第6話 嘘と秘密


 ぱんぱんと手を叩く音に寄せられ、水面にこいが群がって顔を突き出してくる。

 ここへ来る途中に僕がコンビニで買ったパンの残りを、無表情で細かくちぎって撒いてやっているほたると、彼女の足元をぐるぐると回る無数のにしきごいを僕は横で眺めていた。

 彼女が僕との秘密の接触に指定した場所は、この前と同じ池のある公園だった。


「そうか……れん君までやられたか」


 パン屑を撒き終えた蛍が、低い声色で呟いた。

 僕は蛍に、昨日蓮華が音楽室で失踪したことを、かいつまんで話していた。ただし、後からやってきた瑠璃るり達と諏訪之瀬すわのせ教諭との一件は言わないでおいた。


「気になってネットで調べてみたんですが、蓮華さんの使っていたヴァイオリンは1億円以上の価値があるそうです。それも、あくまで税関が課税のために査定した金額です」

「グァルネリ・デル・ジェスだな。しかし、犯人は高価なヴァイオリンに手をつけず、蓮華君だけを持ち去った。蓮華君は中島技研製の第2世代型、ヴァイオリンの演奏に特化して金に糸目をつけずカスタマイズされていたとはいえDOLLとしては型落ちだ。物盗りでもなければ、第4世代型の技術目当てでもなくなったとなると……動機は怨恨えんこんかな?」

「確かに、敵の多そうな方ではありました。でもそれだと今度は、はくやその前の被害者達が狙われた説明がつかなくなります。あくまで一連の事件の犯人が同じであるという前提に基づく話ですが」


 僕がそう答えると、蛍はかすかに苦笑した。


「なんだか、『ABC殺人事件』みたいになってきたな、さくら君の好きな」

「桜、ですか……」


 あれからまだ、桜と話ができていない。

 音楽室を抜け出した後、朝菜と一緒に園芸部室に戻ったが桜はいなかった。夕菜から電話があって、桜を見失ったと言っていた。結局昨日一日、桜は園芸部室に姿を見せなかった。

 前に登録させられた桜の携帯にも何度か電話してみたが、しばらく呼出音が鳴った後、桜自身の尊大な声で留守電ガイダンスが流れるだけで繋がらない。留守電にメッセージを入れようかとも思ったが、電話口だと中々言葉が出なかった。


「おや? ……さてはみのる君、桜君と何かあったな?」


 気付いた時には、蛍に顔を覗き込まれていた。

 どうやら心の中の憂いが表情に出てしまったようだ。


「よかったら、先生に話してみたまえ」


 わざと偉そうな口調で蛍がおどけてみせる。

 僕は少し躊躇したが、結局昨日桜との間にあったことを正直に蛍に打ち明けた。補足のために、僕の過去も少し話した。


「……辛かったな、実君。私も、君のお父さんのやり方は良くないと思う」


 僕の話を聞き終えた蛍は、僕の目を見てはっきりそう言った。


「え……本当ですか」


 僕は思わずそう訊いてしまった。そんなことを言ってくれる大人は、今までいなかった。


「ああ。君の悔しい気持ちは、私にもわかる」


 蛍の言葉には不思議と力がこもっていた。


「しかし、お父さんが絡んでいることが実君と桜君2人の問題を複雑にしてしまったな。君は今、お父さんに対して怒っているのか? それとも桜君に対して怒っているのか?」

「両方です」


 僕は素直に答える。蛍は微笑んだ。


「そうか。それは桜君にとって幸せなことだ。実君が桜君を単なるモノ、お父さんの操り人形とみなすなら、桜君に腹を立てないだろうからな。車で当て逃げされて、車そのものに腹は立たないだろう?」

「確かに……」

「じゃあ、お父さんのことはいったん切り離して、桜君のことだけを考えてみようか。実君は桜君が大事なことで隠し事をしていたから怒っている。これから桜君との関係をどうするかは、実君が決めればいい。ただ、DOLLのプログラムをあまりネガティブにとらえない方が良いかもしれないな」

「プログラムをですか?」

「確かに私達DOLLのパーソナリティはプログラムの支配を受けている。しかし君達ヒトの行動や心理形質の個人差だって、遺伝に起因するところが大きいのは知っているか?」


 蛍は僕の側頭部を、指で軽くつついてくる。


「エリック・タークハイマーの行動遺伝学によれば、遺伝がヒトの行動に与える影響は、家庭環境による影響よりもはるかに強いといわれているんだ。ヒトのパーソナリティは50%、知能は70%も遺伝の影響を受けている。社交的か内気か、お人好しか疑り深いか、そういったことまで遺伝に左右される。タブララサな個人が、タブララサな世界に生まれ成長するという考え方は幻想でしかない」


 考えたこともなかった。僕に限らずほとんどのヒトが、自分は自分であるということを当たり前だと思って日常を過ごしているのではないか。外に向かってとる行動こそ様々な制約を受けるものの、いわゆる思想及び良心の自由、つまり頭の中で何を考えているかは自分の意志で完全に自由にできていると。

 だが、自分の意志で考えているつもりのこと、例えばその方向性が、実際にはDNA塩基配列で説明できてしまうとしたら。ヒトが自分は自分であると信じて疑わず、一方DOLLのプログラムに対して異質なものと抵抗感を持つのは、フェアなことではない。

 蛍の指摘を僕が真剣に考えていると、蛍は急にくすくすと笑い始めた。


「ふふっ、ややこしい話をしてしまったかな。まあぶっちゃけるとだな、実君、女の子には秘密があるんだよ。DOLLの人格も立派な女の子なんだから。どうして桜君がプログラムのことを実君に隠そうとしていたか、わからないか?」


 僕は首をひねる。どうして桜が僕に隠そうとしたか? 蛍が何を言いたいのかよくわからない。それこそプログラムの仕業ではないのか?


「……やれやれ、君は鈍いなあ。とにかく、女の子には秘密があるということ、これだけは覚えておきたまえ。私にだって誰にも言えない秘密の一つや二つあるぞ?」


 なんだか蛍が「秘密」というと、思わず胸がどきりとしてしまう。

 僕も所詮は色々な情熱を持て余す男子高校生ということだ。そうか、これもヒトにとっての一種のプログラムなのか?

 僕が動揺をごまかそうとしていると、不意に蛍は整った顔をくいと持ち上げた。目を閉じて背筋を伸ばし、空に向かって口を開く。


こころざしを果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷ふるさと 水は清き故郷ふるさと


 彼女の口から紡がれたのは、小学校で習った懐かしい唱歌の一節だった。

 人工の声とは思えないみずみずしい歌声が、空の高みへ昇っていく。


「ハナのお気に入りの歌なんだが……駄目だな。私には全然上手く歌えない」


 思わず聞き入っていた僕に、途中で歌い止めた蛍は恥ずかしそうに肩をすくめる。


「興味深いのはこの唱歌の歌詞だよ。ヒトは故郷を自らの意思で選んだわけではない。生まれてきた時には既に決まっている。にも関わらず、故郷を思わずにはいられないヒトの感情とは何だろう?」


 そういえば朝菜も、似たようなことを言っていた。しかし故郷、か。


「……わかりません。僕には故郷と呼べるような場所がありませんので」


 少しひねくれた返事をした僕に、蛍は気を悪くした様子もなく微笑んだ。


「ふふ、私も同じだよ。しかし、故郷が場所とは限らない」


 蛍の最後の言葉は謎めいていて、その時の僕にはよくわからなかった。

 ともかく、桜とのことを蛍に相談して良かったなと思った。おかげで不思議と気持ちが楽になった。

 蛍は多くの年長者と違い偉そうな上から目線じゃなく、目線を合わせてくれる。かと思ったら全く新しい切り口の考え方を紹介してくれて、僕のような若者が独りでいると狭くなりがちな視野を広げてくれる。そして大切なところは自分の考えを押し付けるのではなく、当人に考えさせる。

 蛍が瑠璃や夕菜をはじめ、教え子達から慕われている理由がわかる気がした。


「それにしても、蛍先生ってやっぱり物知りですよね。蓮華さんや桜のことも、先生はミサキドール製なのに詳しくて」


 僕が思ったことを口にすると、蛍は怪訝そうな顔をした。


「私が蓮華君や桜君に詳しい? どうしてそう思った?」

「だって、蓮華さんのヴァイオリンの名前をご存知でしたし、それにクリスティの『ABC殺人事件』を挙げて、『桜君の好きな』っておっしゃいましたよね。蛍先生は桜と直接面識がないはずなのに、桜がクリスティ作品のファンというのをご存知なんだなって。ほら、日本で探偵物といえばシャーロック・ホームズを書いたコナン・ドイルの方が有名で、エルキュール・ポアロのシリーズを書いたクリスティはどちらかというとマイナーですから」

「おや実君、鋭いね。段々探偵らしくなってきたじゃないか」


 蛍はからかうようにそう言って笑った。


「私は確かにミサキドール製だが、つくられてからしばらく中島技研に出向していたことがあって、その時の縁で中島製の子達の話も色々耳に入ってくるんだよ。それにほら、今は教育者という中立的な立場だし」

「出向なさってたんですか! いや、すみません、ミサキドール社と中島技研って、その、あまり関係が良くないイメージがありますから」

「そうだな、今でこそ激しいシェア争いを繰り広げているが、元はといえば日本のDOLL開発は中島技研で君のお父さんの糸川博士、それにミサキドール社の現会長のさき氏の2人が一緒に進めていたんだよ。三崎氏は糸川博士の助手だった。次第に考え方が合わなくなって、袂を分かってしまったと聞いたが……」


 やはり蛍は物知りだった。僕は思い切って、ずっと忘れられないでいたあのDOLLのことを訊ねてみることにした。


「XP-N-001というDOLLのことをご存知ですか?」


 僕がその名前を出すと、蛍は目を丸くした。


「XP-N-001? ……また随分と古い話だな」

「ご存知なんですか!」


 つい大きな声を出してしまった。5年前のあの日の出来事が、僕の脳裏に甦る。

 僕が生まれて初めて見たDOLL。その後今日に至るまで文献やネットでどれだけ探しても存在の片鱗すら見つけることのできなかった、銀灰色の翼を有し空を飛ぶDOLL。

 そして、空襲の中恐怖に身がすくんで動くこともできず、崩れ落ちるビルの下敷きになるはずだった僕を救ってくれた、命の恩人。

 出会った瞬間のことは鮮明に覚えているのに、別れ際の記憶は無い。姉の死を目の当たりにして空中で気を失い、意識を取り戻した時は避難所のベッドだった。

 あの時言えなかったお礼を言いたいと、ずっと思っていた。


「防衛秘密だったから、関係者以外は存在自体知らないはずなんだが……」


 蛍はそう言いかけて途中でやめた。僕の父が中島技研の関係者だから、父から聞いたのかもしれないとでも思ったのだろう。


「XP-N-001は戦争前に中島技研と防衛省の技術研究本部が共同で開発していた、電子頭脳にイザナミウムを使用した完全自律型無人哨戒機、つまりは飛行DOLLの計画名だ。ソリッドステートエアクラフトを応用した、意欲的な設計だったらしい。予算要求がすんなり通るよう、表向きは大陸から飛来する汚染物質の測定や大気浄化用ナノマシンの散布を目的としていたが、当時は東シナ海情勢が緊迫していたから、実態は偵察機だな。しかしトラブルが続発、計画は途中で中止されたはずだ」

「完成したDOLLがいたはずです」


 僕が強く言い募ると、蛍は顎に手をやってしばらく考え込むポーズをとった。


「うーん……ああ、そういえば確か、試作機が1機だけ完成して航空自衛隊に配備されていたが、その機体は福岡空襲の際に司令部の待機命令を無視して勝手に出動した挙句、蒙古軍に撃墜されたそうだ」


 5年の時を経てようやく掴んだ恩人の手がかりは、5年の時を経た悲報だった。


「機体は博多湾に沈んだと聞いている」

「……そうでしたか」


 落胆は無かった。どれだけ調べても何の情報も無かった時点で、覚悟はしていた。しかし、胸の中にぽっかりと穴ができるような、空虚になっていく感覚は拭いきれなかった。


「そのXP-N-001が、何か?」

「……いえ」


 首をかしげている蛍。その顔を初めて見た時、僕は彼女に、5年前のあのDOLLの面影を見た。

 だが、DOLLはつくられた年代が古ければ古いほど顔のレパートリーが少ないから顔が似ていてもおかしくはないし、喋り方が似ているのは、プログラムに使ったエモーショナルエンジンが同じだからだろう。

 不意に僕の携帯が着信音を奏でる。桜からかと期待して画面を見ると、あさからだった。


「すみません、ちょっといいですか」

「構わんよ」


 断りを入れてから、蛍から少し離れたところに行って電話に出る。


「はい、糸川……」


〈おい眼鏡! どこほっつき歩いてやがる! 今すぐ部室に来い!〉


 通話ボタンを押した瞬間からテンションマックスでがなり立てる朝菜の甲高い声に、思わずスピーカーから耳を少し遠ざける。


「あのお、おかけ間違いではないでしょうか? 僕は眼鏡ではなく糸川という者で」

〈ふざけてる場合じゃねえぞ実! 音楽室から回収した例の蔓植物を調べてみたらとんでもねえことがわかった! いいから早く!〉

「……すぐ行きます」


 電話を切り、蛍のところに戻って詫びる。


「すみません、急ぎの用で学園に戻らないといけなくなりました」

「他の女のところへ行くんだな……」

「そうですけど……ってそういう言い方しないで下さいよ!」

「ふふっ、冗談だ。そうだ、さっき鯉にあげる餌をくれたお礼に、おまけの情報を一つ」

「えっ、いいんですか?」


 なんだか、スパイ映画に出てくる公安警察官にでもなった気分だった。

 蛍からは既に、瑠璃るりの学園内での動向に関する情報提供を受けている。それも、瑠璃の生徒会長及び生物部長としての公式な動きを分刻みで記した首相動静並みの詳細な記録だ。

 書類の出処について蛍ははっきりとは言わなかったが、瑠璃の身辺警護を行う黒服達を派遣していると思しきミサキグループの傘下で一般にはあまり名の知られていない警備会社の内部資料のようだった。記録の中には「生徒会室で書類整理」、「学園内を視察」など、わざとぼかしたような記述も多く、一連の事件への瑠璃の関与を裏付ける決定打にはなっていないが、関係者でないと入手困難な書類であることは間違いなく、蛍にお願いしたことがいかに重大だったか僕は思い知らされていた。

 この上、僕の朝食の残りのパン屑なんかと引き換えにさらに情報をもらったりしたら、罪悪感で押し潰されてしまいそうだ。


「今年の志戸子エコプロダクツだが、生物部は出展を取り止めることを瑠璃君が昨日の部会で正式に決めた」


 蛍の口から出た言葉は、思いもよらないものだった。

 生物部が出展を取り止める? 瑠璃が決めた? 何故?


「どうせ後何日かでわかることだが。断トツで金賞最有力候補だったうちの『ミスティルテイン』が出ないとなれば、生物工学部門で残る強豪は、自動車部の『アッケシソウを改良した塩生植物からバイオマスエタノールを生産し日本のエネルギー問題を解決する計画について』だが……」


 バイオエタノールは化石燃料の代替資源、地球上の循環炭素量を増やさない現生生物由来の再生可能エネルギーとして注目されている。

 桜から聞いた噂では自動車部は、食料となる作物の栽培と競合しないよう塩性植物を使ったバイオエタノールを今度のエコプロダクツで発表し、世界中の企業や研究機関にサンプルを配るつもりらしい。十分強そうだが。


「あれは、過去に学会で発表された他人の研究の焼き直しなんだ。オリジナリティに欠けていて、朝菜君の『ユグドラシル』の敵ではない」


 なんてことだ。この番狂わせで、恐らく学園内は蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。だが、僕達にとってそんな外野のことは取るに足らない。僕達が交わしたあの約束はどうなる。


「瑠璃君が朝菜君とした約束の話も聞いたぞ。私をかけて勝負することになっていたんだって? しかしこれだと、朝菜君の不戦勝になりそうだな」


 不戦勝とは、桜が好んで使っていた言葉だ。

 だが、僕達はまだ瑠璃の「弱み」を握ってもいない。連続失踪事件を止めることも核心に近付くこともできないでいるのに。


「すみません、僕達で勝手に話を進めてしまって」


 蛍をかけた勝負の件について、当事者の一人としてとりあえず謝った。すると蛍は、おかしそうに笑いながら首を横に振ってこう言った。


「いいんだよ、そもそも園芸部の顧問を掛け持ちしたいと最初に言い出したのは私なんだから」

「……?」

「幸村先生がご病気で倒れられたと聞いて、なんとかしてあげたいと思った。園芸部のことは瑠璃君からよく聞いていたし、夕菜君にはいつも授業の手伝いをしてもらっているからね。でも、瑠璃君からその話を朝菜君と夕菜君にするのは少し待ってくれと止められていたんだ。このまま何も変わらずに園芸部が続くのは、朝菜君と夕菜君のためにならないから、と。しかし、実君と桜君が一緒になったのを見て、瑠璃君も安心したんじゃないのかな。あ、今のは彼女達には内緒で頼むよ」


 僕は拍子抜けというか、あっけにとられていた。不戦勝。部のために顧問の存在を渇望してきたことを思えば喜ぶべきなのかもしれないが、どうにも釈然としない。

 朝菜を自らの信奉するアクティブエコロジーの道に引き込むのが、この勝負における瑠璃の目的ではなかったのか。ミサキグループの後継者に相応しい存在になるべく、例えカネの亡者や売国奴と言われようと利潤追求と効率を重んじ、倫理や既成概念を打破するのが瑠璃ではなかったのか。それとも、これも瑠璃が得意とする政治的パフォーマンスの一種なのだろうか。


「そういうわけで、エコプロダクツ頑張ってくれたまえ。園芸部、いや、植物探偵団だったかな、顧問をやらせてもらうのを楽しみにしているよ。あ、私はこう見えてもクリスティのエルキュール・ポアロシリーズは全巻読んでいるから、桜君とも話が合うと思うぞ」

「……ありがとうございます」


 蛍に一礼して、学園へ急ぐ。

 別れ際に視線を感じて振り返ると、蛍が手を振ってくれていた。

 池の水面に映った蛍の影は、まだ餌をねだって回遊を続ける鯉の群れで揺れている。

 手を振り返してから、唐突に僕は、頭をもやもやさせていたものの正体に気付く。

 不戦勝の意味。

 そうか。これで、僕達が連続失踪事件を捜査する確固たる理由は無くなったのだ。

 好奇心や正義感といった、危ういものを除いては。




「夕菜からは少し遅れるって連絡があった。桜は?」

「それがやっぱり何度かけてもつながらなくて……至急部室に来るように、留守電にメッセージを入れておきましたが」

「たく、まだ仲直りできてねえのかよ。……ほら、とっとと着替えろ」


 頭にヘッドギアをすっぽり被り、腰に衣服内の空気の流れをコントロールするフィルターユニットを取り付ける。真っ白い防塵服ぼうじんふくに身を固めると、僕も朝菜もまるで船外活動をする宇宙飛行士のような出で立ちになった。

 園芸部室の普段は入らない小部屋、無菌室に、二重扉の出入口でエアシャワーを浴び、床の粘着マットで靴の汚れを丁寧に落としてから入室する。

 小部屋の真ん中の実験台で、養液に漬けられライトを浴びたその物体を見て、僕は自分の目を疑った。


「……成長している?」


 昨日、植物の根の切れ端のようだった物体は、明らかに長さが倍は伸びていた。

 さらに枝が突き出し、無数の小さな葉が、ライトの光源に向かってびっしりと生え出ている。

 そしてくきの表面はきんのような、見たこともない細かく白い網の目のようなもので覆われていた。


「表面のネバネバしたのは細菌の一種だ。内部まで浸潤しんじゅんしてやがる。聞いて驚くな、切片を電子顕微鏡にかけた結果、こいつに感染した植物は遺伝子レベルで変異させられることがわかった」

「無菌室に運んでおいて正解でしたね」

「ああ、分析したところこの植物も元は校舎の壁面緑化のために植えられた、ただのツタだ。普通、細胞数を一定に保つため細胞の分裂回数には上限があって、アポトーシスという自己崩壊プログラムが組み込まれてる。ところがこの細菌に感染すると、細胞の先端にある分裂・増殖・アポトーシスを制御するDNA配列が書き換えられ、増殖を繰り返されて組織全体を乗っ取られる」


 まるで癌細胞だなと、僕は思った。そして一部の癌について、ウイルスや細菌による感染が原因になっていることは最近まで知られていなかった。


「注目すべきは感染前と感染後では光合成によるエネルギー生産効率が飛躍的に高まって驚異的な成長力を見せることと、電気で刺激を与えると細胞圧が一定の特殊なパターンで変化するようになることだ。間違いなく、人為的操作が加えられていやがる」

「電気の刺激はよくわかりませんが……光合成の効率が高まるというのは、どこかで聞いたような」

「その通りだ」


 ヘッドギア越しに、朝菜が苦悩の表情を浮かべているのがわかった。


「この細菌の働きは奴の研究、あの『ミスティルテイン』にそっくりだ」


 ここでまた、瑠璃の影か。


「……まさか、連続失踪事件と何か関係があるんでしょうか」


 僕が呟くと、朝菜は小さく肩をすくめる。


「あたしにはわからねえ。それを考えるのは、実と桜の仕事だろ」


 そうだった。事件の捜査は探偵部チームが担って、園芸部チームにはエコプロダクツの準備に専念してもらうと決めたのに。その後の事件や桜とのことですっかり忘れていた。


「なんだかすみません。チーム分けしておいて、結局事件の捜査を手伝ってもらってしまって」

「何言ってやがる、こういうのはあたしの専門分野なんだからいくらでも協力するぜ」

「『ユグドラシル』の方は大丈夫なんですか? その、論文とか」


 僕がそう言うと、朝菜は思い切り動揺して手をばたばたさせる。


「よっ、余計な心配は要らねえ! 論文はもうほとんど書き上がってて、今は推敲とかの段階だぜ? ま、まあ、こういう気分転換も必要だよな!」


 テストの前日になって急に部屋の大掃除を始める中学生のようだった。


「実の方こそ、蛍先生との接触はどうなってんだ? 事件解決の糸口になるような情報は掴めたのか?」

「……いえ、まだ何も」


 蛍から聞かされた、瑠璃がエコプロダクツへの出展を取り止めるという話は現時点では伏せておくことにした。事件に直接関係する情報ではないのだから、嘘はついていない。

 朝菜のプライドや瑠璃に対する感情を考えたとき、このような形で不戦勝になって朝菜が納得するとは思えなかった。

 それに準備のためのモチベーションの問題もある。朝菜には悪いが、彼女のわかり易すぎる態度を見る限り、『ユグドラシル』の論文が「ほとんど書き上がって」いるとは信じ難い。たとえ生物部が出場を辞退して金賞受賞が確実になっても、肝心の『ユグドラシル』が期限までに間に合わなければ、不戦勝にはならないのだ。


「なーんだ、実の方も大して進んでねえのかよ、安心したぜ……あ」


 ……語るに落ちたな。


「遅れてごめん!」


 無菌室の二重扉が開き、防塵服を着込んだ夕菜が入ってくる。


「夕菜、良いところに来たな! 今ちょうど実が事件の捜査って口実で蛍先生に鼻の下を伸ばしてる件で説教してやってたところだ。まあ確かに? 蛍先生は綺麗で、優しいし……」


 朝菜がこれ幸いと話題を逸らす。そんな話はしていなかったはずと僕が抗議しようとした時だった。


「な、何それ、動いて……!」


 こっちに向けられた夕菜の顔が、驚愕の色に染まる。


「……?」


 最初、夕菜は僕達を見ているのかと思い、反応が遅れた。

 直後、背後の実験台ががたがたと揺れる音に気付く。


「え?」


 振り返った僕に、何かが体当たりしてきて僕の身体を突き飛ばした。

 壁に叩きつけられ、視界が暗転する。


「実! 夕菜っ!」

「うわああああっ!」


 朝菜の、そして夕菜の悲鳴。

 誰かが倒れて、激しく転げ回る音。何か硬いものが擦れ合う耳障りな音。

 視界が回復すると同時に僕の目に飛び込んできたのは、にわかに現実とは信じられない光景だった。

 床でもがく夕菜の身体に、さっきまで実験台に置いてあったはずの蔓植物が、へびのように巻き付いていた。

 おぞましいことに、茎から突き出した無数の細い触手が、まるでムカデの脚のようにうごめいている。


「こいつっ、夕菜から離れろ!」


 朝菜が植物を夕菜の身体から引き剥がそうと、両手で掴み力を込める。

 途端、ジュッという音と共に、樹脂が焼ける嫌な臭いが広がった。


「実は触るな!」


 加勢しようとした僕に、朝菜が鬼の形相で怒鳴りつける。

 見ると植物を掴む朝菜の指の人工皮膚が溶けて、金属の骨が一部露出している。夕菜の着ているポリエステル製の防塵服も腐食して煙を上げていた。


「強酸性の粘液だ! 人間が触ったら怪我じゃ済まねえぞ!」

「あさ……な……しめつけられて……ボク……もう……」

「頑張れ、夕菜! 今すぐ助けてやる!」


 朝菜は夕菜を励ましながら力いっぱい植物を引っ張るが、夕菜の声は次第に弱々しくなっていく。植物の締め上げる力は凄まじく、夕菜のフレームがぎしぎしと軋み、抵抗するアクチュエーターが空回りして歯車が削れる音が響く。さらに植物の表面から分泌される粘液が、夕菜の防塵服、その下に着ている制服、さらには人工皮膚まで溶かしていく。

 DOLLのコアモジュールは、燃料電池が搭載された胴体中心部のやや上、緩衝装置で固定された強化ガラスのシリンダーに収まっている。シリンダーの中では演算素子にイザナミウムを使用した電子頭脳が駆動しており、そこから光ケーブルの束が頭部に集中するセンサー類へと繋がっている。電子頭脳を破壊されることはDOLLの死を意味するから、このコアモジュールはかなりの衝撃や熱にも耐えられるようにできている。ガラスだから塩酸や硫酸で腐食することもないはずだが、逆にフッ化水素などをかけられると化学反応を起こして簡単に溶けてしまう。この得体の知れない化け物が他にどれだけ攻撃手段を隠しているかわからない以上、手をこまねいてはいられない。


「ああ、もう、こいつびくともしやがらねえ!」


 朝菜が引き剥がそうとすればするほど、植物は夕菜にむしろしっかりと絡みついているように見えた。

 何か、何か無いのか。

 瞬間、ひらめいた僕は無菌室を出て部室に走った。

 ここは園芸部だ。実態は一般的な園芸とは程遠い遺伝子組換植物の研究をしているが、一応名目上は園芸部として設立された。だから創設時に学園から貸与された園芸用の道具一式が、全く使われずインテリアよろしく壁にかけられている。

 僕は視線を巡らせて、ショットガンのような道具を見つけ出した。

 芝生手入れ用のガスバーナーだ。

 雑草の焼却や春の芽吹きを活性化させるための芝焼きに使われ、熱さ1300度、射程400ミリの炎を液化天然ガスのボンベ1本あたり9分間連続で放射できる。普通の学校ならここまで強力なものは置いていない。ここが志戸子学園の園芸部で良かった。


「朝菜さん、どいて下さい!」

「な……やめろ! 夕菜ごと燃やす気か!」


 戻ってきた僕がバーナーのノズルを向けると、朝菜はどくどころか立ち塞がってきた。


「大丈夫、なるべく植物だけ焼くようにします。皮膚は放っておいてもこいつに溶かされますし、もし火があたってもフレームとコアモジュールはもつはずですから!」

「駄目だ!」

「じゃあ他にどうするんですか!」


「こうするのよ!」


 不意に割って入る新たな声。

 大振りの鋏が、夕菜の身体に巻き付いた植物の茎をじょきん、と切断する。

 茎はまるで動物のようにびくんびくんと脈動し、切られた部分から緑色の汁が激しく噴き出す。

 さらにもう一箇所を切断。

 植物がのたうち回りながら、夕菜から離れ床にどさりと落ちる。


「今だわ!」


 すかさず朝菜が夕菜を部屋の奥へ一気に引っ張って避難させる。

 僕はまだうねうねと動いている植物にガスバーナーのノズルを向け、躊躇わずトリガーを引いた。

 ごおっという音と共に、植物を青い炎が直撃する。噴き出した汁が泡立つ。

 植物は何度か反り返ったり跳ねたりしたが、やがて動かなくなった。

 僕は床が焦げるのも構わず、植物がちりちりになるまで徹底的に焼いた。


「ふう……馬鹿と鋏は使いよう、ね」


「お前のことか?」


 からかうと足を蹴られた。なんだか久しぶりな気がした。

 振り返るとさくらが、両手で持つタイプの大きな草刈り鋏を手に立っていた。

 確か、農学部の野菜アート大会で朝菜と夕菜が優勝した時に贈られた、英国王室御用達のはさみだ。刃の部分は植物の粘液で腐食し真っ黒に変色していた。


「遅かったじゃないか」

「あら、主役はいつだって遅れて登場するものだわ」


 桜の相変わらずな返事に苦笑する。ついさっきまで脳内にアドレナリンが出て戦闘状態になっていたから、なんだかどっと疲れが出ていた。


「夕菜、しっかりしろ! もう大丈夫だぞ!」


 壁際では、朝菜が夕菜を抱き締めている。


「うん……ありがとう、朝菜」


 夕菜の着ている服はぼろぼろで、人工皮膚もところどころ溶けてしまっていたが、幸いDOLLとしての機能に別状はない様子だった。

 安堵の表情を浮かべた朝菜が、自分の手を見て「あちゃー」と言う。


「かなりやられちまったな。こりゃあもう皮膚だけじゃなく、マニピュレーターの部品も交換しないと駄目だな」


 朝菜が握って開いての動作を繰り返す多関節の手は、植物の粘液で人工皮膚がほとんど溶け、チタン製の構造が丸見えになっていた。指の何本かも損傷したようで正常に動いていない。

 ヒトならば大惨事だが、朝菜はあっけらかんとしていた。こういうのを見ると、彼女達がロボットなんだなと改めて実感する。


「それにしても一体何だったんだ、こいつは」


 炭化してすっかり縮んだ植物の残骸を見下ろす。

 こいつは明らかな意志をもって、動物のように実験台から跳躍して襲いかかってきた。まるでスティーヴン・キング原作のホラー映画から抜け出してきたような怪物だ。こんなことが現実に起こり得るというのか。


「あたしも、こんなの見たことも聞いたこともねえ。一つ言えるのは、こいつは元はただの蔓植物で、あの細菌の影響としか考えられねえってことだ。あの細菌に感染した細胞は、ある種の電気信号で細胞液の圧力を調節されるから、その機能を使って動いたんじゃねえかと思うんだが、はっきりしたことは……それよりまずは手当てだ。さ、夕菜、保健センターへ応急処置を受けに行くぞ」


 朝菜が夕菜を立ち上がらせようとすると、夕菜はびくっと肩を震わせ、朝菜を拒んだ。


「あ……あの、ボクは平気だよ。朝菜だけ行ってきなよ」

「はあ? 平気なもんか。皮膚があちこち溶けちまってるし、あんだけ強く締め上げられたんだから、フレームが歪んでたり関節やアクチュエーターが損耗しちまってるかもしれねえだろ。応急処置と検査が必要だし、落ち着いたらいっぺん里帰りしてきちんと診てもらった方がいい。DOLLは精密機械なんだから、深刻なトラブルが起きてからじゃ遅いぜ」


 朝菜がどれだけ言っても、夕菜は難色を示し続ける。どうしたんだろう、何か様子がおかしい。


「いや、ボクは本当に大丈夫だから。皮膚は市販のパテを塗っておけば良いし」

「良いわけねえだろ! ほら、さっさと……」


 業を煮やした朝菜が夕菜を無理やり立たせようと、夕菜の服を掴んだ。

 植物の粘液で弱くなっていた部分を引っ張ってしまったようで、服の一部がびりっと破ける。謝ろうとした朝菜は、夕菜の破れた服から足元にばらばらと落ちた物を見てそのまま固まった。

 桜がしゃがみ込んで、床に散らばった物の名前を読み上げる。


「酢昆布、金平糖、うまい棒の九州限定辛子からし明太子味めんたいこあじ、それにこれは……『たけのこの里』?」


 渋いチョイスの駄菓子だな。約一種類、日本が内戦状態に陥る火種になりかねないといわれる危険アイテムが混ざっているが。

 いや、今注目すべきは、そこじゃない。


「夕菜……どうして夕菜が、人間の食べ物を持ってるんだ?」


 朝菜が、抑えた声でそう尋ねる。夕菜は、朝菜から目をそらした。


「こ、これは、その、同じクラスのヒトの友達に頼まれて……ボクのじゃないよ?」


 夕菜はヒトの食物を摂取できないはずだ。

 食物を分解して電気エネルギーに変えるカロリー変換システムとバイオ燃料電池を搭載しているのは第4世代型からで、夕菜は旧式の第2世代型なのだから。


「じゃあ夕菜、一緒に検査を受けられるよな?」

「いや、それは……」

「あたしに嘘をつくんじゃねえ、夕菜!」


 朝菜の叫びは、怒りより悲しみの色が濃かった。


「……ごめん」


「不正改造、したんだな」


 朝菜の確認に、夕菜はかすかに頷いた。

 前に見た学園裏サイトに書き込みがあったのは、連続失踪事件だけではなかったのを僕は思い出す。

 DOLLの生徒達の間で、自らの機体の不正改造が密かに流行っているという噂。


「なんでだよ」

「ごめん」

「なんでやったのかって訊いてんだよ!」


 朝菜が怒鳴った。

 夕菜は、ぽつりぽつりと語り出した。


「……ずっと不安だったんだ、前から。製造されたのが1年か2年遅いだけで、あっという間に型落ちになって、どんなに努力しても容量も処理速度もあらゆる性能が上の後輩に成績で追い抜かれていく。オーナーの二木製紙に就職できるから大丈夫って思ってたけど、最近は性能の低いDOLLは系列に回されたりするらしいじゃないか。そんな世の中で、後輩のDOLLはヒトと一緒に食事したりお酒を飲んだりもできるのに、ボク達は水素燃料。こんな不平等納得できないよ」

「……」

「怖かったんだ、すごく。ボクは朝菜みたいに強くないから、自分の将来のことを考えると怖くて怖くて、不安に押し潰されてしまいそうで。そんな時に、ボク達の機体でも第4世代用のカロリー変換機関を増設ぞうせつできる、簡単にバージョンアップできるって話を聞いたんだ」


 朝菜は黙って聞いている。夕菜の言葉が次第に早口になる。


「それにね、食べ物を食べるって、とっても気持ちいいんだよ。口の中に味覚センサーも取り付けてもらったんだけど、食べ物を味わう一連のプロセスが、視覚や嗅覚とリンクして複合的に情報処理されるんだ。『美味しい』って感覚、朝菜は経験したことないから知らないよね? ボクは初めての時、思わず飛び上がるくらい気持ち良かったよ。甘かったり、辛かったり、まろやかだったり、酸っぱかったり、苦いのも渋いのも、とにかく凄い快感の波が押し寄せてきて、ただエネルギー源を摂取する作業じゃないんだ。美味しいものを食べている間は、嫌なことや辛いことを全部忘れられるんだよ」

「……定期メンテはどうするつもりだ。不正改造がばれたら最悪、初期化や解体処分もあり得る。あたしとも二度と会えなくなるんだぞ」


 朝菜の言う通りだ。最低でもメーカー保証の剥奪は免れないだろう。そうなればどこの学校も企業も門を閉ざす。DOLLとして終わる。本末転倒だ。


「そこは大丈夫、定期メンテナンスの前は取り外してもらえるって、だから絶対ばれないって。他の同級生の子や先輩達も、言わないだけでみんなやってるって」

「誰だ、誰がそんなこと言った! いや、誰に改造してもらったんだ!」

「それは……ごめん、誰にも言わないって約束したんだ」

「あたしにも言えねえのか!」

「ごめん」

「まさか……奴か、瑠璃なのか!」

「……」


 夕菜は無言でうつむく。朝菜は感情を爆発させた。


「姉妹で隠し事なんて許さねえぞ! 大体、どうして将来を台無しにするかもしれない軽率なことをあたしに隠れてこっそりやった! 嘘までついて! 夕菜のことを一番わかってるのはあたしだ。一番愛してるのもあたしだ。悩みがあったなら、どうしてまずあたしに相談してくれなかったっ!」


 どうしてあたしを頼ってくれなかった。そう叫びながら夕菜の肩を揺さぶった朝菜の手を、夕菜がばしっと払い除けた。今度は夕菜が叫んだ。


「朝菜は、ボクの話なんて聞いてくれないじゃないか!」

「夕菜……」

「朝菜はいつだってそうだ、自分の考えを押し通すばかり。瑠璃のこともそうだよ、ボクがどんなに頼んでも、瑠璃と喧嘩するのをやめてくれなかったじゃないか。それどころかボクまで罵ったよね。結局、瑠璃も他の部員も全員辞めちゃって、園芸部は朝菜とボクだけになって、活動もちゃんとできなくなって。朝菜は『ユグドラシル』の論文も書く書くって言って全然書かないし、部員の勧誘にもちっとも協力してくれないし。ボクは朝菜のサポート機だから、朝菜の実績がボクの評価になるんだよ。このまま卒業まで自主研究活動で何の成果も出せなかったら、ボクはどうなるのかって考えてくれたことある? 朝菜、ボクはもう、疲れたんだよ……」


 まくし立てていた夕菜の首が、不意にがくっと傾いた。

 そのまま目蓋を閉じて、沈黙する。


「夕菜っ!」


「大丈夫、省電力モードに入っただけよ。さっきの騒ぎでエネルギーを消費し過ぎたんでしょう」


 慌てて駆け寄ろうとした朝菜を、桜が止めた。

 朝菜はしばらく肩を震わせていたが、やがてかすれ声で告げた。


「……保健センターに手の応急処置に行ってくる。夕菜のための皮膚の補修キットも貰ってくる。実、桜。留守の間、夕菜を頼む」


 僕と桜が頷くと、朝菜は部屋を出て行った。

 その背中は、いつもより小さく感じられた。

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