第1章 蘇生
第1話【慈悲】
死者の鼓動が、まだ森のどこかに残っている。
ルヴァント・フェルムはそう信じていた。
枝葉を掻き分ける音が森に響く。
ルヴァントは息を殺し、樹の幹に身を寄せた。
足音を立てないように、苔むした地面に体重を預ける。
湿った匂いが鼻腔を満たす。
視線の先、小川のほとりで若いシカが水面に顔を映している。
茶色い毛並み。
木漏れ日の斑点。
警戒する耳の動き。
首を上げるたび、森全体が静止する。
ルヴァントは腰の革袋に触れた。
中には刃物と、六本の小瓶。
必要な血液量──約800ミリリットル。
死んだ5歳の少年を蘇生させるために。
残された時間は、あと3時間。
推定体重40キロ。
血液量は体重の8パーセント。
一撃で仕留める。
苦痛は血液を変質させる。
時間がない。
◇
ルヴァントは樹幹を離れ、音もなく移動を開始した。
足の裏で地面の感触を確認しながら、一歩ずつ距離を詰める。
ルヴァントの身体は一度、死を経験している。
その影響からか、生者のそれとは僅かに違っていた。
師匠は『ソウルと肉体の繋ぎ直しの副産物』と説明したが、ルヴァント自身にとってこれは当然のことになっていた。
ルヴァントは枯れ葉を避け、石の上を選んで歩く。
シカが再び頭を下げ、水を飲み始める。
大きく迂回し、風上から接近する。
湿った土、朽ちた木々、苔の青臭さが鼻腔を満たす。
匂いで察知されれば、すべてが台無しになる。
小川の向こう岸の岩場へと移動。
距離は約8メートル。
ルヴァントは左足の位置を微調整し、苔むした石の表面に体重を移す。
右足は枯葉を避けて、湿った土の部分を選ぶ。
あと3メートル。
腰の革袋から細い刃物を静かに抜く。
刃先が僅かに光を反射しないよう、身体で影を作る。
シカの耳が再び動いた。
呼吸を浅く保つ。
心拍数、1分間に80回。
右足を次の石に移そうとした瞬間、足元の細い枝に気づく。
避けようとして──
パキッ
シカの頭が勢いよく上がる。
琥珀色の瞳がルヴァントを捉えた。
静寂。
シカの後肢の筋肉が収縮し、爆発的な力を蓄える。
ルヴァントの左足も同時に地面を蹴る準備を整える。
0.3秒
シカの後肢が地面を爆発的に蹴り、小石が飛び散る。
ルヴァントは反射的に岩を踏み切り、走り出した。
◇
小川を跳び越え、斜面を駆け上がる茶色の影。
ルヴァントは川幅3メートルを跳躍し、着地の衝撃を前方への推進力に変える。
森の中を縫うように駆ける茶色の影。
木漏れ日が葉の隙間から斑模様を作り、光と影が絶え間なく入れ替わる。
シカの毛並みが陽光の中で金色に光り、次の瞬間には木陰に消える。
シカは木々の間を器用にすり抜け、岩場を跳躍で越えていく。
40キロの体重を支える四本の脚、リズミカルに大地を蹴る音が森に響く。
ルヴァントは低い枝を掴み、体重を利用して前方に跳躍する。
腕の筋肉が引き伸ばされ、放物線を描いて3メートル先に着地。
距離が縮まっていく。
光が濃くなり、影も濃くなる。
二つの影が森を駆け抜けた。
シカが急角度で方向転換した。
前足で土を削り、後肢の力で新しい軌道へ。
ルヴァントは木の幹を蹴って軌道を修正。
樹皮の感触が足裏を通じて伝わり、反発力を利用して次の一歩を決める。
苔むした岩に足をかけ、三角飛びで高度を上げる。
上方から見下ろすと、シカの逃走ルートが読める。
この先は崖。
行き止まりだ。
光が濃く、影も濃い場所。
手のひらで枝の弾力を確認する。
直径8センチメートル、樫の木。
両手で枝を掴み、身体を振り子のように前方に振る。
放した瞬間、3メートル先の太い枝に向かって跳躍。
着地と同時に膝を曲げ、衝撃を吸収しながら次の跳躍点を探す。
シカは崖の縁で立ち止まっている。
次の枝は2.5メートル先、高度は1メートル上。
ルヴァントは腕の振りを利用して跳び移り、幹を蹴って軌道を修正する。
刃物を逆手に持ち替え、落下角度を計算。
シカの真上5メートルの位置。
落下時間約1秒。
シカの反応時間を考慮すると──
今だ。
シカが振り返り、琥珀色の瞳が、ルヴァントの瞳と繋がる──
──問いかけるように
ルヴァントは枝を離し、身体を縦に回転させながら落下した。
左手でシカの背を押さえ、右手の刃を首筋に当てる。
ルヴァントの刃がシカの皮膚を貫くその瞬間まで、二つの視線は離れなかった。
身体が絡み合いながら地面に転がる。
ルヴァントはシカを抱きとめ、衝撃を和らげながら着地した。
草の匂いと土の感触が頬に触れる。
シカの身体が大きく痙攣し、やがて静かになる。
ルヴァントは息を整えながら、シカの頭を撫でる。
まだ温かい毛並みが、手のひらに柔らかく触れた。
◇
小鳥のさえずりと、小川のせせらぎだけが響いている。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が静寂に溶けていく。
ルヴァントは刃物を抜き、革袋から小瓶を取り出した。
手馴れた動作で、シカの首から流れ出る血液を採取していく。
温かい血液が瓶の中に注がれる音。
まだ生命の温もりを保った液体が、ガラスの壁面を伝って底に溜まる。
鉄の匂いが鼻腔を刺激する。
生命が液体となって保存されていく過程を、ルヴァントは静かに見つめていた。
一瓶、二瓶、三瓶。
必要な量を確保し終えたとき、ルヴァントは初めて表情を緩めた。
小瓶を革袋に仕舞い、シカの身体に向かって小さく頭を下げる。
「君の瞳には、僕には見えなかった境界が映っていたのかもしれない」
その言葉が何を意味するのか、ルヴァント自身にも分からなかった。
ただ、そう言わずにはいられなかった。
◇
森の奥へと続く小道。
ルヴァントは革袋を肩にかけ、思案する。
リムスという5歳の少年が行方不明となったのは、昨日の昼過ぎ。
直ちに捜索が開始され、本日早朝、崖下で死体となって発見された。
すでに4時間が経過していた。
あと3時間。
死後24時間を過ぎれば、どんな繋術師でも記憶を補完する蘇生は不可能になる。
師匠は反対するだろう。
『時間が経ちすぎている』
『ソウルを構成する要素が足りない』
ルヴァントは一度死に、蘇生された身であった。
繋術の奇跡を感じている。
革袋の中で小瓶が軽やかな音を立てる。
希望の音だと、ルヴァントは思った。
小道を抜け、石造りの小屋が見えてくる。
窓には温かい光が差し込まれている。
ルヴァントは深呼吸をし、扉を開けた。
◇
部屋の中央で、深い黒衣に身を包んだ女性が書物を読んでいた。
師匠
深い黒衣に身を包んだ彼女の姿は、昼間の陽光に照らされてもなお、夜が纏う威厳を失わない。
問いの魔女
左半身に浮かぶ灰色の痕跡は、まるで夜明け前の空に残る最後の星雲のように、彼女の白い肌に静かな模様を描いていた。
灰禍の死霊術士
彼女の頁を繰る手が止まり、顔を上げる。
その瞬間、ルヴァントは息を呑んだ。
彼女の瞳は、夜の海そのものだった。
深い蒼の奥で、無数の光が瞬いている。
それは星明かりなのか、それとも海底に沈んだ魂の残り火なのか──見つめるほどに、その深淵に引き込まれそうになる。
陽光が彼女の銀髪に触れ、かすかな輝きを宿す。
生と死の境界を幾度も越え、無数の魂の物語に触れ、そして──答えの見つからない問いと共に生きてきた彼女の、静かな佇まい。
シエノラ・ルミニア
彼女は本を閉じ、ルヴァントを見つめる。
夜の海のような瞳の奥で、何かが揺らめいた。
「おかえりなさい。ルヴァント」
シエノラはゆっくりと立ち上がり、ルヴァントが提げる革袋を見つめる。
血の匂いを察知したのだろうか。
その表情に、僅かな変化が生まれた。
困惑でも、怒りでもない。
むしろ──悲しみに似た理解。
シエノラの表情は、白磁の仮面のように動きを失っていた。
傷ひとつ許さない美しさ──そこに宿るのは人間の表情ではなく、ただ無機質な静止。
しかし、その裏には、氷に閉ざされた湖のような深みが潜んでいる。
穏やかに光を反射しながら、底は永遠に見えない。
覗き込む者は、己の影を飲まれて帰れないだろう。
ルヴァントの胸が高鳴る。
彼女は知っている。
すべてを。
そして──
やがてシエノラの唇に、かすかな笑みが刻まれる。
それは月光を模した偶像の微笑。
美しすぎるがゆえに、人の心を拒む無機の白。
畏怖と憧れが、冷たい光の中で結晶化していた。
「他者の瞳に映し出された境界を、自身の影に求めるのは慈悲と呼べるのでしょうか?」
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