練習と三姉妹の二十四日目

「一、二、三、四。一、二、三、四」


 どこまでも広がる、青い空と白い雲の良く晴れた天気の日、午後二時を少し過ぎたころ。学はサークル会館の二階の二階で手話ダンスの練習をしていた。


「ごめんね。今の所右じゃなくて左」


 甘さのないシャープなショートカットに、クールで澄んだ瞳に黒い太めのセルフレーム眼鏡が印象的な佐野夏希さの なつきが、学が踊ったダンスの振り付けの間違いを指摘した。


「うわっ、そうだった。すいません」


「本番ではとりあえず体を動かしていればなんとかなるから、別に気にすることないよ」


「いや、やれるだけのことはやりますから」


 学は間違えたところからやり直しながら、それにしてもと思う。


 今日に限って安川をはじめとする男のメンバーが皆休んでしまい、佐野さんと二人きりだなんて超気まずい。


 佐野さんがこの状況に特にうろたえることなく、手話ダンスの振り付けを淡々とだが真面目に教えてくれるのが、余計にいたたまれない。


「ジュース買いに行こうか」


 もうそろそろ休憩したいと思っていた学は夏希の提案をありがたく受け入れ、自動販売機まで夏希と二人で歩いた。


「大河君はどうしてこの『未来を変える会斉果支部』に入ろうと思ったの」


 レモンソーダの入ったペットボトルのキャップを閉めながら、夏希が聞く。


「友達から話を聞いて、面白そうだと思ったからです。最もその友達は自分は良いって、入らなかったんですけど」


「そうなんだ。ところで、櫻さんとは前から知り合いなの」


「櫻さんとは、一度だけお話をする機会があっただけです」


「その割には、わざわざあなたが入会するのにあわせて櫻さんがやって来るなんて、期待されているんだね」


「いや、たまたまですよ」


 学は話ながら、夏希の顔が暗く陰ったのに気がつく。学は、彼女は前櫻さんが来たときも、厳しい目で見ていたのを思い出した。


「女同士っていうのも、色々大変なんだろうな」と、学が思っていると、夏希は顔に浮かんでいたためらいをふりきり、口を開いた。


「大河君。万が一、櫻さんにどこかに遊びに行かないかって、誘われるようなことがあっても」


「断って」


「はっ」


「急に何を言い出すんだって思っているだろうけど、ちょっとでも疑わしいものには近づかない方が良いの」


「こんなこといっても、彼女のような人から誘われて断るなんて、無理だと思う。でも、気をつけて。もしも、彼女から何か頼まれたときは、私に相談してくれない」


 夏希は祈るような表情を顔に浮かべていた。


「サークル長の安川も相談にのってくれるとは思うけど、櫻さんのことを疑うなんてこと絶対にしないだろうし、他の四人は、こないだ見たからわかると思うけど、皆、櫻さんに夢中だから話にならないのよ」


「皆、本当に真面目に未来を良いものに変えたいと思ってサークルに入った、本当に良い人たちなんだけどね」


 夏希は祈るような表情を顔に浮かべていた。


「櫻さんと何かあったんですか」


 学が尋ねると、夏希はためらいつつ重い口を開いた。


「私がこの未来を変える会に入ったのは、中学の時のバレー部で、特に仲のよかった先輩に誘われたからなの」


「先輩は練習熱心で真面目な優しい人で、いつも、自分一人だけが幸せになることはできないと、他人を幸せにして得た幸せは偽物でしかないと言っている人だった」


「高校時代も障がい者が生活する施設にボランティアに行っていた先輩は、大学に入学して未来を変える会に入会すると、ますます積極的にボランティア活動をしていて」


「最近はたまにしか会わなかったけれど、先輩はいつもはじけるような明るい笑顔を周囲に振り向いていた」


 夏希は一瞬遠い目をした。キラキラする思い出を思い出しているようだった。


「ちょっと前に、先輩から急に会いたいと連絡をもらって、北斉果駅駅前で先輩に会ったとき以外はね」


「そのときの先輩は、何かに怯えているようだった。不安げな眼差しで周囲を絶えず神経質に見回していた」


「ごめんなさい。未来を変える会にあなたを誘ったのは間違いだった。今すぐ、未来を変える会を辞めてと、先輩は言ったの」


「その理由を何か言ってませんでしたか」


「先輩は理由は言えない。でも 」


「櫻さんには、気をつけて。櫻さんを信用しては駄目と言ったの」


「櫻さんを 、ですか」


 正直な気持ちを言うと、学は夏希の言葉が信じられなかった。でも、夏希が嘘を言っているとも、思えなかった。


「他に何か先輩は言ってなかったですか」


「いいえ、それだけを話すと、先輩は用事があるからと言って、行ってしまったの。そしてその次の日」


「先輩は自動車事故にあって亡くなったの」


「それは、大変でしたね」


 夏希に返事を返しながら、学はあることを思い出した。そんな偶然があるのかと考えたが、思いきって聞いてみることにした。


「佐野さん。その先輩というのは、もしかして本宮陽菜乃さんですか」


 学は九日前、三戸里警察署近くの県道で跳ねられた女子大生の名前を出した。そのとたん、夏希は鋭い目付きで学を見た。


「だったら、なに。非処女だから、どうなっても良いって言いたいわけ」


「俺は、本宮さんが本当に加害者の深山が言ったようなことをしていたとしても、他人に好き勝手なことを言われる筋合いはないと思っています」


「しかも、本宮さんが良くないことをしていたという話も、加害者の深山が言っているだけで、証拠があるわけではありません」


「 俺は、証拠もないのに会ったことのない人のことを、インターネット上のことだとはいえ、あれこれ言うのは良くないことだと思います」と、学は強い言葉ではっきりと言った。


 その言葉に夏希は納得したのか、何も言わなかった。学は夏希から、本宮さんのことをさらに聞きたいと思った。本宮さんのことが、三戸里市の事件に関係があるかもしれないという気持ちはもちろんあった。


 そしてそれ以上に、本当の本宮さんのことを、佐野さんに教えてあげられるかもしれないと思った。もちろん、知らない方がいい、本当のことがたくさんあることは、良くわかっていたが。


「佐野さん。実は俺、三戸里市の事件のことを調べている人を知っています。その知り合いに、俺が佐野さんから聞いたことを話して調べてもらえば、もしかしたら、深山が本宮さんについて言っていることが嘘だと証明されるかもしれません」


「ですから、本宮さんのことについて知っていることを教えてくれませんか」


 学の頼みを、夏希は黙って聞いていた。


 やがて「わかった。教えてあげる」とポツリと言った。


「お願いします」


「では早速ですが、佐野さんは深山を知っていましたか」


「未来を変える会では年に数回、東京中の大学のサークルが集まって様々なことを話し合う会議を開いているのだけど。今年の春、その会議を安川たちと見学に行ったときに、彼を見かけたことがあるくらいね」


「深山は未来を変える会に、所属していたということですか」


「ええ。彼は未来を変える会では積極的に動いていると、安川は言ってた。実際、あの会議では、彼は書記として黒板に発言者の意見を清書していたのを覚えてる」


「ワイドショーで、近所の人がインタビューに答えて『彼は明るく挨拶する好青年だった』みたいなことを言っていたけど、私も彼に対して、同じ印象を感じてた」


「彼が、本宮さんに好意を抱いていたのは知っていましたか」


「いいえ。彼も他の青応大の未来を変える会の男の子たちと同じく、三姉妹が好きなものとばかり思っていたから、事件のことを聞いたときは信じられなかった」


「三姉妹?」


「今の青応大の未来を変える会を仕切っている、櫻架名、橘葉瑠たちばな はる柏木深雪かしわぎ みゆきの三人組のことよ」


「全く血の繋がりはないけど、三人でいる姿が絵になると言われていて。去年、青応大の文化祭に安川君たちと行ったときに、青応大の写真サークルが渡り廊下に展示した写真を見たの。そのとき、彼女たちが桜並木を歩いている写真が出展されているのを見たけれど、ため息が出るほど綺麗だったのを覚えてる」












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