休職一過
行く当てのあるわけでもない身では、すぐに行き詰まることは明白だった。
だが、簡易な荷造りを終えると、おれは翌早朝、小屋を出た。
貧血の後遺症はまだまだひどい状態だ。
簡易な野宿の用意と身の回りの品を詰め込んだ装備をかつぐだけで、足はよろけ、ふらふらと定まりない歩みとなる。
「どこへ行くつもりなの?」
ヒルガーテは珍しく心配そうな顔で、おれを見送りに立つ。
だが、留められることはない。
「正直、行く当てはないね。……だから当分、この周辺にいるしかない」
何とも情けない返事だった。
怒りにまかせ、勢いに任せていったことばだから、深い洞察や思慮のあったわけでもない。
彼女はそれでも一瞬ほっとしたような表情を顔に浮かべた。
「包帯を替えに行ってもいい?」
その発言を聞いたときは、率直にうれしく思った。
しかし、素直な返事は出来なかった。
「どこへ行くかもわからないのに?」
「いいの。探してみる」
急に恥ずかしさと屈辱感がこみ上げてきた。
おれはその場にいたたまれず、上がらぬ足を引きずり、逃げるようにしてゴルエの森へ入っていった。
まるで叱られて家出をする少年のような気分だ。
森に入ってしばらくすると、耐え難いめまいに襲われる。
吐き気もした。
この地域を目指して旅をしていたときには感じなかった荷物の重みに、身体が悲鳴を上げる。
自分のしでかしたこととはいえ、おれはもう後悔していた。
しかし、意地でも小屋には戻るまい。
おれの意思は、身体の欲求と自分の矜持とで板挟みとなり、つぶされかけていた。
なんとか意識だけははっきりさせようと、束の間、山道に腰を降ろし、荒く、早くなった息を整えようとした。
首筋からひやりとした汗が、冷たくなった首の表皮を流れ落ち、悪寒を催させる。
どこまで来たのか、どこにいるのか、時間も方向の感覚さえ失ったおれは、山道をはずれ、草むらの中へ分け入った。
少しでもあの小屋から遠く離れたいと願っていたのだ。
だが、露濡れの草むらに足を取られ、ぬかるみに転ばされながら、重々しい足取りでどれくらい歩いたのか、ついに疲労の極みに達してしまった。
端からじわりと黒ずんでくる視界の中に、ひときわ明るい陽光を感じ、ろうそくの火に飛び込む虫のようにその方向へ向かう。
とうとうおれは意識を失った。
手の甲をくすぐられるような感触に、意識を少しずつ取り戻していく。
手を挙げてみると、そこに羽虫がはい回っていた。
そのまま眺めていると、ぶうんと羽音を立てて飛び去っていく。
視線の正面には青い空が広がっていた。
おれは草むらの中に仰向けの姿勢で寝ていて、つまり、気絶していたわけだった。
眠ったおかげか気分は大分良くなっていた。
日当たりのいい場所らしく、冬のさなかにも関わらずあたりはぽかぽかと暖かだ。
顔を上げてみると、どこか見覚えのある場所。
森の中の空き地だ。
日だまりの中心にはそこだけぽかりと草の生えていない土の盛り上がりもある。
周囲の木立には以前見た、木剣による傷跡もあった。
おれはいつの間にかマチウスの埋葬場所へたどり着いていたらしい。
小屋からそれほど遠くまで来ていないと知っても、落胆より、なぜか安心する気持ちの方が強かった。頭を上げた姿勢に疲れ、おれは再び草むらへ頭を埋めると、空を仰ぎながら考えた。
――いったいおれはなにをしている
――なにをするべきなんだ
これまで何度も何度も自問自答し、答えのでない問いだとわかっていても、頭の中はそのことでいっぱいになる。
――あの、ヨツラでさえ……
過日見舞いに訪れた吟遊詩人のことを思い返す。
その是非はともかく、あの男ですら、真剣に取り組むべきことを持っている。
その顔つきまで変えてしまうほど、良い影響をやつに与えているのだ。
――それに比べておれは
日差しのまぶしさに目を閉じた。
喪失感や無力感に支配され、泣き出したい気持ちに駆られる。
けれど、おれの両目から涙の流れることは、もう、ない。
わき上がる耐え難い焦燥感に、おれは生まれて初めて、神に祈った。
自分に起こったことへの呪詛、心の中に巣くう不平や不満、自分以外の人間たちへの羨望と嫉妬、救いの懇願など、それは祈りと呼べるようなものではなかったかも知れない。
空腹にもかかわらず、小屋から持ち出した食料を荷物から出して食べようという気はしなかった。
祈りながら、今度は睡魔にいざなわれ、おれは再び意識を失っていった。
凍える寒さに目を覚ますと、すっかり陽は落ちかけ雪がうっすらと積もっている。
身体中にまとわりついた雪片を払い落とすと、おれは空き地の縁に立つ木立の方へと移動した。
体力は大分回復したようでもある。
凍えかけ、寒さで震えの止まらない状態にも関わらず、持ってきた荷を解き、落ち着いて防寒の用意を進めた。
とりあえず、今晩はここで野宿するしかないだろう。
大きな木の幹を背にし、雪のなるべくかからない位置にたき火を作った。
火竜の頬袋から抽出したという燃える液体を使い、火をおこす。
ふたつの異なる液体の合わせ所が難しい。
慣れないせいで、袖の一部を焦がしてしまった。
だが、苦労の甲斐あって、火はちょうど良い大きさに安定しはじめる。
わずかばかり切り出してきた薪をくべながら、おれは眠っている間に見た夢のことを考えていた。
目を上げて、空き地の中央にある盛り土を見る。
――まさかな……
これまでは死後、ひとの魂はどこに行くのかなどと考えることもなかった。
夢の中に出てきたマチウスの姿を思い浮かべると、巷でよく聞く話も、あながちでたらめではないのかも知れない。
その考えに身震いする。
薄い毛布にくるまり、内外からの寒気に身を震わせ、空き地での一夜を過ごした。
マチウスは例のあの、少しだけ首をかしげた姿勢のままおれの正面に佇んでいる。
わずかばかり口の端を上げ、微笑みともつかない不思議な表情で、ただこちらを見ていた。
おれはというと、彼の名を必死で叫んでいて、でも、その声は彼の元には届いていないようだ。
走り寄ろうとしても足は泥の中に埋もれたように動かず、近づくことは出来ない。
おれはディトワたち家族の失ったものの大きさを痛感した。
彼らの家族としての絆は、ほんの少し彼らの間に身を置いただけでも、感じ取ることが出来るほど強いものだった。
そして、マチウスは死んだ。……おれをかばって。
――マチウス! おれはあんたに謝りたい!
その叫びは彼に届かず、虚空に空しくこだまする。
村でノフェルメ相手の戦闘前、彼がおれに言ったことばを思い出す。
――『才能あるあんたを、本当はこんな場所で死なせたくはない……』
彼は本当におれに期待してくれていた。
さらに、命も惜しまず身を挺してそれを証明した。
マチウスがそう信じていたからこそ、ディトワたちもそれを受け入れ、おれを後継者にしようと考えたのではなかったか。
それなのにおれは……
目覚めると、朝になっていた。
昨晩の雪はそれほど降り積もらず、地表はうっすらと白い敷布をかけたようになっている。
空き地の盛り土をながめた。
名も無き神が祈りに答えて、マチウスの幻影を示したのか、それとも、本当にマチウスがおれのもとへやってきたのか。
首を振って、意識を現実に戻す。
――いじけている場合じゃないな
手も動く、足も動く。
これ以上ないほど見栄えは悪くとも、まだ頭だって働く。
それに、剣士を目指している者が、いちいちケガを気にしていてどうなる。
彼らの払った代償に対する借りは、なんとしても返さなければならない。
身体に少しだけ力のみなぎる気配を感じた。
おれは再び荷造りを終えると、もといたあの小屋の方角を目指した。
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