海霧聖堂の灯台守同盟×召喚印
mynameis愛
第1話 配属、海霧聖堂
五月一週、朝の湿った風が分室の掲示板をぺらりとめくった。
潮名市役所・海務文化課分室。段ボールの提出箱が三つ、机の上に並ぶ。臨時職員の篤仁は、箱の前でじっと腕を組み、プリンターから吐き出したラベルを一枚ずつ持ち替えた。
「……………………“起案票”は左、“危険予測票”は中央、“押印申請”は右、のはずだが――」
言い終える前に、背後で小さく拍手が起きた。
「助かった、ありがとう」
ふわりと柔軟剤の匂い。海霧聖堂のボランティア、花蓮が掃除機のコンセントを巻き取りながら笑っている。
「まだ未完成です」
篤仁は真顔で答え、ラベルを貼った。だが、箱の向きが逆だった。彼は黙ってはがし、貼り直した。
「助かった、ありがとう」
ラベルは二度目では足りず、三度目でようやく水平になった。
「……………………今度こそ完成だ」
「助かった、ほんとに、ありがとう」
「ですから、まだ未完成です。横の動線矢印がない」
開庁直後、霧注意報のアラートが鳴る。北の海岸線の濃度が一段階上がった。分室の扉が開き、黒いガムテープを指に通した魁晟が足早に入ってきた。
「床に矢印を貼る。入口から提出箱、貸与台帳、退出チェッカーまで一直線だ。花蓮さん、来客を玄関で受けて“右へどうぞ”の一言固定。篤仁くん、貸与簿のフォーマットを“押すだけ”まで落とし込んで」
「“押すだけ”というのは――ボタンでしょうか、スタンプでしょうか」
「もちろんスタンプだ。召喚印の貸出は押印が命。今日から君の机は“起案・予測・申請”の三色仕分け。手順書は秒単位で――」
魁晟は床にテープで矢印を連ね、秒針のような速さで動線を描いていく。花蓮は言われた通り玄関の取っ手を握り、来る人ごとに同じ角度、同じ声量で道案内を繰り返す。
「右へどうぞ。助かります、ありがとう」
その「ありがとう」は、矢印の先端をほんの少し明るくする呪文みたいだった。
篤仁は提出箱の角度をミリ単位で正し、貸与簿の欄を削った。氏名、印番号、返却予定時刻、そして“使用目的(17文字以内)”。迷いを潰すための余白を最小限にする。ペン先が止まる。彼は顔を上げ、花蓮の「ありがとう」を二度数えてから、最後の欄に“危険低減行動(具体)”を追加した。
「追加です。『ありがとう』を言いやすくする欄を設けました」
「……………………“危険低減行動”が、ありがとう?」
「行動を先に書けば、現場に『助かる』が生まれます。助かる=ありがとう、です」
花蓮は目を丸くし、それから声に出して笑った。
「助かった、ありがとう」
初発の来客は、聖堂で掃除を担当する高校生ふたり。床の矢印に沿ってまっすぐ進み、迷わず窓口へ来た。
「押印申請です。『蜘蛛の手(短時間)』を借りたいんです」
「目的は?」
「鐘楼の梁の埃を払うため」
「危険低減行動は?」
「落下物の範囲にコーン設置、見張り一名」
篤仁は、融通の利かない声で早口に問い、同じ速さで印を渡した。貸与簿には黒い判子が列を成しはじめる。秒針と矢印が分室の時間を整え、朝の騒がしさが音楽みたいに揃っていく。
十分後、別の来客が押し寄せた。旧魚市場の補修班、港の交通整理、アーケードの店主。それぞれがささやかな「手」を借りに来た。
「『ウミネコ一時散開』、一〇分で」
「『光る指し棒』、巡回ルート指示用」
「『冷える桶』、氷の持ち出し」
貸与簿が追いつかなくなった瞬間、篤仁はペンを置いた。手は止めても、脳の中で列が崩れる音が広がる。
――まだ、未完成だ。
彼は提出箱の横に、A3を横使いした白紙を広げた。箱の矢印、玄関の立ち位置、貸与台帳、退出チェッカー、すべてを正面図で描き込み、色鉛筆で一本の“利用者の旅”にまとめる。
「オペレーション・一枚絵。これを見れば、誰でも」
花蓮はその絵を覗き込んで目を細めた。
「助かった、ありがとう。ねえ、これ、聖堂にも貼れる?」
「未完成です。聖堂の鐘の位置と、鐘楼階段の幅員が入っていない」
「じゃあ、見に行こう。今のうちに」
分室を出ると、潮名の空は薄い乳白色で、海から吹き上げる風が街路旗をはためかせた。聖堂へ続く石段には、朝露が糸のような線を引いている。花蓮は段ごとに雑巾を掛けながら、呼吸の合間に必ず言葉を足す。
「助かる、ありがとう」
言われた側はつられて動きを整え、段取りがほんの少し“人の形”を帯びていく。
海霧聖堂の扉は重い。押すと、塩の膜を剥がすような音がした。中は冷えている。鐘楼へ向かう階段は狭く、螺旋の内側に小さな窓が等間隔で開いていた。
「鐘の段取りは?」
「三打で北、二打で南、一打で“待機”。去年と同じ。けど、霧の流れは逆向きになるかもって、魁晟さんが言ってた」
「なら、合図表は左右反転の併記が必要だ。段取り表に空欄を残すとして――」
鐘楼に飛び出す。眼下に、港の曲線と灯台の白が見える。風が頬を撫で、海の匂いが鼻の奥へゆっくり入った。花蓮は欄干に肘をのせ、遠くの北灯台を親しげに指さす。
「灯台守同盟、今日も早いね。ほら、魁晟さんの矢印」
地上では、魁晟がテープで描いた長いルートに数人が並び、淡々と訓練している。秒単位の手順で動く人々の列。篤仁は一枚絵の空欄に小さな灯台の印を描き足した。
「――『ありがとう』の欄、どこに入れる?」
花蓮が冗談のように言う。
「最後のチェックボックスか、最初のスイッチか。悩ましいところです」
「なら、両方に入れたら?」
「フォーマットが――」
「そっちのが、手が早い」
その時、鐘楼の縄がわずかに振れた。風ではない。縄の先――鐘の内側で、乾いた何かが擦れる。
「今、鳴った?」
「鳴っていません。けれど――」
窓の外、海霧の幕にゆっくりと影が出た。
紙片が束になって泳いでいるような、けれどもっと大きい。波に寄れば薄く、離れれば濃く、その形は書庫に住む虫の名を借りるしかない。
紙魚――しみ。
巨大な紙魚の影が、霧の向こうで身じろぎした。
鐘の心棒が微かに鳴る。鐘楼の床が、足裏で一枚だけ薄く響く。花蓮が息を呑んだ。
「……………………『ありがとう』を、先に言っておくね」
いつもの声で、彼女は風に向かって言った。
「来てくれて、ありがとう。驚いたけど、ありがとう。出番の段取りは、これから決めるから」
篤仁は一枚絵の余白に、震える線で大きな□を描いた。そこに小さく書く。
〈鐘一打=待機〉
〈影視認=矢印反転の可能性〉
〈『ありがとう』開始〉
下から、魁晟の声が届く。
「鐘楼、状況?」
「影、視認。紙魚大――未確認。待機一打、合図可能」
「一打は“待機”だ。勝手に鳴る前に、段取りで鳴らせ」
篤仁は縄を握った。指先に塩のざらつき。腕の筋肉に、朝から続く“未完成”の張りが一気に戻る。
「鳴らします」
彼は花蓮を見た。花蓮はうなずき、言うべき言葉をもう言っている顔をした。
縄が落ち、鐘が一打、霧の膜を震わせた。影がゆっくりと向きを変える。海霧聖堂は、灯台守同盟の白い塔と呼吸を合わせるように、静かに深く鳴り続けた。
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