EP 2
達観赤子の観察日誌
赤ん坊としての日々は、元・幹部自衛官の精神を容赦なく削ってきた。
まず、生理現象がコントロールできない。これは屈辱だ。次に、意思疎通がほぼ不可能であること。どれだけ理路整然とした抗議を脳内で組み立てようと、アウトプットされるのは「あー」とか「うー」といった間抜けな音だけ。そして何より、猛烈な眠気が定期的に襲ってくる。危機管理も状況分析もあったものではない。
そんな屈辱に耐えながら、俺――アレンは、この世界の観察と情報収集に徹していた。
俺の新しい両親の名前は、父がロルフ、母がアンナ。
父ロルフは、村の大工らしい。日に焼けた肌と、丸太のように太い腕を持つ無骨な男だが、俺を見る目はどこまでも優しい。母アンナは、農家の娘だったらしく、料理と裁縫が得意な心優しい女性だ。二人は決して裕福ではなさそうだが、家の中はいつも温かい雰囲気に満ちている。
前世では天涯孤独に近かった俺にとって、この「家族の温もり」は、正直言って少し気恥ずかしく、そして何倍も心地よかった。
(守るべきもの、か……)
ロルフの逞しい背中と、アンナの優しい笑顔を見るたび、その思いは強くなる。前世で果たせなかった何かを、今度こそ。そんな柄にもないことを考えながら、俺はすくすくと、しかし中身は全く成長しないまま1歳の誕生日を迎えた。
1歳を過ぎると、俺の身体は急激に自由を手に入れた。
驚異的な早さで二足歩行をマスターし、片言ながら両親と会話を成立させた。二人は「うちの子は天才だ!」と大喜びしているが、中身が25歳なのだから当然だろう。
そして、その日。事件は起きた。
アンナが作ってくれる離乳食は、愛情はたっぷりだが、いかんせん味が薄い。素材の味だけ。悪く言えば、味気ない。前世の、あのパンチの効いた味付けが恋しい。
(ああ、せめて、せめて塩の一つまみでもあれば…!)
そう強く願った、その瞬間だった。
脳内に、閃光のようなイメージが走る。
白い結晶。化学式NaCl。精製方法。膨大な情報が濁流のように流れ込んできた。
《ユニークスキル:
頭の中に直接響く、無機質な声。
なんだこれは。幻聴か?
俺が混乱していると、右手の指先に、チリッとした感触が走った。おそるおそる見てみると、そこにはキラリと光る、極々小さな白い粒が一つだけ、乗っていた。
舐めてみる。
しょっぱい。
(…塩だ)
これが、俺の新しい人生における、最大の力との出会いだった。
そして同時に、最大の厄介ごとの始まりでもあることを、この時の俺はまだ知らない。
俺は目の前で微笑む母アンナを見て、決意を固めた。
(この力、下手に使えば面倒なことになる。父さんと母さんとのこの穏やかな生活…スローライフを守るためにも、このスキルは隠し通す)
まずは手始めに、と俺は思う。
この味気ないスープを、少しだけ美味しくすることから始めようか。
バレない、ほんの少しだけ。
俺は誰にも気づかれぬよう、指先の塩をスープの中にそっと落とした。
穏やかな生活を守るための、ささやかな反逆だった。
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