第8話 故郷
翌日。朝。
まだ
1階の守衛室で
屋久島大学のものと統一されている
照合を終えるとエレベーターに乗り、最上階の指定された号室へ向かう。
インターホンで名乗ると、「おはよう」というハスキーな声とともに、扉がスライドした。
「殺風景な部屋ですまないな。今コーヒーを淹れてくる」
「いえ、どうぞお構いなく」
「そう言わずに。ヒトのお客さんが来ないと、コーヒーを淹れる機会なんてないからな」
「ではお言葉に甘えます。……そういえば、先生のお友達は?」
「
僕に椅子を勧めると、蛍は鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。
扉が閉まり、僕は研究室に独り残される。部屋を見回す。
蛍の言葉は謙遜ではなく、本当に殺風景だった。この大学での蛍の地位の高さを裏付ける広々としたスペースに、家具はまばらで、視界の大半を占めるのは真っ白い壁。そのせいかまるで病室にいるような錯覚を覚えた。
大学の助教授の研究室なら、もっと雑然としているのが普通のはずだ。
本棚もほとんど空で、わずかな書籍が整然と並んでいた。あまりに整然とし過ぎていて、もう使われていない部屋のような印象さえ受ける。
いや、違う。これは整然としているのではない。
ここにあるのは、そう、空白だった。
ふと、蛍のデスクの上に、1冊のファイルが置かれているのに気付く。
使い古された感じのするファイルは、部屋の主の気配がきれいに欠落したこの部屋の中で、唯一存在を声高に主張しているかのように見えた。
僕は吸い寄せられるように、ファイルに手を伸ばす。
持ち主の許しなく私物を覗くことへの躊躇いはなかった。代わりに、僕の中で芽生えつつあったある考えが、確信に変わっていた。
ファイルの中には、ホッチキスやクリップで区分けされた複数の書類が綴じられていた。
最初に目に飛び込んできたのは、『
実験が行われたのは屋久島生命工学研究所で、実験の責任者は蛍。僕が屋久島生命工学研究所のサイトや屋久島大学の図書館を調べた時は、この論文は見つからなかった。
『ブラッドフォード法を用いたタンパク質濃度測定』と題して、植物のタンパク質の合成に音が与える影響についても緻密な研究が行われていた。
次の書類に目を移す。
『イザナミウム
報告書の作成者はやはり屋久島生命工学研究所、そして、提出先にはミサキバイオニクス社と記されている。
報告書の中に『ミスティルテイン』という単語を見つけた時、ホッチキスでとめずに報告書に挟まっていた紙がするっと抜け落ちた。
僕は報告書の一文を読みつつ、落ちた紙を拾い上げる。
「……サンプルとして使用するのは16歳女性の
抜け落ちた紙は、「天音波那」の存命中のカルテ、そして死亡診断書だった。
報告書には、1枚の写真が添付してあった。
少女の写真だ。
病室と思しき部屋の中で、ベッドに半身を起こし、笑うこともせず、まるで自らの運命を
シーツまで伸びる墨を流したような黒髪と雪のように白い肌との対比が印象的で、美しく、どこか線の細い少女だった。
研究室の扉がスライドする音。
ヒールの音がこつこつと近付いてきて、僕の背後で止まった。
「……前に話したかな、ヒトの行動や心理は遺伝による影響を受けていると。
僕はゆっくりと振り返る。
蛍の手に、あれだけ淹れたがっていたコーヒーはなかった。
代わりに彼女の手には、鈍く光る拳銃が握られていた。
日本の幹部自衛官が所持するタイプの、9ミリ拳銃だった。
「先生が、
向けられた銃口を眺めながら、僕は静かに言った。質問ではなく、確認だった。
蛍は切れ長の目を細めた。
「……やっぱり、驚いていない様子だな。あの電話の質問があった時点で、覚悟はしていたが。良かったら何故ここまで辿り着けたか聞かせてもらえないかな、探偵君?」
「こうして見せて頂くまで、物的な証拠は何もありませんでしたよ」
僕は、恐らくは故意にそこに置かれていたのであろうファイルをデスクに戻す。
「最初は僕も
今ならわかる。瑠璃が出会った当初、桜の探偵部の立ち上げ申請に対し中立的な姿勢をとったのは、登校拒否中の生徒として恐らくは気にかけていた僕を幽霊部員にせず、桜に協力するという形で確実に学園に復帰させるためだった。
その直後、僕と桜に聞こえる場所で園芸部の夕菜に対し、園芸部の現状をつまびらかにした上でわざと冷たく突き放してみせ、僕達と園芸部が出会うように仕向け、同時にその後の僕達の行動の指針となった数々の重要なヒントを言葉の端々に散りばめた。
それからも僕達の前に現れては経過を観察しつつ、実態として水先案内人の役割を果たし続けた。
園芸部と朝菜に対しても、表面上は厳しい態度をとっていたが、実際には園芸部を部室から立ち退かせるつもりはなかったのは明らかだ。
それどころか袂を分かった旧友の朝菜のことを内心では気にかけ、園芸部が存続できるように遠回しにフォローをしていた。朝菜を挑発しエコプロダクツでの『ミスティルテイン』と『ユグドラシル』の勝負を持ちかけるという彼女らしくない行動に出たのも、朝菜の『ユグドラシル』の論文執筆が遅れていることを、恐らくは朝菜に内緒で接触してきていた夕菜から聞かされていて、朝菜を
「事件現場に自ら姿を現し隠蔽工作を指揮したこと、学園に『野球ボールで窓が割れた』『転校した』などとあまりに無理のある説明をさせる強引な情報統制を行なったこと、瑠璃さんがいかにも怪しく見えます。ですが考えてみれば、あれだけ派手に動けば第三者の目からそう『見える』ことは彼女にとって十分予想がついたはず。裏サイトの書き込みにも気付いていないわけがない。もし本当に瑠璃さんが一連の事件の黒幕なら、『瑠璃』という名前が一切噂されることのないよう立ち回ることが彼女にはできたはずです。にも関わらず敢えて積極的に汚名を背負おうとしたのは、彼女に別の誰かを庇おうという意図があったとしか思えません。そしてこの学園内で瑠璃さんが身を挺して庇う対象になり得るのは、親友だった朝菜さんか、恩師として尊敬する貴女しかいない。あれが『ミスティルテイン』に近い特徴を持っていることがわかった時、研究に関与していない朝菜さんの可能性は消えました」
蛍は銃を向けたまま、僕の話にじっと耳を傾けている。僕は続けた。
「一方で、失踪事件の現場に残されていた植物の切れ端を園芸部室に持ち込んだところ、夕菜さんに反応して怪物と化し、同時に夕菜さんが何者かの手によってカロリー変換機関を取り付ける不正改造を受けていたことがわかりました。誰によって改造されたのか朝菜さんに詰問されても夕菜さんは頑なに口を閉ざしたままでしたが、夕菜さんが悩み事を相談できる相手で、かつそんなことが可能な技術を持っていそうなのは瑠璃さんか貴女です。……そして、生物の授業の実験器具係をしている別の二年生が失踪していたとわかったのが決定的でした」
「ほう……夕菜君は私の名前を出さなかったか。夕菜君らしいな」
「中島技研製の第4世代型ばかりが行方不明になるのを見て、第4世代型から実装されたカロリー変換機関の駆動音があの植物を呼び寄せることを過去の研究から確信した貴女は、自分が受け持つ生物の授業で実験器具係として親交のあった夕菜さんをはじめ旧世代型のDOLL達を誘惑して、カロリー変換機関を取り付ける不正改造を行った。
僕が非難を込めた口調でそう尋ねると、蛍は微笑みを絶やさずに答えた。
その答えは、僕の想像を超えていた。
「確かに教え子達には気の毒なことをした。しかし、あの子が生きていくためには、イザナミウムが欠かせなかった。イザナミウムは政府と一部の企業や研究機関が厳重に管理していてね、個人で手に入れるのは大変なんだよ。それであの子を研究室の外に解き放って、少し効率は悪いが、DOLLの電子頭脳に使われているイザナミウムを食べてもらうことにしたのさ。あの子のためには、仕方なかった」
「……あの子?」
僕の頭の中で、おぞましい仮説が組み立てられていく。
蛍が無邪気な声で僕に繰り返し語って聞かせた、蛍の
そして、ファイルの中の死亡診断書にあった、心臓病のため16歳で死んだ少女、天音波那。
イザナミウムと細菌と、ヒト遺伝子との融合実験。
まさか。
「奇跡だった。心筋の変性細胞だけになってしまったあの子に一か八かでイザナミウムを組み込んで、あの子が増殖を始めた時、人間の創作物としか思っていなかった神様とやらを初めて信じる気になったよ」
「あれはもう、貴女の友達なんかじゃない。
思わず語気を強めてそう言った直後、僕は全身が
かつては年長者らしい落ち着いた理性と明るいユーモアの光を湛え、僕達に安心感を与えてくれていた蛍の瞳が、ぞっとするほど暗く見えたからだ。
まるでそこに、底無しの虚ろな
僕の全く知らない蛍がそこにいた。
「怪物、ミスティルテイン、トロイの木馬……なんとでも呼ぶがいい。私はあの子に約束したんだ。死なせはしないと。私にはもう、あの約束しか残っていないんだ」
僕は悟った。彼女は狂ってしまっている。どうしようもなく。
「……それで、どうするんです。その銃で僕を殺して、口封じをするんですか」
そう問いかけると、蛍は僕の横を通り過ぎ、窓辺に立った。
この部屋の窓からは、大学は勿論、志戸子学園まで見渡せた。高等部の校舎や部室棟、中庭、そしてグラウンド。
それは、蛍が窓を開けるのと同時に起こった。
無数の歯車が軋むような音を立てて、蛍の身体が
白衣を突き破り背中から隆起したのは、鈍く光る金属の
直後、翼は滲み出るように生え出た灰色の羽根にびっしりと覆われた。
半ば無意識に、僕は呟いていた。
「……XP-N-001」
僕の言葉に反応して蛍が振り向き、首を横に振る。表情からは何も読み取ることはできない。
「そのDOLLは、5年前に福岡の空で死んだよ」
「嘘です。XP-N-001は死んでなんかいない。違うというなら、どうして僕の姉の墓に花を供えてくれていたんですか。あれは、貴女だったんでしょう?」
僕は叫んだ。実際にはかすれ声しか出なかった。
蛍は答えなかった。代わりに一層強い風が僕の視界を奪い、轟音が耳をつんざいた。
部屋が静けさを取り戻した時、蛍は窓辺から消えていた。
僕は半ば茫然自失となりながらも、壁際の本棚に手をかけて立ち上がろうとして、そこに置かれた2枚のディスクに気付いた。
手にとって、ディスクにサインペンで記された文字を読む。
『波那との思い出 2023/05/20~2024/01/26』、そして、『波那の歌』。
蛍が去った窓から、今度は先ほどと種類の違う轟音が響いてきて、僕はディスクを持ったまま窓辺に戻る。
航空機のローター音だ。それも複数のローター音がぶつかり合う独特の騒音。
タンデムローターのヘリ? 違うと思った瞬間、僕の目の前を機影が横切った。
ガブスレイ。長大な航続距離を誇るティルトローター輸送機だ。
胴体尾部に描かれた青地に白い星のマークを確認するまでもない。あの機体を日本の自衛隊も蒙古軍も保有していない。あれは米軍機だ。
米軍の介入? 無茶だ。屋久島のあるこの大隅海峡近海は、今や完全に蒙古海軍の勢力圏だというのに。厳重な哨戒網を突破してきたというのか。
研究室の隅に放置された重そうな黒い機械から、急に高いノイズ混じりの無線のようなものが聞こえ出す。英語だ。
《マキン・アイランド、こちらブラボー・ワン。現在ウェイポイント・ゴルフを通過。LZ視認。ETAスリー・ミニッツ》
《マキン・アイランドよりブラボー・ワン。状況はバイオハザード・レベルB。レアは禁物だ、芯までこんがりとグリルしろ》
《OKシェフ、速やかに滅菌作戦を開始する。オーヴァ》
米軍の通信を
ガブスレイは次第に高度を落としていく。その先にあるのは志戸子学園。
あそこのグラウンドでは今、軽音楽部の仮設ステージで桜達が『新歓ライブ』に向けて最後の準備に追われていることだろう。
その舞台に、予想もしなかった大物役者が文字通り飛び入りで参加しようとしている。僕は研究室を飛び出した。
大学から学園まで全力疾走して、足がぱんぱんになった。
自衛官を目指していた中等部時代は持久力をつけるために毎朝10キロメートルを40分で走って鍛えていたものだが、わずかなブランクでも身体はなまることを思い知らされる。
登校拒否なら登校拒否で色々やり方もあったろうに自室に引きこもって
水飲み場を盾にして、
いた。仮設ステージに壁のように積まれたマーシャル何とかというスピーカー群の陰に、桜と朝菜が隠れて無事でいた。
幸い、回転するガブスレイのローターが巻き起こすダウンウォッシュのおかげでグラウンドは土煙がもうもうと上がっている。
身体を低くして一気にステージに走り、桜達との合流を果たした。僕の顔を見るなり桜は指をびしっと突きつけてくる。
「
「おいおい、せめて罰金とかにしてくれよ団長」
「おい実、あれはアメリカ軍か? 一体何がどうなってやがる?」
「わかりません。……夕菜さんは?」
「それが、まだ部室で眠ったままなんだよ」
朝菜が表情を曇らせる。
「一応、部室の窓はカーテンを閉めて本棚でバリケードを作っておいたが……やっぱり、保健センターかメーカーに連れて行かねえと、省電力モードでロックされた状態からの起動のさせ方がわからねえ。でも、不正改造がばれたら、夕菜はっ……」
迂闊だった。エネルギー切れを起こしているのだから、放っておけば目覚めるというものではないのだ。
今更言っても手遅れだが、不正改造を
「わかりました、朝菜さんは桜と一緒に、眠っている夕菜さんを担いで本校舎地下の食堂に退避を。日の射さない地下なら怪物は襲ってこれないはずです。朝菜さんは、そのまま夕菜さんについていてあげて下さい」
僕がそう告げると、朝菜は躊躇いながらも表情が幾分か和らいだ。やはり妹を独りにしているのが心配でたまらないのだろう。
「あら、私は夕菜を運ぶのを手伝った後何をするの?」
「桜はその後、至急音楽準備室に行って諏訪之瀬先生にこのディスクを調べてもらってくれ。状況に応じて携帯で連絡を取り合おう」
僕は先ほど蛍の研究室で入手したディスクを、桜に押し付ける。桜はディスクのタイトルを見て怪訝そうな顔をした。
「よくわからないけど、まあいいわ。……実はどうするつもり?」
「僕はここに残る。米軍の動きが気になるし、万一の時には誰かがここでプレーヤーのスイッチを押さないといけないからな」
「ちょっと待て! 夕菜のことはそりゃ心配だけどよ、実だけ残して行けねえよ!」
「ご心配なく、僕は5年前の福岡空襲で九死に一生を得た男です。アメリカは日本の同盟国だし、怪物にしたところで蒙古軍の無差別爆撃に比べれば大したことはありません」
僕の服の袖を掴む朝菜に、僕は笑って親指を立ててみせた。
5年前の空襲の記憶とともに蛍のことを思い出し、ずきりと胸が痛んだが。
「うわ、典型的な死亡フラグね。ついでに田んぼの様子を見に行くのと、婚約の発表もしておくといいわ」
桜がすかさず憎まれ口を叩いている。全く、こんな時でもこいつは変わらないな。
「うるさいぞ、そもそも僕が誰と婚約するんだよ」
「えっ……ばっ、馬鹿ね、言葉の
「はあ? 何むきになってるんだ、ほら、さっさと行け」
桜と朝菜が走り去ったのを見届けると、僕はスピーカーの壁からほんの少し顔を出す。
学園の中庭が燃えていた。
重厚な対BC戦用防護服を装着し、供給式呼吸具のマスクとヘルメットで顔を覆った兵士達が、携帯した火炎放射器で生い茂る木々を無差別に焼き払う。
生木のはずがまるで
米軍が使用している火炎放射器は、園芸部室にあったような民生用のバーナーとは威力が桁違いだ。バーナーの射程はせいぜい数十センチだがあちらは30メートル以上、それに液化天然ガスを噴射している間しか燃えないバーナーと違い、火炎放射器はゲル状の混合燃料をガスによって加圧、噴出のタイミングで銃部の点火システムがゲルに火をつける。命中してから時間が経っても、ナパームのように標的に粘着して燃え続ける。
敵味方が正面きって戦う状況では銃砲に大きく劣る火炎放射器だが、優位を確保した上で隠れた敵を掃討する状況では有効であることは戦史においてたびたび証明されている。
勿論、生物・化学兵器で汚染された物を焼却消毒する作業にも火炎放射器はうってつけだ。
ただし、相手が抵抗してこないモノであることが前提だが。
隊列を組んで悠然と中庭の奥へ進んでいた兵士達の間から、唐突に悲鳴が上がった。
そこに植わっているのは、屋久島を代表するごく平凡な常緑針葉樹である
それらの木々の高所に突き出した堅いはずの枝が、まるで飴細工が溶けたかのようにグロテスクにうねって伸び、何人かの兵士の身体にするすると巻き付いたかと思うと、空中高く持ち上げて、地面に叩き落とす。
怪奇現象としかいいようのない事態に怯んだ他の兵士達の足を、今度は高速でしなる低めの枝が薙ぎ払う。
転げ回って服についた何かを落とそうと必死になっている兵士もいる。恐らくあの強酸性の粘液をかけられたのだ。
植物の攻撃は続く。夕菜を襲った植物と同じ、意志を持っているかのような動き。
兵士達は懸命に回避を試みているが、その動きは植物のスピーディーな攻撃に対してどこか緩慢だった。
無理もない、彼等は作戦のために全員火炎放射器を装備しており、30キログラム以上の重さの燃料タンクを背中に背負っているのだ。たとえ彼等が精鋭で並みの人間よりどれだけ鍛えていようが、そもそも火炎放射器は、狡猾で素早い敵に四方八方を囲まれた状況を想定した装備ではない。
そしてついに恐れていたことが起きた。空中から叩き落とされて背中から地面に激突した兵士の、背中のタンクが引火したのだ。爆発音と、
兵士達は、もはや最初の統制を失っていた。隊列はばらばらに崩れ、孤立した兵士一人一人が、頭上も含めた周囲の植物全てが敵という悪夢のような状況の中で闇雲に火炎放射器を振り回していた。混乱は
ほんのわずかな間に、部隊は壊滅状態に陥った。
待てよ、と僕はふと我にかえる。
怪物は、特定の波形を持つ高い音にのみ反応して襲ってくるはずだ。そうでなければ、これまで積み重ねてきた証拠はなんだったのかということになる。では何故、あの兵士達は襲われている?
グラウンドに待機していたガブスレイのローターとエンジンが動き、前方斜め60度に傾けられた。
回転翼と固定翼の両方の
ガブスレイは低空で、ゆっくりと旋回しながら中庭の樹木に対し猛然と機銃掃射を始めた。機体に設置された回転式の機銃が、秒間100発の弾丸のシャワーを浴びせ、木々をずたずたにする。跳弾が校舎にも当たり、窓ガラスや外壁が砕け散る。
無意味な行為だった。植物を操る細菌に対して、いくら銃撃しても効果はない。恐らく、劣勢の部隊から無線で火力支援を要請されたのだろう。
無線。僕ははっとした。
蛍の研究室で傍受されていた米軍の無線。耳障りな
「まずい、無線を切るんだ!」
ガブスレイの操縦士に聞こえるはずもなかったが、僕は叫んでいた。
だが、僕の声に振り返った者がいた。中庭の入口。さっき見た時には誰もいなかった場所に、独り立ち尽くす人影。左目の眼帯。
気付いた時には、僕はグラウンドを走っていた。
上空。校舎の屋根すれすれを擦過するガブスレイに、校舎の壁から何本もの緑の触手のようなものがすっと伸びた。機体の尾部を絡めとる。ガブスレイはたまらずバランスを崩し、生き残った兵士達を巻き添えにして、頭から中庭に墜落した。
凄まじい音と揺れ。
プロップ・ローターが地面と接触した瞬間に弾け飛び、手裏剣のようにくるくると吹き飛んで、そのうちの一つは部室棟に深々と突き刺さった。
僕が立っていた人影……
倒れたはずみでポケットから飛び出た僕の携帯電話が、僕達のわずか数十センチ横に落下してきた機体の破片の直撃を受けて砕け散った。桜と連絡が取れなくなってしまった。運が悪い、いや、あの破片が僕達からそれただけ運が良いのか。
「糸川さん……ありがとうございます。でも、今日は休講なのにどうして学園に?」
黒煙が立ち込める中、肩を貸して立たせると、瑠璃は制服についた汚れを軽くはたいて、冷静な口調で淡々とそう訊ねてきた。
あたかも本当に、休みの日に間違えて学園に来てしまった生徒を訝しむように。
それはまさしく普段通りの生徒会長の瑠璃であり、米軍機の残骸が激しく燃え盛り、兵士達の死体が散らばるこの中庭においては、どうしようもなく場違いで、滑稽というより不気味だった。それは感情を持つDOLLにはむしろ不自然な「ロボットらしさ」を演じているようですらあった。
こんな状況になってもまだ彼女は、一般生徒に対しシラを切り続けるつもりなのか。
「『ミスティルテイン』は、はやぶさⅡが宇宙から持ち帰ったイザナミウム、それに拡張型心筋症に侵されたヒトの心筋細胞が使われている。そうですね?」
「……」
僕が単刀直入に核心部分の確認をしても、瑠璃は身じろぎ一つせず、静かに僕を見返すだけだった。「仮面を被る」という表現がもし褒め言葉にも使えるのであれば、真っ先に彼女に贈られるべきだった。
「瑠璃さん、もういいんです。蛍先生は、何もかも自白しましたよ」
その言葉に、鉄壁と思える冷静さを保っていた彼女の右目が初めて揺らいだ。
「教えて下さい瑠璃さん。『ミスティルテイン』は、蒙古連邦向けの環境ビジネスじゃなかったんですか。何故、米軍が関わっているんです。そもそも、貴女の提唱していたアクティブエコロジーの象徴であり、温暖化対策と砂漠化対策の切り札のはずだった『夢の細菌』が、どうして植物を凶暴な怪物に変えてしまうんですか?」
瑠璃は、沈黙していた。長い沈黙だった。中庭の炎上する音だけが響いていた。僕は辛抱強く待った。半ば諦めかけた頃、彼女は口を開いた。
「……『ミスティルテイン』に寄生された植物は、光合成と二酸化炭素吸収の効率が一時飛躍的な上昇を見せるのと引き換えに細胞が急速に消耗・老化し、『ミスティルテイン』の活性化に欠かせないイザナミウムの新たな供給が無い限り、長くても半年以内には必ず枯死します。実際に蒙古連邦内陸部に散布すれば、砂漠化の進行を防ぐどころか、砂漠化は急速に拡大するでしょう」
「では、朝菜さんが指摘していたように『ミスティルテイン』はやはり、見せかけの二酸化炭素削減をもたらすだけで環境に悪影響を及ぼす失敗作……」
瑠璃は小さく首を横に振った。次に彼女が口を開いた時、その表情と声からは、持ち前の柔らかさが消えていた。張り詰めた冷気が、とってかわっていた。
「朝菜の考察は良い線をいっていました。ですがあの子が見抜けなかったこともあります。植物の大量枯死と砂漠化の拡大という結末は、『ミスティルテイン』の失敗を意味するのではありません。むしろそれこそが、『ミスティルテイン』に求められる成果なのです」
結果を出せないテクノロジーに価値などない……瑠璃は朝菜を挑発する時、そう言い切った。
行為そのものは、明らかに朝菜のためを思ってわざとなされた偽りの挑発だった。
だが、選ぶ言葉に本心の一端が込められるものだとしたら。
「
瑠璃の瞳に、静かではあるが隠しようのない
「大胆に思えるかもしれませんが、蒙古連邦に怪しまれる心配はありません。日本政府の支援プロジェクトであることが、蒙古連邦を油断させています。何しろプロジェクトを推進する現政権の閣僚、与野党の幹部達は皆、これは支援なのだと本気で信じ込んでいるのですから。政府内にも私達の協力者はいますが、秘密を共有しているのはごく少数です」
唐突に僕は、あの講堂で壇上に立って熱弁をふるっていた時、要人達に対して笑顔で握手や抱擁に応じていた時の、彼女の心中に秘められていたであろうものに気付き戦慄した。
もっと早く気付くべきだった。
休みの日に戦災孤児達の世話を焼き、感情移入を抑えられないでいた彼女の姿を見た時に。
一連の朝菜とのやり合い、そして僕と交わした数々の会話の場において、瑠璃は彼女のイメージとして付いて回るドライなビジネスウーマンあるいは政治家らしい
彼女の
イザナミウムに芽生えた情に厚い性格を、プログラムで抑え込んでいたのが、瑠璃の本質だったのだ。
「蒙古連邦は1950年代のいわゆる大躍進政策の失敗で農村部を中心に5000万人を超える餓死者を出していますが、『ミスティルテイン』を散布すれば餓死者は億単位になるでしょう。農村が死滅し食糧自給率が低下した蒙古連邦は、人民が生きていくために不可欠な
過去に例のない巨大なバイオテロの企てだった。
億単位の死者。穀物戦争。その想像もつかないスケールの大きさに僕は途方に暮れたが、行き着いたのはごく単純な質問だった。
「……それが、瑠璃さんの
「糸川さんになら、わかって頂けると期待しているのですが」
瑠璃は否定しなかった。
激することなくしかし消えることもない、静かな憎悪の炎が揺らめくラピスラズリの隻眼が、僕をじっと見つめる。
「糸川さんが地獄を体験された5年前のその日を、当時まだ製造されていない私は記録でしか知りません」
瑠璃の言葉が、僕の脳裏に一瞬、あの光景を甦らせる。
見慣れた街が、瓦礫の山に変わる光景。家やヒトが、紙のように燃えていく光景。
「私が確かに知っている事実は、蒙古連邦が何の罪もない子ども達から肉親を奪い、手足や目を奪い、心に決して消えない傷をつけたということです。その上で今日も、圧倒的な数の力にものをいわせ、己の欲望こそが法なのだと言わんばかりの
それがあの子ども達の未来のためでもあると信じています。そう彼女は言い切った。
そこに迷いは
瑠璃の瞳が誘っていた。お前と私とは同じものだと。
僕は強い渇きを覚えていた。何かで喉を潤したかった。しかし同時に僕は、気付いてしまっていた。彼女の想いは理解できるが、僕のそれとは途中から枝分かれしてしまっているということに。
「これが瑠璃さんの言っていた『根本的解決』ですか」
「そうです」
「理解はします。僕も、この国が憲法上の問題から素早い迎撃ができないのを知っていて一方的な殺戮を行った蒙古連邦が許せない。何より自分の姉を殺した蒙古連邦が憎い。この手で
「スズメバチに対処する時に、実際に針で刺しにくるハチだけを叩き落とすのが賢いやり方ですか? 後方にある巣を
「……その考え方には、僕は共感できません」
「残念です」
瑠璃は短くそう言ってきびすを返そうとし、そこで立ち止った。
遅れて僕も気配を感じ、振り返る。瑠璃の視線の先、拳銃を構えた蛍がいた。
「……蛍先生」
瑠璃が、目を見開く。その表情から冷静さが剥がれ落ちていく。
「私も実君と同感だな、瑠璃君。君は大切なものを見失ってしまっているよ」
「そんな、何をおっしゃるんです……まさか本当に先生なんですか、感染力が低く計画に適さないため廃棄したはずのプロトタイプを持ち出し、音に反応して攻撃したり自らイザナミウムを摂取したりする習性を付加した上に故意に流出させたのは……違いますよね、違うとおっしゃって下さい。それをできるのは先生しかいないというのはわかっています。でも私には先生を疑うなんてできません。先生は……蛍先生は私の尊敬する恩師で、先輩で、私の目的に心から共感して下さった同志のはずです!」
瑠璃の悲痛な叫びを聞いても、蛍は何も
「『壁の割れ目に花咲けり。割れ目より
蛍は自らを慕う教え子に銃口を向けたまま、一遍の詩を口にした。
「屋久島生命工学研究所の玄関の石碑に刻まれた、君のお義父さんが大好きな言葉だ。しかし実際にそこで引き抜かれていたのは、花ではなくてヒトの命だった」
「……?」
戸惑う瑠璃に、蛍は苦笑して肩をすくめる。
「そうか、やはり君は知らないんだな。しかし関係ない、計画に使われるサンプルや基礎となるデータがどうやって集められたものか知ろうとしなかった君も同罪だ」
蛍は、僕が見たファイルとは別の書類の束を持っていた。
「プロトタイプに使用された細胞の提供者、天音波那の名前には聞き覚えがあるだろう? 彼女が治験のために屋久島生命工学研究所に移される前、最初にかかっていた病院のカルテを手に入れた。どういうわけか電子情報は残らず抹消・
僕には理解できない医療の専門用語の羅列だったが、それを聞いた瑠璃がはっと顔色を変えた。蛍は口元を歪める。
「そう、薬物療法で症状が改善するレベルの、症状の軽い患者。生まれたばかりで拡張型心筋症だと診断されたのに、その後も10年以上生きていたのが良い証拠だ。投薬で症状を抑え、病気と一生付き合う気持ちで生きていけば、治験なんて必要なかった。それが屋久島生命工学研究所に移って治験を始めてわずか半年で、NHYA分類Ⅳ度の重症患者」
僕にも話の輪郭が見えてくる。まさか。
「もっとも当時は私もそれを知らずに、あの子を救うためと信じて治験に加わっていたわけだがね。滑稽だろう? あれは治療なんかじゃない。いわばヒトの
「人体実験……」
蛍は僕の呟きに頷くと、拳銃を持つ右手を一直線に伸ばし、本格的な射撃姿勢をとる。
「君は良い教え子だった。君のお義父さんがいけないんだよ」
僕は、瑠璃の心がもたないのではないかと思った。彼女の知らなかった『ミスティルテイン』計画の正当化し難い側面を突き付けられたことで、彼女の大義が崩され、誇りやアイデンティティを粉々にされて、ついに心が折れておかしくなってしまうのではないかと予想した。
瑠璃は
「……納得できました。これが先生の復讐なのですね」
彼女は、安っぽい正義や復讐を振りかざす者にありがちな、豆腐やガラスでできた心の持ち主ではなかった。彼女は最後まで
「『ミスティルテイン』のために義父が犯した罪はすなわち私の罪です。構いません、撃って下さい」
「いけません、瑠璃さん!」
僕は間に割って入っていた。
子ども達の負った傷に
「どかないと君も撃つぞ、実君」
蛍が冷えきった声で警告してくる。
「いいえ、どきません」
「クリスティのエルキュール・ポアロのシリーズは全巻読んだと言ったな。私が一番好きなのは最終巻だ。知ってるか? 名探偵は人生の幕引きに、法では裁けない悪を滅ぼすために自らの手で殺人事件を起こすんだ。それはとても崇高なことだとは思わないか?」
「貴女に僕は撃てない」
「ふふっ……試してみるかね?」
引き金にかけられた蛍の指がゆっくりと動き、僕が歯を食いしばった。その時だった。
〈兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川〉
唐突に、歌が流れ始めた。
僕は咄嗟にグラウンドの仮設ステージを見る。
ステージの上に赤い人影。
桜が戻ってきてプレーヤーのスイッチを押し、ステージの音響を起動させたのだ。
しかし、プレーヤーにセットして再生する予定だったのは、DOLLのカロリー変換機関の駆動音のはずだ。
歌声は少女のもので、高く澄んでいた。
清らかな
「波那……波那……!」
蛍に、異変が起きていた。
銃を持つ手が震え、目を見開き、首を小刻みに左右に振り、半開きになった口からは、彼女の親友の名が漏れ続ける。壊れた機械のように。
中庭の木々が一斉にざわめき始めた。枝が、幹が、火の粉を散らし激しく鳴動する。
「歌に反応している……?」
瑠璃がそう呟いた時、大地が軋んだ。
中庭が移動している。いや違う、中庭の、グラウンドの周囲の、植物という植物が原形を留めず溶けて交わり、グラウンドの中央に集まって一個の巨大な物体に変貌を遂げていく。
それは、巨大なバラの花のようでもあり、ワニあるいは大昔の恐竜のような大型爬虫類の顔のようでもあった。
どんな
学園の中庭の植物その細胞一つ一つに身を潜め、わかっている限りで7名ものDOLLを絡め取ってイザナミウムを喰らい、学園を震撼させてきた怪物が、ついにその本体を曝け出したのだ。
「桜ーーーーーっ!」
僕は叫んだ。
怪物が操る数十本の触手が、少女の歌を流すステージに立つ桜へ向かって伸びていく。
しゅるしゅる、と火が線を伝い、直後、グラウンドのあちこちで爆発が起きた。
怪物が炎に包まれ、桜から触手が離れる。
僕はため息をついた。
桜の奴、引きつけ過ぎだ。仕掛けを知っていても冷や汗ものだった。
「……学園の自動車部がエコプロダクツで配るサンプル用に生成・備蓄していたバイオエタノールです。ドラム缶50本分、2200ガロン。昨夜のうちにフォークリフトで運んで、グラウンドに
僕はそう説明したが、瑠璃が聞いていたかは怪しかった。
皮肉にも植物由来の油にまみれ激しく燃え始めた怪物がおおおお、と再び咆哮した。まるで悲鳴のように聞こえた。
「波那……よくも、波那にひどいことをっ……」
蛍が震える銃口を、僕に向ける。僕は逃げない。
ステージでは少女の歌がエンドレスでリピートされ、怪物は巨大な炎の柱と化していた。まるで壮大なたき火のようだったが、この場においては、オクラホマ・ミキサーやマイム・マイムではなく、この歌が何故か相応しく聞こえた。
「やめましょう、蛍先生。もう終わったんです」
DOLLの電子頭脳に使用されるイザナミウムは、プログラムでは制御しきれない固有の感情を生む。
イザナミウムが
波那という少女と出会った時も、きっと同じだったはずだ。
守りたい。救いたい。それがきっと、蛍に芽生えた最初の気持ち。
ただそれだけだったはずなのに。運命が、彼女の優しさを狂気へと変えてしまった。
「終わってなんかいない! 波那は決して死なない、死なせるものか! 私が波那を守り抜いてみせる、この世界のすべてを敵に回しても、私はっ」
とすっ、という音がした。
蛍の胸の上、ヒトでいう
間を置かず、もう一本。
蛍は
「蛍先生っ!」
瑠璃が悲鳴を上げる。生物部副部長と生徒会風紀担当役員の肩書きを持つMD-233
黒曜石の手には、ボウガンが握られていた。
「ご無事で何よりですわ、お嬢様」
瑠璃に普段にもまして恭しく、呼び方も含めまるで使用人のような態度で最敬礼をした黒曜石は、地面に倒れなお立ち上がろうと身体を動かす蛍に視線を移すと、
「2発も当てたのにまだ動くなんて、元は軍用につくられただけあって無駄に往生際が悪いですわね……欠陥機がっ!」
そう罵ると黒曜石は、ブーツをはいた足で蛍の頭を蹴り上げる。
蛍の美しい髪が、泥にまみれた。
「黒曜石やめて! 蛍先生に何をするのっ!」
蛍の頭や胴体を蹴り続ける黒曜石に、瑠璃がすがり付いた。
「先生? お言葉ですがお嬢様。この欠陥機は5年前大破して博多湾に沈んだのを、わざわざ引き揚げて修理しMD-131として生まれ変わるチャンスをお与えになった三崎会長への御恩を忘れ、あまつさえお嬢様のご寵愛も裏切って会社の財産を私物化し、社運がかかったプロジェクトを危険に晒しました。本来であればこの場でコアモジュールを引きずり出して叩き壊してやりたいところですが、これの演算能力にはまだ利用価値があるそうで、活かして回収するよう三崎会長から厳命されております」
「お義父様は、蛍先生をどうしろと……?」
瑠璃が不安げに訊ねると、黒曜石は
「電子頭脳を
「そんな、酷過ぎます! お義父様はきっと何か誤解をしておいでなのです、私が直接お義父様にお話を……」
「おわきまえ下さいませお嬢様、部下達の面前でお見苦しい!」
瑠璃を一喝した黒曜石が、黒服達に蛍の回収を指示しようとした時、無線で通信していた黒服の一人が何やら慌てた様子で黒曜石に駆け寄って耳打ちした。黒曜石の顔が強張る。
「なんですって? 馬鹿な。貸せ!」
トランシーバーをひったくり、通信を交代した黒曜石の顔がみるみる驚愕と恐怖に歪んでいった。
「……米軍がオプションDを発動? どういうことです、
途中で一方的に切られたらしく、黒曜石が先ほどまでの余裕が嘘のように身震いしながらトランシーバーを地面に叩き付ける。
僕は瑠璃に囁きかけた。
「彼女達は一体何を騒いでいるんです、瑠璃さん?」
瑠璃はうつむきがちに答える。
「オプションとは、志戸子学園で極秘裏に開発・製造されている生物兵器が外部に流出した場合を想定し定められた対応の手順です。オプションA・Bは私達生徒会やミサキグループが対応。オプションCは、米国特殊作戦軍(USSOCOM)所属の特殊生物災害対応部隊(SBHRT)による滅菌作戦の実行……」
恐らくは先ほど全滅した部隊のことだ。
「そしてオプションCによる滅菌が失敗した場合に備えたオプションDは、オプションC発動と同時に屋久島の沖合約200キロに進出した米海軍のオハイオ級原子力潜水艦による、巡航ミサイル攻撃です。ミサイルはマッハ6・3、発射から着弾までおよそ120秒。燃料気化(FAE)弾頭で志戸子学園もろとも、跡形もなく焼き尽くします」
僕達の目の前では、怪物の残骸が燃えて炭化していく。
ステージの上の桜が、何も知らずに僕に向かって不格好なVサインを送っている。
怪物の焼却という目的は達せられつつあるのに、米軍はそれを知らないのだろうか。
いや、先ほどの黒曜石の通信の様子では、恐らくそれは違う。
証拠隠滅だろう。米軍にとってもはや利用価値の無くなったこの学園を、蒙古連邦との外交問題になる前に消し去ろうとしているのだ。
僕のズボンの裾が、不意にくいくいと引っ張られる感触。
下を見る。
蛍が地面に倒れたまま、泥だらけの顔で僕にウインクした。
この学園で最初に話をしたあの廊下で、僕をどきどきさせたあの可愛らしい仕草を。本当はもう、瞼を動かすのも辛いはずなのに。
「……知ってるか、実君。私は、5年前にあの少年を助けられたことが、今でもとても自慢なんだ……お姉さんの命を救うことはできなかったが……」
ノイズ混じりの声で言葉を紡ぎながら、蛍は微笑む。
そこにはもう、彼女を支配していた暗い影はない。
学園の廊下で、大学のキャンパスで、公園のボートの上で見せてくれた、あの優しくて明るくて、ちょっぴりいたずらっぽい笑み。
「
蛍の身体が、無数の金属音を立てて変形を始める。
広げられた10メートルを超す
蛍のこれからやろうとしていることを察した瑠璃が、待って下さいと掴もうとする手を、蛍は軽く握り返してから、優しくそっと押し返す。そんな馬鹿な動けるはずがないと黒曜石が喚いている。僕はただ、間近で見る翼を広げた蛍の姿に、心を奪われていた。
あのはじまりのDOLL、XP-N-001。
5年の時を経て、今再び僕の前に現れた。
「……ありがとう、ございました」
5年の間、ずっと彼女に伝えたかったことは、言葉にするとしかし、あまりにあっけなくて物足りなかった。
もっと伝えたいことがあったはずなのに。
それから先は頭が空っぽになって、気のきいた言葉も何もでてこない自分を僕は恨んだ。
けれども蛍は、そんな僕の葛藤を全て包容してくれるかのように微笑んだ。
刹那、凄まじい風圧が僕の視界を奪い、幻聴か、風切り音の中僕の耳元で「さよなら」と蛍の囁き声が聞こえた気がした。
目を開けて慌てて見上げると、蛍は空高く舞っていた。
高度を上げながら、僕達と彼女の親友に別れを惜しむように、二度三度と
天使。月並みな表現だが、今使わずしていつ使うというのだろう。
遠く東の空高く、雷鳴のような音とともに、小さな光る点が近付いてくる。
蛍は旋回を止めると、その小さな点に進路を向け、風を切って
蛍はやがて小さな点になり、2つの点が重なって、そして。
高空に熱い
瑠璃が、力尽きたように地面に膝をついた。
空から、何かがひらひらと舞いながら近付いてくる。
グラウンドに落ちたそれを僕は手に取った。一見すると鳥のもののような、しかし人工物の灰色の
ステージでは、プレーヤーが歌をリピートし続けている。
〈夢は今も巡りて 忘れ難き
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