第9空き家と生活保護の九日目
「いやあ、先生には本当に感謝してもしきれません。本当に先生に頼んで良かった」
午後二時を少し過ぎた時間の朝霞台探偵事務所で、大田は満面の笑みを顔に浮かべて時哉に語った。
「私は全くなにもしていませんよ。今回のことは安江市長が幸田鞠子さんの失踪という事態に対して強いリーダーシップを発揮し、警察官の方々がたまったホコリや蜘蛛の巣だらけで誰も入りたくない空き家を一軒一軒捜索するという地道で精神的に疲れる作業を黙々とやってくださったおかげですから」
「いやいや、先生があのとき助言してくださらなかったら、空き家を丹念に捜索するなどと誰も考えなかったですよ」
「警察の中では私と同じ事を考えていた方がいると思いますよ。ただ三戸里市の全ての空き家を捜索することには大変な労力がかかりますからね。市長の後押しがなければ、あそこまで大がかりな捜索をする体制を取れなかったでしょう」
「いや、それでもやっぱり先生のおかげです。ありがとうございます。もうこの一週間近く斉果版ではなく、全国ニュースに三戸里市で起きた事件がずっと載っていてうんざりしていたところだったんですよ。今日も幸田鞠子さん発見のニュースが全国 ニュースに載りましたが、先日の横沢さんを襲った犯人逮捕に続き良いニュースで載ることができて本当に良かったです」
大田は嬉しそうに語った。学はそんな大田を見て本当にそうだろうなと思った。横沢さんの事件が起こってから続いた事件のせいで、それまで全国の中ではあまり名前を知られていなかった三戸里市は悪い意味で一躍有名になった。インターネットの中では、ヤクザが銃を発砲する事件があったことで修羅の国というあだ名をつけられた九州の某市と比較され、修羅の国の後継者というありがたくないあだ名をもらっている。また、横沢さんを襲ったとして逮捕された二人の男は、安江市長の秘書が市長の方針に反抗する横沢さんに対して放った刺客説もAA付きで面白おかしく語られている。何の根拠もないのに、安江市長が気にいらない者を次々と殺しているという説もまことしやかに語られている。また市役所職員の豊橋さんを殺したのは安江市長を市長の座から引きずりおろしたい何者かの仕業で、横沢さん殺しと児玉夕輝君誘拐は安江市長がそれに反撃するために雇った者の仕業で、寺田議員の事故はそれに対するさらなる報復だというめちゃくちゃな陰謀論も同様に語られている。
「そうですね。本当に良かったです。ところで幸田さんはどのような状態で発見されたか教えていただけませんか」
「おお、そうですな。それをお話ししないといけませんな」
大田はお茶を一口飲むと話始める。
「空き家を捜索していた警察官が三戸里市の南西部の空き家の捜索をしていたところ、カギが壊されている家を見つけました。中に入ったところカギのかかった部屋を見つけたので、扉を壊して中に入って見ると、こたつ布団つきのこたつの側に幸田さんが倒れて居ました。幸田さんは豊橋さんと同じく二の腕と両足首をきつく縛られていました。幸田さんは非常に衰弱して意識がなく、もう少しで餓死していただろうと警察で聞きました。また、幸田さんの側に原型をとどめず腐りきったカレーライスとおぼしき食べ物がありました。それから、幸田さんの物と見られる黄土色の通勤用バッグが置いてありその中から粒状のチョコレートが入った箱が落ちていました。幸田さんはバッグの中に入っていたそのチョコレートを食べて生き延びたと思われます。それと部屋の中には今のところ幸田さんが部屋を出ようとして動き回った跡しか見つかっていないそうです」
「その部屋はどんな部屋ですか」
「元はリビングだったらしく赤いじゅうたんが敷いてあり、その上に赤いこたつ布団つきのこたつと濃い茶色の小さい文机が置いてあります。窓は一つで鍵がかかっていて、さらにこの窓の裏側には内側のカギを開けても開かないように何者かの手によりガムテープが貼ってありました」
「そうですか。ところでこの間豊橋さんの胃の内容物がわかったと言っていましたよね」
「ええ、この間お話ししたように豊橋さんの胃の中にはニンジン、玉ねぎ、じゃがいも、牛肉等が完全に消化されずに残っていたそうですが」
「ま、まさか、豊橋さんが最後に食べたものはカレーライスなんて言うんじゃないでしょうね」
若干引き気味の大田に、時哉は事も無げにそうだと思いますと答えた。
「豊橋さんは多分幸田さんと同じようにカギのかかった部屋に閉じ込められ、ロープできつく縛られていたと思われます。そして、置いてあったカレーライスを食べたことで、その中に混ぜられていた農薬によってお亡くなりになったのでしょう。幸田さんの場合は幸田さんがカレーライスに毒が入っていることを警戒して食べなかったので、犯人は幸田さんを餓死させようとしたのでしょう」
「が、餓死ですか」
「ええ、犯人は農薬入りカレーライスを被害者を苦しませずに死なせるための慈悲とでも思っているかもしれません。とりあえずこの事件についてはこのくらいにして、寺田議員について知っていることを教えていただけませんか。寺田議員は五期二十年近く議員をやられていたそうですから、安江市長も議会などでよくお会いになっていたのではないですか」
「あの方は確かに長く議員をやられていましたからよく知っています。元弁護士で議会での質問などには定評がありました。しかし、根は悪い方ではないと思いますが、保守的な考え方から来る失言で度々話題になっておりました」
「その失言とはどんなものですか」
「新しいところでは六年前に子どもを同性愛者にしないために学校で教育するべきだ言って謝罪することになりました。二年前に安江市長が保育園改革を打ち出したときにも、市長に抗議しているのは金を貰って抗議しているプロ市民しかいないと言って謝罪することになりました。あのときは安江市長も寺田議員と同類と見られて、自分と意見の違う者にプロ市民のレッテルを張り付けるのはいかがなものかというお叱りの手紙を多く貰い誤解を解くのが大変でした。さらに先月若者の結婚を促進するために若い女性を支援するべきと市長に質問した議員に対して、お前が結婚しろよ等のヤジを飛ばし謝罪するはめになりました」
「最近でそれは多いですね。それでは寺田議員のことを憎んでいる市民は相当数いるということですか」
「それはあまりいないと思います。確かに失言を沢山していますが、皆もうなれてしまい、寺田議員がなにか言ってもまたかという気持ちになる方の方が多かったと思います」
「そうですか。ところで寺田議員はまだ意識をとり戻していらっしゃらないのですか」
「ええ、懸命に治療を続けていますが未だに予断を許さない状況が続いています」
「わかりました。次に青木さんについて教えて下さい」
「青木さんについてはマスコミが色々報道している通りです。青木さんは数年前から働けなくなったので、市役所を訪れ生活保護を受けたいと相談しておられました。しかし、娘さんが隣の市に住んでおられることから、生活保護の認定はされませんでした。あの、これはマスコミには絶対秘密にして欲しいのですが」
「大丈夫です。私も学君も絶対に言いません」
時哉の言葉を聞いて大田は暫し沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「さっきも言った通り青木さんは何度も市役所に相談に来ていたのですが、五月の終わり近く、最後に相談に来たときにはいつにもましてしつこく粘っていました。あまりにもしつこいので担当の者が厳しいことを言うと、それまで真面目な顔つきで話していた青木さんは急に笑顔になりお世話になりましたと言って帰って行ったそうです。そのときの態度に担当者はなにか嫌な予感を感じ、なにかあった時はいつでも来てくださいねと声をかけたのですが、青木さんは大丈夫、気にしないでくださいと言って立ち去ったのです。担当者は事件後、あのとき青木さんを引き留めれば良かったと嘆いておりました」
「事件を起こしそうだという憶測で警察は動くことはできません。同様に事件を起こしそうだという憶測で生活保護の認定をすることは出来なかったでしょう。どうしようもないことだったと思いますよ」
「先生にそう言っていただけるとありがたいです」
大田は頭を下げた。
「気にしないでください。それより青木さんの奥さんは軽い認知症であると診断されていると聞きましたが本当ですか」
「ええ、本当です。青木さんの奥さんの主治医が断言しています。さらに主治医によると、彼女は軽いと言っても物事を正確に認識する能力が大分後退しているので、完全に回復した後でも事件のことをまともに証言出来るかどうかわからないと実に嫌なことを言っていました」
大田は大きなため息を一つついた。
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