上がり、反射ベストを片手で羽織って扉を押し開けた。
「舞世、待機号令が――」
言い終えるより早く階段の遠ざかる足音。魁晟は眉間を押さえ、ため息をひとつだけ許した。
「……………………“先行”の記号を赤に変更。良照、代替の内規を」
「了解。先走りへの処置、誤差四ミリまで許容。五ミリ超えたら全行程“やり直し”」
良照は会議机の端を測るように人差し指でなぞり、メジャーを一瞬だけ出して引っ込めた。指先の止まった位置が、紙の上の線より四ミリだけ内側だった。
由加莉は誰にも言わず、窓の鍵を外した。
「風、東から六。ときどき七。……………………波頭の向き、変わり始め」
彼女は髪をゴムでまとめ直し、窓枠に肘を置いたまま、霧の向こうの旗を見ている。
「勝手に動かない」
魁晟が短く釘を刺す。
「動かない。――ただ、見る。町と仲間のために」
由加莉は目だけで笑い、視線を風に戻した。
ジャックは背もたれに深く沈み、帽子のツバを指ではじいた。
「まあさ、風まかせでいこうや。風の段取りに人間が合わせる。それが海の流儀だろ?」
会議室の空気が一瞬だけふっと軽くなる。誰もが頷きかけ――
「ダメ」
良照がすぐに切った。
「風まかせは“理念”。現場は“誤差四ミリ”。ここからここまでが“風に乗せる装置”。四ミリ越えたら、風は味方じゃない」
彼は壁の図面の端を持ち上げ、赤ペンで“矢印の根元”を四ミリだけ描き足す。
「この四ミリで、合図板の影の位置が変わる。港の十字路の手旗が、三歩分ズレる。ズレると、人は『ありがとう』を言う余裕を失う。だから四ミリ」
ジャックは肩をすくめ、笑った。
「やれやれ。じゃ、四ミリの船頭は任せた」
屋外。階段を駆け抜けた舞世は、海風に顔を正面から受けた。
「旗よし! ベストよし! 私が一番“灯り”似合うし!」
彼女は灯台下の小さな合図場へ飛び込み、三脚に取り付けた反射パネルを一気に起こす。
「合図板、立ったわよー!」
インカム越しに響く声に、魁晟は壁の紙の〈00:10〉へ指を滑らせた。
「よし。“反射板起こし”十秒前倒し。良照、パネルの水平角」
「微右、四ミリ」
「由加莉、風の増減」
「七から八。三十秒後に下がる。今はまだ上げて平気」
秒単位の呼吸が揃う。会議室の空気がきゅっと締まり、紙の矢印が実際の風の筋にかちりとはまっていく。
「召喚印、試す?」
ジャックが立ち上がり、胸ポケットから小さなケースを出した。
「『光る指し棒(短)』、昨日のやつ。人の列を曲げるにはちょうどいい」
「訓練での使用、許可。起案書、理由“視認性確認”。危険低減“指し棒の先を人に向けない”。押下、三秒」
魁晟が簡易票を走り書きし、印をジャックに渡す。
「助かる、ありがとう」
ジャックはポンと笑って、会議室の窓へ向けて印を押した。
瞬間、棒の先端が昼光色にふわりと灯り、窓ガラスの内側に薄い円を描く。
「見える?」
「見える。……………………けど、円の中心、四ミリ上」
良照が即答した。
「直す」
ジャックが手首の角度をわずかに変える。光の円が、由加莉の瞳の中にぴたりと入った。
「これで、港の“Bライン”が迷わず右折」
「“Cライン”は?」
「“B”が決まれば、“C”は真似する。人は『ありがとう』に吸い寄せられる」
インカムから、舞世の息が少しだけ荒く聞こえた。
「風、強くなる前に、一発やっていい?」
「“一発”の定義」
「旗を三短一長。灯台トップの反射で、港の視線をこっちに」
「秒単位手順、現時点で“外”。理由」
「昨日の“イワシ合唱団”、また出てくるなら、先に人の目をこっちに寄せたい。歌に釣られる前に“段取り”に釣る」
魁晟は黙って壁の紙を見た。紙は静かだが、外の風は動いている。
「……………………良照、四ミリの余白」
「許容。合図板の“遊び”を四ミリ内に」
「由加莉、風の谷間」
「二十秒後に一段落ち。そこが勝負」
魁晟はペン先を〈01:40〉に合わせ、赤で小さな○を付けた。
「許可。“三短一長”、一回限り。舞世、開始は――」
「今!」
階段下から、旗の布がひゅ、と鳴る音。
短い三つの光が、霧の薄膜を切り裂くように跳ね、少し間を置いて、長い光が海面を撫でた。
会議室の中で、誰かが小さく息を呑む。霧の中の人の影が、確かにこちらを向いた。
「いいじゃん」
ジャックが指し棒を肩に担ぎ、口笛を鳴らす。
「風まかせ、じゃないけど、風が“こっちを正解”だって言ってる」
由加莉は窓から視線を外さない。
「まだ。――あ、来る」
「何が」
「霧の“段差”。灯台の腰の高さ」
言葉と同時に、会議室の蛍光灯がほんのわずか、たゆんだ。外の霧が一段濃くなり、海の匂いが濃度を増す。
魁晟は壁の紙に、最後の一枚を重ね貼りした。
〈01:55〉――〈鐘、連携確認〉
「念のため。海霧聖堂と一打で合わせる。鐘楼に“待機”を送って――」
言いかけたときだった。
会議室の時計が一秒ぶれ、床板の下で見えない筋肉が伸びるみたいに建物が深く息をした。
そして、潮名の空のどこかで、厚い金属がゆっくり振り切れる音がする。
ゴォン――
誰も知らせていないのに。誰も綱を引いていないのに。
海霧聖堂の鐘が、ひとつだけ、はっきりと鳴った。
舞世が旗を止め、由加莉が窓に手をつく。良照は赤ペンを持つ手を四ミリだけ浮かせ、ジャックは指し棒の灯を消した。
魁晟は壁の〈01:55〉に斜線を引き、短く言った。
「――本番だ」
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