この手は君に届かない

月弓 太陽

Chapter1 この手は世界を掴めない

 地球上に生きるすべての生物は、有機物でできているという。そもそも『有機』という言葉が生物を指すのだから、当然と言えば当然の話だ。

 では、〝彼ら〟は生きていないのだろうか。有機物ではなく、金属で形作られた彼らは。どれだけ精巧な体を持っていても、どれほど高尚な思考をもっていようとも。

 『人工知能』と呼ばれる彼らは、人間とは違うのだろうか。


 ぐりゅるるる。

 盛大な腹の音に、青年の思考はかき消された。

「あー……戦ができないなあ」

 小春日和の高空に、左手を掲げる。

 いくら手を伸ばしても、掴めない世界。

 ちらりと視界に入った腕時計は、午前七時を示していた。

「おはよう」

 声をかけた相手は人ですらなく、優雅に昇っていく朝日だ。というのも、青年はここ数日、人間の姿を見ていない。

 世界総人口は現在、一千万人を下回る。十一年前から八年間にわたって地球に訪れた氷期のせいで、人類はその数を急激に減らしたのだ。さらに、科学技術と宇宙開発の進歩によって宇宙船で太陽系を彷徨う人が増えたとなると、地球上人口は五百万人よりも少ない。七十億もの人間が生活していた時代と比べれば、そのうちの千四百人に一人が地球上にいる概算だ。

 そんな時世に自分以外の人間と出会うことは、都市部ならまだしも、青年が立っているような荒野の真中では至難の業である。

「お、いいもの発見」

 彼は近くにあった木から蜜柑を二つもいできて、片方を赤いダッフルコートの右ポケットに押し込んだ。左手のもう片方をむいて、豪快にかぶりつく。

「すっぺ」

 口いっぱいに広がる酸味と同時に込み上げてくるものがあり、空を見上げた。

 白い流星が、朝空を駆け抜けていくのが見える――否、あれは白い宇宙船のようだ。少しずつこちらへ近付いてきている。

「……ん? 俺の方に向かっているような」

 宇宙船の輪郭は、一定の速さで大きくなり続けている。

 ――おかしい。

 青年は一瞬の判断で重いスーツケースを抱え上げ、近くの木陰まで走った。

 荷物を置いてから様子を見ていると、宇宙船はその速度を緩めることなく荒野に向かってくる。

 そして数秒後、けたたましい警告音が頭上から降ってきた。

「右側エンジン、制御不能。緊急着陸します」

 警告通り、白い宇宙船は大地を揺さぶる轟音と共に荒れ地を削っていった。

 青年の脇に立つ常緑樹は彼の頭上に枝葉を降らし、置いていたはずのスーツケースをすっかり隠してしまった。

 突然の出来事に動揺を抑えられないまま、木陰から様子をうかがう。

「……ナ……オ、ナ」

 ノイズ混じりの機械音が聞こえてくる。

 よく見ると宇宙船の扉は開け放たれており、そこから投げ出されたのであろう人影が近くに横たわっていた。

「オー、ナ……オーナー。ご無事ですか? 返事をしてください」

 男声――慣れている者にはすぐに機械音声だとわかる声――が、ドイツ語で必死に誰かを呼んでいる。

「オーナー、お願いです。どうか返事を!」

 どうやら『オーナー』とは、そこに倒れている少女のことらしい。

 悲痛な叫びにいたたまれなくなった青年が、木陰から姿を見せた刹那。

「っ、敵を発見! 攻撃を開始します」

 言葉と同時に、赤い光線が青年の横をかすめる。振り向いてから後ろの木がわずかに焦げているのを目撃した彼は、それがレーザー銃であることに気付いた。

「おい、ちょっと待て! 俺はただ、その子を助けようと」

 有無を言わせず二発目のレーザーが発射された。青年は額から嫌な汗が流れてくるのを感じながら、木陰に避難する。

「ああ、オーナー。もっと早くメンテナンスを受けていれば、このようなことには」

 先程から、青年はただならぬ違和感を覚えていた。

 ――機械音声が紡いでいる、言の葉。

 人工知能の音声にしては、あまりにも語彙が多すぎる。だとすると、先程から言葉を発しているのは別の場所にいる人間なのだろうか。

 しかし、そんなことよりも気になるのは。

「その子、放っておくと危ないかもよ」

 倒れている少女は、青年が見ていた限りではぴくりとも動いていない。

「心拍数、血圧、脳波。数値はどれをとっても正常です。ただ意識を失っているだけかと」

 顔の見えない相手は、感情のない淡々とした声で返してきた。

「でも、万が一ってこともあるだろ。実際、医療用ロボットが判断を誤った例も少なくはない」

 気温が下がるほどの沈黙。思い出したように吹く空風が、葉を減らした木々を揺らしていく。

「では、触れたら攻撃します。触れずに彼女を助けてください」

「わか……って、それはちょっと無理があるなあ」

 とっさに反応してしまったが、現実的に考えてそれは不可能だ。

 だが、青年には一つだけわかったことがある。会話の相手がもし人工知能だとしたら、彼はかなり知能が高い上に、複雑な感情をもっている。それはつまり、彼を生み出したエンジニアが素晴らしい技術を持っているということなのだ。

「本当に、オーナーを助ける気があるのですか」

 訝しむ声に、わざとあしらうような態度で返す。

「さあね。どうする? リスクを許容してその子を放置するか、通りすがりの信用ならない男に治療してもらうか」

 ――さあ、どう出る。

 青年は明らかに楽しんでいた。相手がどのように反応するか興味があったからだ。

 そして、その相手が出した答えは。

「もし、仮にオーナーを助けるとしたら。対価に何を求めますか」

「見返りは求めない、って言いたいところだけど。そうだなあー」

 青年は爽やかな笑みを浮かべて空を仰ぐ。

「俺はその子を治療して、宇宙船の修理とメンテナンスをする。対価は、俺を一週間ほどホームステイさせること」

「止むを得ませんね。では、そちらの希望をのむとしましょう」

 相手はあっさりと条件を受け入れると、青年に木陰から出てくるよう促した。

 青年は両手を上げた降参のポーズで姿を現すと、微動だにしない少女の横にしゃがみ込む。

「呼吸、異常なし。脈拍も正常。意識は確認できないが、瞳孔反射はある。吐き気や頭痛に苦しむ様子もない。……確かに、気絶しているだけみたいだな」

 満足そうに診察を終えた青年の耳に、安堵したような声が届いた。

「よかった。あなたは医者ですか?」

「いや? 呼びたいなら闇医者と呼んでいただいても構いませんが。とりあえず、足と腕の外傷だけ治療しておくぞ」

 黒いスーツケースの中には医薬品も入っているらしく、彼は慣れた手つきで消毒液と包帯を取り出して擦り傷を治療した。

「よーし。じゃあ、宇宙船の修理が終わるまでは木陰に寝かせておこう」

 青年は軽々と少女を抱き上げると、先程まで自分が隠れていた場所に彼女を寝かせる。

「他に、この宇宙船に乗務員は?」

「いえ、彼女一人です」

 ――こんな少女が、一人で?

 青年は不思議に思いながらも、それを口に出すことなく作業を続けた。

「次、宇宙船の修理に入ります。壊れたのは右側エンジンと入口の扉かな? あと、メンテナンスが必要な箇所は?」

 切り替えの早い彼は、自分の身長の半分ほどはあるスーツケースをごそごそと探っている。そこには膨大な数の工具がずらりと並んでいた。

「メンテナンスは左右・後方・下側にある四つのエンジンと、ソーラーパネルシステム、あとは燃料タンク及びサブコンピュータを」

「メインコンピュータは?」

 一瞬の間の後、機械音声は人間を試すように問いかける。

「もしや、〝私〟に興味がおありですか」

「そうだとしたら?」

 青年は不敵な笑みを浮かべる。

「あなたが信用に値する人間であると判断した暁には、見せて差し上げても構いませんが」

 腹を探り合うような会話に、青年は言葉敵があることの楽しみを思い出していた。

「言葉遣いの割に、随分と上から目線だな」

「当然でしょう」

 急に声色を真剣なものに変えて、人工知能は言葉涼しく言ってのける。

「私は、この世界にあふれている低レベルな機械とは次元が違う。むしろ、違って当然です。私の創造主は、徳の高い男でしたから」

「ほう」

 青年は、右側エンジンのカバーを開きながら言葉を返す。

「お前は、自分の親を恥じたことなんてないんだな」

「無論」

 先程よりも湿気た風が、青年の頬をかすめていく。

 三秒間の静寂。機械音声は、柔らかなものに変わって。

「『家族』だと、言われましたから」

 青年は肩をぴくりと震わせ、次いで頬を緩ませた。

「そっか」

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