第32話

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好きな人の笑顔を不快に思ったら、恐らくそれは恋の末期症状。

目の前に座る幸助の笑顔を見ながら晴仁はそう思った。


「それで桜季さんが……」


――これで三十四回目。

頭の中で正の字がまた一本追加された。

話下手な幸助が拙い口調で『桜季さん』と口にするたびに不快感は増していく。

幸助が休みで久しぶりに夕食を一緒にしているというのに、出てくる話が他の男のことばかりであれば、不快に思うのも無理はない話だ。

『桜季さん』

名前の響きから一瞬女かと思ったが、話をきくと、どうやら男であることが判明した。

しかもピアスをあらゆる所に付けたパンクな外見の男らしい。

ピアスをどこにつけようが個人の自由だが、しかし幸助にまでその手が伸びるとなれば話は別だ。

出勤初日にピアスをあけられそうになった話を聞いた時は、血管が何本か切れてしまいそうな程の怒りを覚えた。

自分のものに触れられるのも許しがたいのに、傷などつけられたらたまったものではない。

当の本人は危機感なく笑いながら話していたが、その緩んだ笑みすら腹立たしい。


「あ! そうだ、忘れてた!」


幸助が話の途中、突然、席を立ち冷蔵庫へ向かった。

やっと桜季という男の話から離れられるかと思った晴仁だったが、幸助が冷蔵庫から持ってきたものに内心顔を顰めた。


「これ、桜季さんがりんご切ってくれたんだけど、よかったら家で食べてって持たせてくれたんだ。食後のデザートとして食べようよ」


またひとつ正の字が更新され、苛立ちも募った。

もちろん表情にはそんなことはおくびにも出さないが。


「へぇ、幸助は職場の人に恵まれているね。それじゃあ頂こうか。……ところでこの紙の文はどういう意味?」


幸助が持ってきたタッパーの蓋に貼られた紙には『春雨さんへ。青りんごがお世話になっています。よかったら食べてください』とかわいい丸文字で書いてある。

春雨? 青りんご?

晴仁は首を傾げた。


「あ、桜季さんは人に食べ物のあだ名をつけるのが好きで、僕が晴仁と一緒に住んでいることを話したら『じゃあ春雨さんだね!』って晴仁にもあだ名をつけたんだ。すごい発想力だよねぇ。若いから頭が柔らかいんだろうね。ちなみに青りんごは僕のあだ名なんだ」


そう言って苦笑いする幸助だが、あだ名で呼ばれることは満更でもないようだ。


「おもしろい子だね」

「うん、すごく。会話が予期できなくてびっくりするけどそこが面白いんだ」


大好きな映画を語る時と同じキラキラとした笑みを浮かべる幸助に、胃の底が熱を持って捩じれる。

大好きな映画を語る時には愛らしく見えたその笑みも、語る対象が男となった途端憎らしくなるのだから不思議だ。


「それじゃあ、食べようか。いただきます!」


幸助が手を合わせたと同時に、居間のソファに置いてあった幸助の携帯が着信音を鳴らした。


「あ、はいはい!」


幸助は返事をしながら慌ただしく立ち上がって、携帯電話に向かった。

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