第32話 それは小さな少年の呟き

「皆は?」


 シュランはルオンに尋ねた。

 ルオンは砕けた鼻を気にしていた。だいぶ形は治っていて、大きな白い絆創膏が張ってある鼻を、しきりに撫で触っている。


「ああ。うん。ユミルじーさんが準備していたお部屋に、私が案内しておきました。シュランさんのお部屋もあるですぞ。こっちですぞぉ」


 かつての仲間の魂を見送ったあと、ユミルの取り計らいで、シュラン達はこの座天翔船ソロネで生活することになった。


 二人は異様にでかい地下迷宮のような青い壁面にそって進んでいく。これが座天翔船ソロネの内部の一部だというから恐れ入る。


 と、そこでルオンが右にふら~と傾いた。

 むっと、シュランは足取りが不安定なルオンを気にして、横目に眺める。


「……あっちがミャウ姉ちゃんで、こっちとあっちがゲッチちゃんとマーシャお姉さんですな。で、ここがシュランさんのお部屋ですよぉ!」


 ルオンはシュランの視線を感じ、ちらっと伺う。


「あの、やっぱり、鼻がへん?」

(疲労のあまり、二度も倒れ……アンリを倒すために、自分の力を分け与えて……)


 今までのことを追憶していたシュランは、咄嗟に言葉がでなかった。


「はあ~ そうですか……そりゃ、あーですよ。復元や再生の事象は高度なもので、掴むのが大変で、もってないですよ。それに、私はみんなと質が違うから、治りも遅いですよ」


 ルオンが壁をつんつくしていじけだした。その可愛い後ろ姿に、シュランは白い歯をこぼし愛着を覚えると、明るくいってやった。


「ルオ! 大丈夫だよ!」


 シュランは指先で、つんと、ルオンの鼻先をつついてやった。


「あ、うん! えへへへへっ」


 ルオンは満面の笑顔になって照れた。純真なルオンは大事に思っている人からその言葉を貰いたかっただけなのだ。

 と、そこでシュランはむふと含み笑いをした。ちょっと悪戯を思いついてしまった。目をくるりと動かし、続けて言う。


「でも、鼻が曲がっちゃっているよーな」

「え! いかんです! やはり早く復元の事象を……」

「それには名案がある」

「なんですか! 教えてくださいです」


 とても真剣な表情をしたルオンが胸元で両拳をぎゅっと握りしめて、シュランに迫る。一つ一つの動作が愛らしい。


「ぺろぺろだ! 俺がルオの鼻をぺろぺろして治してあげよう」

「なななな! なにをいーうてるですかな! またアレをするですか。シュランさん。自分がしたいだけで、嘘をついていませんか。いけないことですよ」


 ルオンが真っ赤になってやや怒った。


「嘘じゃない。古来より唾をつけて傷を治すという言葉はあるんだよ」


 シュランはさまも大まじめにいう。こういう仕草をしたときのシュランを信じてはいけない。

 ルオンがジト目でかなり深い疑惑の視線で見詰めてきた。


「解りました。【無限なものエン・ソフ】で調べてみます。検索検索~」 

(しまった! その手があったのか。簡単に嘘って、ばれちゃったな……)


 と悪戯が失敗した思ったシュランであったが、ルオンは思いもよらぬ答えを出してきた。


「本当でした。唾で傷口が治るのですね」


(ええー! そーなんですか!)


 シュランは心の中でおおいに驚いた。


「唾液にはビスタチンというタンパク質があって、これが別のタンパク質と結合すると、傷口をふさぐという働きがあるそうです。でもこれは人の身のお話。しかし、そのメカニズムというか、この事例を、神体の事象としてシュランさんは受け継いでいる訳ですな」


 ルオンは人差し指をたて、なんだか小難しいことを言い出してきた。さらに誤解も混ざったようだ。

 ちなみに、口の中にはほかにも沢山の雑菌がいるため、実際に嘗めて傷口を治そうとするのは危険。リアルな世界で嘗めるのは飴玉か格下の敵だけにすることをお勧めする。


「ううううう……恥ずかしいです。ものすごい恥ずかしいです。でもでも、でもですよ。シュランさんが私のためにしてくれることですから……」


 赤面し、羞恥心にぐっと堪える表情があった。


「――ぺろぺろ、お願いします!」


 ルオンは目をつぶって、鼻先を向けるように、顎をあげた。


 美少女がぺろぺろをお願いしてきた。


 ぺろぺろだ!


 シュランはその衝撃なる事実に身を硬直させ、脳内の中でアホほどの連続花火をあげ、馬と鹿の大群が愉快なコザックダンスとブレイクダンスを踊りだしたあと、素に戻って、苦悩しだした。


(ぐわー! 変な展開になったぞ! 確かに俺はぺろぺろしちゃったよ。戦闘の高揚感とか、変なものに変身しちゃったりして。なんだか訳わからない感情のままに。だけど、だけど、こんな素な状態でできる訳がない! 恥ずかしいだろう!)


 そこでシュランは現状を改めて認識するためにルオンを見る。

 頬をうっすらと桃色にそめ、懸命に目を閉じる愛らしいルオンの相貌。


(可愛すぎ! ぺろぺろしたくなる!) 


 恥ずかしさと理性と欲望の天秤が荒波の如く揺れ、シュランの脳内で、天使姿のルオンと小悪魔姿のルオンが決闘しだした。


「やっちゃえ、やっちゃえ! ぺろぺろしちゃえ、ですよ!」

「いけません。いけませんよ。シュランさんの誠実さを私は信じてます、ですよ!」


 そんな脳内の争いがあって、ルオン天使のとげとげメリケンサック付きのアッパーが小小悪魔ルオンに炸裂した。ルオン天使が勝ち、信頼の笑顔を向けてきた。こんな笑顔を汚してはいけないだろう。


(――いかんな! こんな悪戯はいかん)


 そうして一度は自らの行いを否定したシュランであったが、負けたはずの小悪魔姿のルオンが超絶ミニスカをちらっとあげ、見事な太股を見せてきたため、


(いや、違う! 男なら、美少女をぺろぺろすべきなのだ!)


 シュランは胸元をはだけさせ、拳を熱く握って、思考がその域に達した。


「ルオ……」


 シュランはルオンの両肩に手を添えた。ルオンは添えられたシュランの両手に驚いて、身を躍らせたが、閉じていた目を開けなかった。

 シュランは生唾を飲み込んで、ルオンを見詰める。体に固さがあり、ルオンの緊張感がシュランにも伝わってきた。互いの鼓動なのか。波長となって合わさって、共鳴して大きく高鳴ってく。


 どきどきとした時間だけが流れた。


 熱く高鳴る時間だけが流れた。


 それら全てが高鳴り、シュランがいざいかんと意を決したとき、それに気づいた。


(……ああ! ルオの肩って、こんなに小さいんだ……)


 こんな小さな少女が命を狙われている。そして、こんな小さな体で頑張り、シュラン達を導き支えてきてくれたのだ。


(だめだよな……)


 ふうと、シュランは深く息を漏らすと言った。


「ルオ。ごめん。おまじないにしよ!」

「え?」


 ルオンが思わず目を開けて、飛び込んできたのは、シュランの顔だった。


「おまじない。はやく、よく治りますように!」


 そういって、シュランはルオンの鼻先に軽くキスをした。


 ルオンはきょとんとした表情をして、事態を飲み込めなかった。けれども、されたことを理解すると、湯が沸騰したようにぼっと赤くなった。


 それから、ルオンは片足を軸にして、その場でくるくると回りだした。


「えへへへへ! おまじない! おまじないでーす! 元気になるおまじなーい!」


 嬉しくって堪らないのか、ルオンはしばらく、くるくると回っていた。


「ありがとう! 元気でた! それでは、よく寝るですよ。お休みなさいですかな」

「お休み……」


 そういってシュランはルオンを見送った。

 しかし、ルオンの、その足取りがあやしい。


「待て、ルオ! 本当は歩くのすら、もう辛いんだろう。部屋まで運んでやるよ」


 よろめきかけたルオンに堪りかねて、シュランは呼び止めた。


「なんですか? 別にそんなことないですよ」

「脚がまた震えている……」

「あの、その、違うの! 何でもないの!」

「何でもないであるか!」


 シュランの一喝に、ルオンは身をすくめた。シュランは強引にルオンを抱きかかた。胸の中でルオンは身を縮め、涙の溢れだした目を手で隠した。


「見ないで、泣いたところ。見られたくないですよ。シュランさんには、私がずっと笑っていたこと、覚えていてほしい。その、おんぶして、顔を見られたくない」


 シュランは無言のまま、ルオンを背に抱え直し歩きだした。


「二度目だ。嬉しい……」


 おぶされたルオンが呟いた。


「怒っている?」

「どうせ、ルオン達から見れば、俺はちっぽけな存在だよ。頼りにもならない」

「違う! 負い目、あるですよ。私の所為で、みんながあんな辛い目あって……だから、これ以上、迷惑をかけられないのです」


 ルオンが背から下りようとした気配があったので、シュランは力を込めた。


「ルオ……俺も皆も、そんなことを思ってない。悪いのは彼奴等であって、ルオじゃない」

「でも」

「それ以上、云うと――」


 シュランはぐにゅっとルオンの尻をつかんだ。


「きゃうん! 何をするですかぁ!」


 顔を真っ赤にして、怒ったルオンはシュランの後頭部に頭つきを始めた。


「この! お尻を掴むなんて! 口許は舐め回すは、ぺろぺろとか言い出すし、油断も隙もないですね! シュランさんは、実はスケベってやつですな! それはそれは、恐ろしいことですぞぉ! この! この!」

「いたい、いたい!」


 頭つきをかましていたルオンが疲れ果て、くたぁ~と顔を背に埋めた。


「ほら、疲れているのに、そんなことするから……」


 といいつつ尻を撫でてみると、


「ルオのお尻は柔らかいな~……いたたーぁ!」


 首元に噛み付かれた。


「お前は! 本当に、本性を隠していたな!」

「誰かさんには……云われたくないですな」


 本気で怒っている。

 シュランが暫く歩くと、ルオンの部屋に辿り着いた。入ったルオンの部屋は、薄紅色で統一され、桃色にじむ立方体や水泡が浮遊していた。それらが椅子や机なのだ。

 繭みたいものがベッドらしく、その上にルオンを降ろした。


「じゃあ。ルオこそ、ゆっくり寝るんだぜ」

「あの聞かないの? 私が狙われる理由とか……」


 立ち去る気配があり、もう少し一緒にいたかったルオンが言った。


「言いたいのかい?」


 シュランは怯えているルオンの視線を感じた。


「ううん、あまり言いたくない……」


 ルオンは視線を外し言った。


「なら、いいよ」


 シュランはルオンの額を軽くこづき、部屋から出ていった。

 扉が閉まった。

 全ての音が消えた。

 静寂の中、ルオンは閉まった扉を凝視した。静寂がルオンの心に重くのしかかる。


「私は、ずるいことばかり……いい子ぶって……」 


 ルオンはシュランの優しさに、頬につーっと涙を流した。


(でも、そうしないと、誰も私を好きになってくれないですよ……)


 そう、ルオンは心中で独白した。

 外の世界を見たく、私だけを好きになってくれる人を探し求めて、逃げ出した。

 それが全てのはじまり。

 そして、ソレを受けとめてくれた人。

 ルオンはベッドの上で丸くなって、呟いた。


「ごめんなさい……シュランさん……」


  × × ×


 シュランは自分の部屋に向かって歩いていた。

 ふと、思う。気の強い所があるが、半身になった状況も伴って、限界がきて泣きだしたマーシャは面度身のいいゲオルグがあやしていていたからいい。


「ミャウ姉は……」


 心配になったシュランはミャウの部屋へ訪れてみた。扉をノックすると、ミャウが首に巻かれた包帯をなで回しながら、出てきた。


「なんだい。何かようかい?」


 ミャウがそっぽを向いて云う。どうも機嫌が悪い。


「いや、こんなことになって、落ち込んでないかな、と」

「お馬鹿だね~。ほんと」


 ミャウの瞳に、喜びと寂しげな光がたゆたった。


「そんな言い方……」

「馬鹿なんだよ! お前は! 他人のことばかり心配して!」


 酷い怒りようだった。


「お前は、その右手にある毒の所為で、死ぬかもしれないんだよ!」

「ああ。なんか、いっていたね。死なない、死なない!」


 ミャウの怒号を、シュランは目尻の黒子をこりこりと掻きながら平然と応じた。

 その白々しい態度に、ミャウが苛立ちを覚え、怒りをぶつけるようにぐっと顔を寄せた。ミャウの端正な顔が瞳に飛び込んできた。香しい匂いも。


「いい匂いだね、ミャウ姉は……」


 シュランが言い終わる前に、ミャウは羞恥と怒りで顔を真っ赤にし、


「なにいっているの! もう、あたいは面倒を見きれないよ!」


 吐き捨てて、激しく扉を叩き閉め、部屋に入ってしまった。


 シュランは一人残された。


「大丈夫そうか……ミャウ姉は……」


 肩を竦めて安堵し、シュランは踵を返したとき、


「シュラ坊……」


 呼び止めがあった。扉が少しだけ開かれ、隙間からミャウの背もたれ姿が見える。


「なに?」

「ありがとう……」


 ミャウが言った。


「それと、あのさ……これから、シュランって呼ぶから……あんたは、あたいのこと。ミャウって呼んでおくれ。姉なんてつけないでさ。別に兄弟でもないし……」

「どういう意味だよ」

「そういう意味だよ。ゆっくり、寝な」


 ぶっきらぼうにいって、扉が閉じられた。

 閉じた扉に背をこすって、ミャウは座り込むと、丸くなって、膝を抱え込んだ。


「……諦めた筈なのに……種族が違い過ぎるって……でも、この身体なら――」


 ミャウは膝の中に顔を埋め、涙を流し、酷く慟哭した。



「死ぬ、か……」


 シュランは寒々とした広い廊下を歩きながら、ひとり、呟いた。

 すると右の掌に、ぎざぎざ口がにやっと笑い、ふっと消えた。


 シュランは昔、母親のリオナが言った言葉を心中で、途切れ途切れに反芻した。



「かあさん……明日から四人分の料理を作るから……あんたは三人分……精一杯、生きるんだよ……」



 シュランは右手を握り締めようとして、一抹の不安と寂しさを感じ、左手を握り締めた。


「そういう生き方しか、できないと思ったのに……どうして、狂ってゆくのだろう……」


 それは小さな少年の呟きである。

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