おしまいの町に灯りがともる

川名真季

第1話猫と依頼の一日目

「見てください。これ。二十代、三十代の投票率がわずか五%ですよ」


沈む夕日の光が地上のすべてを美しく包む時刻。マンションの一室でテーブルの周りの椅子に座る若い女性たちは、テーブルの上に置かれた紅茶と皿の上にのせてあるクッキーやポテトチップスなどのお菓子の山に手を伸ばしつつ語り合う。


「ひどいね、そりゃ」


「あの候補者名簿を見れば、それも仕方ないでしょう」


「まともな人間が一人もいなかったしね」


「かわいそう」


「良いじゃない。この地は、私たちを待っているのよ」


「やるの」


「ええ。この地に、灯りを灯しましょう」


***


「ニャー!!」


斉果さいか県サイカ市の、午前四時過ぎの夕日に照らされた住宅街。この時間は道を通る人もあまりいない。その道路の脇にたつコンクリートの塀の上にいる背中側が黄土色でお腹が白い猫が、青いジャージの上下に黒のスニーカー、手に軍手をはめた黒髪の若い男の顔を引っ掻こうと爪を立てて襲ってきた。幸いにも彼、大河学たいが まなぶはとっさに顔を腕を腕でおおったので無事だったが、腕を覆っていた仕事着の青いジャージの袖はボロボロになってしまった。


「あー、もう。良い加減にしろよ‼ このまま家に帰れないと困るのはおまえだぞ、おでん!!」


学はキレそうになったが、今はそんな場合ではないと自分を押さえた。実際昨日キレてしまった隙にこの『おでん』という名の猫を見うしなってしまった。そのため所長に多大なる迷惑をかけてしまった。今度こそ失敗する訳にはいかない。学はじっとおでんを見つめる。おでんも学をじっと見ていたがそのうち飽きてきて、他にもっと面白いものが無いかと探し始めた。


「今だ!」


学はおでんのわずかな隙をついて背中から首を掴むことに成功した。


「ニャアアアアアアア‼」


おでんはけたたましく鳴いた。二ヶ月前の学ならその鳴き声に驚いておでんを落としてしまったかもしれない。しかし猫を捕まえるのはこのおでんで十匹目なので慌てることはなかった。前足で宙を激しく切り裂くおでんを左手に持ったペット用ケージに放り込み、しっかりと鍵をしめた。


***


「ただいま帰りました」


学が朝霞台あさかだい探偵事務所の裏口のドアを開けると、明るめのグレーのブレザーの中に白いブラウスと赤いリボン、ブレザーと同色の膝の辺りまでのスカートの制服を着た少女が出迎えた。黒髪のボブと二重のまぶた、ツンと尖った鼻筋が美しいこの少女は所長の長女の朝霞台佳珠乃あさかだい かずのだ。斉果西高校に通う高校二年生で、今年の四月から大学一年生になった学より二学年下である。


「お帰りー。今日はあの猫捕まえられたー」


「捕まえたよ」


学は猫の入ったケージを持ち上げて見せる。


「お疲れさまー。良かったじゃん。今日も捕まえられなかったら大変だったもんねー」


紺のブレザーに緑のリボン、紺のフレアースカートの制服をまだ着替えていない少女は、笑いながらケージを学から受け取った。


「この猫のことは私が飼い主さんに連絡しておくから、学君は応接室に行って良いよ。久々に大きい事件の依頼が来るみたいだから」


「大きい事件って大富豪の奥さんの浮気調査とか」


「ばっか、違うわよ。本物の事件の相談よ。最も詳しいことは何も知らないから父さんに聞いてね」


そう言うと佳珠乃は学に背を向け、二階にある自分の部屋へと歩いて行った。学は手を洗い事務室の隅でワイシャツとボトムスに着替えると、佳珠乃に勧められた通り応接室に向かいドアをノックした。



「入って良いよ」


落ち着いた声にうながされ学がドアを開けると、この朝霞台探偵事務所の所長、朝霞台時哉あさかだい ときやの青のネクタイと紺のスーツ姿が目に入った。時哉は今年四十八歳。まだ白いものがほとんど無い黒髪はきちっと撫で付けており、細身で背が高い。時哉はこの事務所を開く前、学の父親であり、斉果さいか県の県議会議員でもある大河光たいが ひかりの秘書の一人として働いていた。光の秘書は他にもいたが、学が人間として一番尊敬したのは時哉だった。それゆえ時哉が父の所をやめても学は時哉の所にたびたび遊びに行き、その縁で今事務所のアルバイトをさせてもらえることになったのだった。


「おでんを無事に捕まえられたかい。学君」


「はい」


初めて会った時と同じ、優しい瞳で聞いてくる。


「ありがとう。助かったよ」


「事件の依頼があったそうですね」


「ああ。どうやら五日前、三戸里みとり市で起きた事件に関する依頼らしい。残酷な事件だから君に手伝ってもらうのはどうだろうと今考えていたんだけど、どうする」


「やらせてください」


学は時哉の目を見つめて頼む。


「わかった。ではそこに座りなさい」


時哉が向かい合う二つの茶色のソファーのうち、事務室側のソファーを指し示したとき、玄関でチャイムの音がした。


「いやはやどうにも困っておりましてな。先生に是非とも助けていただきたいのです」


依頼人は黒に近いグレーのスーツ、白いワイシャツ深緑の生地に灰色の水玉のネクタイをしめた白髪混じりの少々小太りで丸顔の男だった。差し出された名刺には、三戸里市市長第一秘書 大田信造おおた しんぞうと印刷されている。


「すみません、確認のために最初からお聞きしたいのですが、よろしいですか」


「わかりました。それでは三戸里市市長である、安江興作やすえ こうさくが保育園改革に乗り出したところから話させていただきます」


「ご承知の通り近年首都圏近郊の県はどこも保育園不足でしてな。我が三戸里市でも毎年保育園に入れなくて、困っている保護者の方が大勢おられます。そこで安江市長は次年度から零歳から三歳までの保育園に通っているお子さんのうち、第二子を妊娠して育児休暇をとる保護者の方のお子さんに保育園をいったん退園してもらい、その退園したお子さんの代わりに家で待機しているお子さんに保育園に入っていただくということにしたのです」


「これは他の市でもやっていることで特に珍しい政策ではありません。ただ」


「市長の思いとしては政策をスピーディーに実行して、市民の皆様に喜んでいただきたいと思ったのですが、育児休暇を取られる保護者の方から突然すぎると苦情をいただきまして」


「それで裁判になったんですよね」


「ええ。子ども・子育て支援法という法律に違反しているということで、保育園を退園される予定のお子さんの保護者のうち十二世帯十六人の方が市に対して行政訴訟を起こされ今係争中なのですが」


「六月十二日の火曜日にその内の一人の方が自宅でお亡くなりになられたのですね」


「そうです。被害者の横沢真央よこさわ まおさんは自宅のトイレの中でお亡くなりになっていました。死因は便器の中に酸性洗剤に塩素系漂白剤を混ぜてしまったことにより発生した塩素ガスによる中毒死ということで、最初はトイレを掃除する際に起きた、ただの事故だと思われていたんですがね」


「警察が現場検証をしてみたら事故というには不自然なところがボロボロ出てきまして」


「まず最初に被害者の横沢さんの服装です。ご遺体が発見されたとき横沢さんは長袖のシャツにジーンを身につけその上にクリーム色の薄手のコートを羽織っていました。この服装でトイレ掃除をするというのは常識的にありえません」


「念のため聞いておきますが、自殺では無いんですか」


「ご遺体を死亡解剖してみたところ、頭部に棒状の物で殴られた痕があったそうです。致命傷ではありませんが、横沢さんをしばらく気絶させることは充分可能だったそうです」


「なるほど。警察は横沢さんの死は殺人によるものと断定しているのですね」


「いや、横沢さんを殴った犯人と床に置いてあった洗剤を混ぜた犯人は別人かもしれないということで警察はまだ完全に殺人と断定はしていないようです」


「後、横沢家のトイレの床に敷いている赤いトイレマットが前方にずれていました。横沢さんはトイレの中でたぶん苦しくかったんでしょう。喉をかきむしるようにして倒れていましたから、そのせいでトイレマットの位置がずれたのかもしれません。しかしこのトイレマットが前方にずれることでトイレのドアと床の間の隙間が埋まったことは事実です」


「それからマスコミには伏せていますがトイレのドアの前には、廊下の幅とほぼ同じ幅の全体を黄土色に塗られた木製のテーブルが置かれており、上にはフロアライトとかいう床に置いて使う灯りが置いてありました」


「テーブルを一人で運ぶのは大変そうですね」


「確かにそれは気になります。しかしそれ以上に気になるのはフロアライトです。テーブルは奥のリビング・ダイニングから持ってきたものであることがわかっていますが、このフロアライトは横沢家になかったとご主人が証言していますから」


「事件当日に横沢さんが買ってこられたのではないんですか」


「その可能性はあります。しかし今のところ証拠がありません」


「とにかくご主人が家の中に入ると家の中はすでに暗く、そのテーブルの上にのせられたフロアライトの影のある静かな光だけが、トイレの前の廊下を照らしていたそうです」


「わかりました。ところで事件の第一発見者はご主人で間違いないですか」


「ええ。横沢さんが娘さんを迎えに来ないと保育園から連絡を受けたご主人は、会社を早退して保育園に娘さんを迎えに行ってから自宅に帰りました。横沢家は玄関を上がると廊下があり、廊下の右手にはトイレ、洗面台、バスルーム、左手には和室、二階へ上がる階段、奥のリビング・ダイニングと続きます。トイレのある廊下は家に入る際必ず通る場所なので、彼が事件の第一発見者になることは必然だと言えます」


「そうですか。トイレの中で発生した塩素ガスは家の中にも漏れてはいなかったのですか」


「ご主人がトイレのドアを開けるまでほとんどのガスはトイレに貯まっていました。ご主人はドアを開けるとすぐ以上に気がついてドアを閉めたので二次被害が広がることはありませんでした」


「わかりました。ところで、この事件を警察に任せず私どもに依頼する理由はなんでしょうか」


「この事件がマスコミによって発表されると、世間の方たちは非常な衝撃をうけました」


「まず最初に、横沢さんは妊娠八ヶ月でした。妊娠がトイレで異常な死に方をしたということ、横沢さんが三戸里市に行政訴訟を起こす原告団の一人として全国ネットのテレビで紹介されていたこと、これらがインターネット上で人の目を引き付けました」


「さらに先月山梨県で起きた与党議員の元秘書が練炭自殺をした件と結びつけられ、陰謀論を信じる方たちによって面白おかしく語られることでこの事件は全国的に有名になったのです」


「その与党議員の元秘書の事件とはどのような事件ですか」


「元秘書の男性が以前働いていた山梨県選出の与党議員の事務所で不正行為があったとして裁判所に訴訟を起こしたのですが、先月自家用車の中で練炭自殺されました。元秘書による遺書がなかったことで、元秘書が与党議員に暗殺されたという噂がまことしやかに流されていたのです。そこに横沢さんの事件が起こってインターネットが一気に陰謀論で埋まったのです」


大田の表情は苦々しいものに変わった。


「私はネット上の議論を知らないのですが、どんな感じなのですか」


「それはもうひどいものですよ。安江市長が横沢さんを暗殺者を雇って殺したという根も葉もない意見 に大勢の人が無責任に賛同するは、有名な暗殺者の漫画の主人公の体に安江市長の顔写真を張り付けて「安江サーティーン」というあだ名をつけた画像を拡散させて面白がったり最低です。でもこれらはまだ無視すれば良いです。市のメールアドレスに来る人殺し、バカ女が死んで良かったですねなどと書かれたメールなど、もやは市の業務へ支障をきたしています。実際問題、嫌がらせのメールがたくさん来るので、今市のメールアドレスは一時停止しています」


「それはひどいですね」


「本当にひどいです。うかつに反論すると、さらに過激な反応が帰ってくる可能性があるので、何を言われても黙っていなくてはならないのが辛いです。でも、これらはまだいいです。開いてすぐに消去することができますから」


「それよりももっと、大変なことがあります。我が市はこのサイカ市と同じく、市民の皆さんが直接市長に意見を届けられるように市長に手紙を出せる白木の箱を市役所や支所においています。以前から保育園問題などで厳しいご意見の手紙をいただくことが多かったのですが、この事件が起こってから人でなし、横沢さんの死に安江市長は責任があるなどという手紙が送られて来ましてね。いやあ、肉筆というのは活字よりも強いと、改めて身をもって感じましたね。もう読んだときのショックがメールと比べ物になりませんよ」


「これは、なんと言えば良いのか」


「いや、慰めの言葉など入りません。我々の望みはこの騒ぎが一刻も早く終息することです。そのためには事件の解決、できれば事故や自殺などではなく、殺人事件として犯人が捕まることが望ましいです」


「そのために警察には何としても頑張って欲しいです。しかし我々がいうのもおかしな話ですが、競争相手がいない企業はどうしてもお役所仕事になりがちです。そこであなた方に競争相手になってもらいたいのです」


「競争相手、ですか」


時哉は困惑した様子で尋ねた。


「そうです。ちなみに警察より先に事件を解決していただければ、成功報酬として通常の調査料の二倍の料金を払わせていただきます。また手付金としてを払わせていただきますので、何とぞ、何とぞ、よろしくお願い致します」


大田信造はテーブルに押し付けんばかりに頭を下げた。


















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