第2話 双角の少女と母の言葉

 見守る少女がいる。

 底のない暗闇へ落下してゆく意識を、シュランは崖の縁にすがるようにして危なげに保つ。それでも、意識は揺らぎ、溶けてゆるゆると消えていきそうだ。


「大丈夫……側にいるですよ……」


 握られていた右手を一層強く握られ、落ちそうな意識が覚醒する。


(……右手……なくなったと思ったのに……)


 埋没しそうな意識が徐々に明確なものとなっていった。


 シュランはぼんやりとした視線で周囲を伺う。右手を握っているのは、白桃色した髪の少女だった。両耳の上辺りから、水牛みたいな白い角を巻き貝状にうねらし生やしている。

 少女の、淡い黄緑色の瞳にあるのは、今にも溢れそうな涙。哀しみと憂い。今にも健気に見守る少女の顔が、くしゃと泣きだしそうだったので、シュランは思わず、


「泣かないで……大丈夫だから……」


 と言った。果たして、呻きみたいで伝えられたどうか。

 ただ、双角の少女はまたシュランの右手を強く握ってくれた。


「……あの……君は……」


 シュランは言い掛けて、ふいに、少女の隣にいるものに目を合わせてしまった。それは者か、それとも物であったのか。

 光沢のある黒塗りの石板がシュランを覗き込んでいた。からみあうシュランの二つ目と、石板にあるぱちぱちと瞬きする一つ目――


 一つ目石板は身体をくねらせ、ぽっと赤くなった。


 がくっと首を曲げ、シュランは意識を失った。



 再び、シュランはまどろむ。


 ゆらゆらと。

 永遠もなく。

 つらつらと。


 ……どこからか遠雷のような音が響いてくる。


 ああ……また、あの夢だ……


 シュランは飛ぶ鳥のような視点で、水色の街を眺めていた。たぐいまれなる技術が生み出した芸術作品とも呼べる、シリウス星の塊麗たる街だ。輝けんばかりの都。


 その都が赤々と燃えている。


 飛び交うレーザー線、荒れ狂う殺人粒子、空よりの爆雷、放たれる熱線砲ブラスター。数十年もかけて建築された街が、一日のそこらで破壊される。

 有史以来、何百の年月がたってもあらゆる知的生物がいる星では……シリウス星も、ミャウの母星スピカでも、シュランの母親や親方ゲオルグの地球でも、戦火や紛争から逃れることはできないのだ。


 シュランの視点は鳥がゆらゆらと舞い降りるように街の一角を拡大してゆく。


 街の一角。銃音と炎が燃え上がる広い街路を逃げる三人の親子、いや四人の親子がいた。


 必死の形相で親子は逃げている。父親はシリウス人だ。『星界の妖精』と呼ばれるほどの容姿の持ち主である。母親は地球人。身体の線はほそいが、酒場の気前のいいおかみさんを思わせる顔立ちで、褐色の肌をしていた。その褐色の肌を受け継いだ、十年前のシュランが走っている。母に手を握られて少年シュランが駆けている。


 最後の四人目は……母のお腹のなかにいた。母は身篭もだった。

 四人の親子は走り続ける。


「ああ……そっちにいちゃだめだ! だめなんだ!」


 何度そう言ったことか。


「だめ、なんだ……」


 もう見るだけ。過去の出来事。


 空から爆弾が落ちてくる。四人の親子たちの頭上に――


「だめ……!」


 巻き起こった爆発は、手を繋いだ親子三人、いや親子四人の絆すらもひき千切った。

 膨れあがる爆発を上空から眺めながら離れてゆき、突如、視点がぶっつんと入れ変わる。これは過去なのだ。過去の出来事。シュランの記憶と傷が編集した哀しい思い出なのだ。

 顔全てを包帯でぐるぐる巻きにされた少年のシュランが呆然と立っていた。シュランはせわしなく医師や看護婦が行き交っているのを呆然と見つめていた。

 病院の床は血と埃と瓦礫まみれ、そして誰かの片脚だけが転がっている。


 と、ベッドで運ばれていく母親を見つけて、シュランは追いかけた。


 傷だらけの母が苦しんでいる。赤ん坊が生まれるらしい。シュランは惨めに転んで追いつけず、母は何処かの部屋に大慌てで運ばれた。扉が閉まり、シュランが入りたくって扉を何度も叩いた。そのうちに、爪をひっかけて、生爪がはじけ飛んだ。

 それから数分後、女の子が生まれた。

 産声はなかった。銃弾か、それとも爆発のときの弾けた瓦礫が母体を突き抜け、妹の額の横をかすめていたから。

 治療の甲斐もなく、いやする間もなく、数分せず妹は亡くなった。

 その間、妹は一度も声をだすこともなかった。泣き声すらあげず、世界に星や海や愛があることすら知らず、妹は亡くなったのだ。

 その妹の死を知らされたとき、母はベッドの側にいたシュランの頭を撫でながら言った。


「かあさん、明日から四人分の料理をつくるから……シュラ! あんたは三人分を食べるんだよ。父さんや妹の分も食べて、精一杯、生きるんだよ」


 爆発の時、父はシュランと母を庇って既にこの世にいなかった。

 爆音と銃音……怪我人の呻きが聞こえる病室で、シュランは涙を流しながら、母の言った言葉に何度も頷いた。彼はこれからそう強く生きようと誓ったのだ。


 そして一年後、紛争が鎮静化した頃、やっと、父と妹の墓をつくることができた。

 夕暮れどきだった。

 地平線の彼方まで立ち並ぶ青色の石棒――みんなの墓が覗ける、見はらしいのいい小高い丘の上。父と妹が埋葬された墓の前で、シュランと母は二人で立っていた。


「花束じゃ、お花が可哀相だからね。根っこがあるのを植えていくんだよ」


 母は墓の側に花を植えていた。地球からわざわざ取り寄せた高価な花だ。アナスタシアという古代から災難よけ、魔除けとされ、不思議な力をもつとされている菊科の植物である。花言葉は『平和』で、アナスタシアの言葉には『不死』の意があった。


「ユーリア。お花、見られるから、喜ぶよ」


 シュランは花を植えるのを手伝った。

 ユーリアは妹の名。奇しくもその日は、生きて迎えることできなかった、妹のユーリアの誕生日だった。

 そうだ。花束では花を切って命を奪ってしまうから、なにより、植えることで成長する花に、母は歳をとることができなかったユーリアの成長を重ね思ったのだろう。

 子供ながらそう感じて、シュランは哀しくって哀しくって堪らなかった。


 でも、一番哀しかったのは、冷たい風に吹き付けながれもぽんぽんと土を固めているとき、ふいに見たものだ。母の泥だけの手と涙をこぼす顔。


 そして――


 墓標に刻まれた、こんなシリウス言語文字。


  ユーリア・エアス・アクウィラ

  3436年12月1日生―3436年12月1日没

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