プロローグ
東京湾岸、羽田空港のチェックインカウンターの前では、出発手続きをとる人々が列をなしていた。
一時期は、千葉県にある成田空港に日本の玄関としての地位をゆずり渡していたものの、現在の羽田はアジアのハブ空港の地位に食い込もうと、LCCの就航も積極的に受け入れている。発着枠は年間四〇万をゆうに越える、超過密空港だ。
いよいよ本格的な夏が到来してこようというこの時期、アスファルトを敷いた外の道路は、年々ひどくなる大都市特有の熱射ですでに真夏のような暑さである。その点、空調の効いたロビーは、なかなか快適な空間だった。
混みあい、ざわついたロビーやカウンターの前で、彼らは何を思うのだろう? 彼らはたがいに縁もゆかりもなく、偶然ここにつどっただけの人々である。
せわしげに時計を睨みながら、自分の乗る旅客機を待っている会社員。
持ちきれぬほどの荷物を抱え、額の汗をハンカチでぬぐう初老の観光客の一団。
遠来の友人を出迎えにきた、精悍でたくましげな若者たち。
わが子を初めての一人旅へと送りだす、少し不安げな顔をした両親……。
彼らのなかには、不思議な運命の糸にあやなされて、たがいにそうとは気づかずに、ふたたびめぐりあう人たちもいるかもしれない。
けれどもほとんどの人々にとって、移ろい流れゆく多くの顔、顔、顔は、やはりこの場の、この一瞬の交錯でしかないだろう。
この人波のなかで意味を持つのは、己とかかわりのある者たちだけだ。それ以外の人々は群像であり、だれも関心や注意を払わない。
この国のどこにでもいそうな、不特定多数の人間たち。
だが、ほんの少し想像すれば、そこにはさまざまな人生が展開されているのがわかる。
彼らは、およそありとあらゆる階層、あらゆる世代であり、それぞれに自分の人生を抱えていた。それは、他人にはあまり意味のないものだったが、そのかわり誰にも侵すことのできないものでもあった。
小さな喜びと苦労と、そして、おそらくこれからも、これまでとたいして変わらぬ人生がつづいていくだろう、というささやかな安心感に満たされた人々の群れ。
……そして、ロビーの片隅には、いっときの別れを惜しむ恋人たちの姿もあった。
「急だなー、こんな時期に」
女は、言葉尻に不機嫌さをにじませようとしたが、うまくいかなかった。
しょせん、彼女にそんな演技は無理なのだ。少なくとも、いま彼女の目の前にいる、愛する婚約者に対しては。
「しかたないよ。うちの大学とH大の医学部とは交流が深くてね。俺の恩師が都合で東京から動けないから、誰か代わりが行かなくちゃならないんだ」
背の高い、メタルフレームの眼鏡をかけたその男は、女をあやすように腕をまわし、薄い肩を抱いた。
女はかすかに身をひねり、軽い拒否の意を示したが、男の手を振りほどくことはしなかった。
「それにしたって。これから式場の人と打ちあわせとか、招待した人の出欠確認とか、いろいろあるのに」
代わりにすこし唇をつきだしてすねてみせる女の長い髪を、男は深い親愛の情をこめて、やさしく撫でてやった。
「勘弁してくれよ。医者の、ましてや外科医の世界なんてのは、師弟関係が幅をきかせる保守的な世界だからな。もうしわけないと思ってるよ」
「……ほんとに?」
「ああ、本当だ」
女はしばらく恋人の顔を見つめていたが、やがて機嫌を直したらしく、にっこりと微笑んだ。
困らせるのはこれくらいにしておこう。やはりこのひとには勝てない。髪を撫でてくる男の手をとり、両手で包み込んで、そっと頬に添える。
彼女をいつも慈しんでくれる感触が、そこにあった。
耳朶をくすぐる指。夜には熱い素肌を伝い、捧げた心をとろかせて、ひとりのおんなにしてくれる男の手。
この、かたくて大きな、とても温かな手が、彼女は大好きだった。
「……ねえ、
「わかってる。毎晩、かならず電話するよ」
ふたりの会話にかぶさるように、ロビーに搭乗案内の声が響いてくる。
『……羽田発、新千歳行き、一六七便にご搭乗のお客さまは、……』
そのアナウンスに男は時計をみて、びっくりしたように眉をあげた。
「やばい、もうあんまり時間がないな。セキュリティ通らないと」
恋人の言葉に、女は少しつまらなそうに男の手を放す。
代わりに、行こうとする男のジャケットの裾を指先でキュッとつまんで、顔をあげた。
そっと目を閉じる。
「なに?」
男がふりむいて、不思議そうに訊ねた。
「いってきますのあいさつ」
女は、目をつむったまま囁いた。
「あ、ああ。……いってきます」
「……そうじゃなくて!」
何のことかわからず、とまどっている男に、女はじれた。……もうっ、いつもこうなんだから。この、人一倍鈍感なところさえなければ、本当に最高のひとなのに。
だが、ようやく思い至ったのか、男は「えぇっ」と声をあげた。
それから、まわりに目をやりつつひそめた声で、
「人が山ほどいるのに、こんなところでできるわけないだろ」
「どうせ誰も見てないわよ。現にあっちのふたりだって」
女の視線を、男は目で追った。ブロンドの髪をした若い男女が、熱烈な抱擁とキスを交わしている。
「あ、あれは外国人だからだな」
「いいじゃない、日本人がやったって」
男は、なおも女と言い争っていたが、やがて「しようがないな」とつぶやくと、こほんと軽く咳払いをした。
それから、あらためて目をつむった女を抱き寄せる。
それでも、キスされるまでにはまた数秒の間があったが、女はわくわくしながら唇に甘い感触を受けた。
世の人よ、浮かれたバカな女だと笑うなら笑えばいい。もしかしたら見ているかもしれない周囲に対して、そう女は思う。
バカップルでもなんでもいい。わたしはそれくらいこの人が好き。愛しい男にキスされるのは、細かいことなんてどうでもよくなるくらいに、とても素敵なことなのだ。
こうして彼の腕に包まれていると、まるで宙を漂うような、たまらなく幸せな気分になれる。
これでもし本当にふたりきりなら、このまますっかり身体じゅうの力を抜いて、男にしっかりと抱きすくめてもらうところだ。
人でいっぱいの大空港のロビーでは、さすがにそこまではできないけれど。
女は、キスが終わると同時に、自分からも身を離した。
いたずらっぽく、けれどとても嬉しそうに微笑む。
「うん、満足した。それじゃ、いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」
男は照れ笑いを浮かべながら、鞄をかかえて急ぎ足で歩きだした。
「気をつけてね」
女も微笑みを浮かべたまま応えると、
まもなく、女の婚約者を乗せた羽田発新千歳行き一六七便は、滑走路をすべりはじめた。
充分にスピードをつけると、機首をぐんと上へ向ける。
ランディングギアが地上を離れ、一六七便は胸を張って、雲ひとつない大空へと飛びたった。
今日は風がほとんどない。大気は湿り、よどんでいる。それなのにこれからまた、あのうだるような暑さのなかへ戻るとなれば、空港へ送迎にきた人々は外に出たとたんに悪態のひとつもつきたくなるだろう。
しかし彼女は、今日の天候を心から歓迎していた。風も雲もなければ、空の旅はとても安全で、快適なものとなるに決まっている。
一六七便は、その持てる力のすべてを尽くして、天の高処へ駆けあがろうとしていた。左へ旋回をはじめながら、しだいにその姿は遠くなっていく。
女は、展望フロアのガラス越しにそれを見守りつつ、最愛のひとの旅の安全を祈った。
「裕文さん、早く帰ってきてね……」
そっとつぶやくと、視線を落とした。左手を胸元まで上げる。
薬指に婚約指輪がはまっていた。女の誕生石の、トルコ石を入れた指輪。
あと二週間でこの指輪は外される。そして代わりに、結婚指輪がはまるのだ。
式場の準備は、まだ最後の詰めが残ってはいるものの、あらかたは終わっている。そう、もうすぐだ。もうすぐあの人との新生活がはじまる。
女は、教会で男に結婚指輪をはめられるところを想像して、高鳴ってくる胸に幸せそうに頬をゆるめた。
すでに見つけてあるふたりだけの新居では、あの人のために毎日美味しい料理を作ってあげよう。部屋と自分も、あの人のために毎日磨き上げて。夜には、彼だけに許した肌を、たくさん愛してもらって。
そしていつか、ふたりの間に、新しい命を。……このおなかに、わたしたちふたりの子を宿して……。
バラ色の新婚生活をうっとりと夢想している自分に気がつき、女は頬を紅潮させた。デレデレとゆるんだ表情を誰かに見られやしなかったろうかと、ちらちら周りの様子をうかがう。
だが、彼らはみな窓の外へ目を向けていた。自分が見送る相手の搭乗した機体を見ているのだ。
誰の目にもとまらずに済んだらしいことに、女はほっと胸をなで下ろした。
照れ隠しに、誰にも聞こえない小さな声でウエディングマーチを口ずさみながら、窓から離れて歩きだす。
直後、今まで無風状態だった空港に、とつぜん風が吹きはじめた。
そして数秒と待たず、その風は一挙に爆発的な力をもって、空港施設に襲いかかってきた。車両は最初横すべりし、すぐにふわりと浮き上がって横転した。格納庫近くの作業員は、木の葉のように風にさらわれ、地面に叩きつけられ、吹き飛ばされてすぐに見えなくなった。ほぼ満杯の乗客を乗せ、着陸寸前だったボーイング七四七型機は、巨大な風の奔流に胴体をねじられ、フラップをうばわれ、失速し、滑走路の手前にある、海と陸との段差にギアを切断されて、大地に激突した。
ドン! という衝撃とともに、展望フロアの窓ガラスに大きな亀裂が走り、女はわけもわからず、とっさに床へ伏せた。とたんに派手な音をたててガラスが割れ飛び、破片が烈風にのって、フロアにいる人々を横殴りに襲った。人々は風に足をすくわれ、突き刺さる破片に悲鳴をあげた。
そしてもちろん、この暴風は一六七便にとってまったく予測不可能の、致命的な災厄だった。翼下の空気の流れが安定していない、もっとも機体の制御が難しい離陸時に、それは直撃した。一六七便が己の支えとすべく作りだそうとした揚力はあっという間にもぎ取られ、大量のジェット燃料と多数の乗客を乗せた巨体は、単なる金属の塊と化した。
そして、女は見た。
失速した一六七便が、東京湾へ墜落していくのを。
それはまるで、スローモーションのようだった。わずか数秒の時間が、女にとっては永劫に近い、地獄の責め苦だった。
「いや……」
一六七便は海面に叩きつけられ、つぎの瞬間目もくらむような大爆発が起こった。空港からそう遠くない東京湾の海上が、一瞬にして紅蓮の炎に包まれ、あたり一面を真っ赤に染めあげた。
猛烈な炎の壁が、無情にもたちのぼり、天を焼き焦がしていく。
それが瞳に飛び込んだとき、最後の細い糸がふっつりと切れ、女の、理性も、意識も、何もかもが、まるでヒューズがはじけるように、いっせいに吹っ飛んだ。
「いやあああああああああーーーーーっ!!」
裂けんばかりの絶叫を喉奥からほとばしらせ、女は、まるで狂人のように、泣き叫びつづけた……。
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