第24話 ビヨンド
舷側の艦内通路をブリッジへむかっていたベスティアは、窓外から光が差し込んでくるのを見てとった。
粒子海洋をはしる淡い光とは明らかにちがう、つよい明白色の光だ。それが艦首のほうから急激につよまり、粒子海洋の大気へ乱反射して、あたりを白く染めている。
「なんだ?」
彼女は、思わず窓辺へ駆け寄った。
刹那、光はまばゆい輝きに変じ、と同時に大砲を撃ったような物凄い爆音が艦外から轟き渡った。すぐ横に雷が落ちたと思えるほどの、百万トンの煉瓦を大地へ叩きつけるような音だ。
アルブクークの巨大な艦体が、ゴゴンと微震して、しっかり固定されているはずの舷窓が、がたがた音をたてた。
彼女は愕然とした。この現象は、彼女のよく知っているものだったからだ。
異常に一極へ集中されたエネルギーが、稼働状態に入って超高温を発生させる。それが粒子海洋の大気をプラズマ化し、急激に熱せられた大気が瞬時に膨張して、巨大な爆音を発する――だが、その元となるエネルギーは。
「馬鹿な! 誰が破砕砲を動かしている!」
ブリッジに連絡を取ろうと、ベスティアは周囲を見まわし、手近な艦内通話機を捜した。
しかし突然、爆発音とともに艦がはげしく振動して、彼女は床へ投げだされた。
同時に停電して、あたりは闇に閉ざされた。
「くっ。どこからか、攻撃されているのか?」
床へ這いつくばったまま、ベスティアは舌打ちした。この区画への送電ケーブルが切断されたか、それとも艦の電源が破壊されたのか? とにかく、状況がつかめない。侵入者はどうしたのだ?
窓の外が再度発光し、爆音が轟いた。やはり空間破砕砲だ。自分の命令もでていないのに、勝手にどこかへ砲撃している。
起き上がった彼女は、暗闇でもまったく影響を受けない眼で艦内通話機を見つけだすと、駆け寄って受話器を取り上げた。だが、フックから外せば自動的にモニターが点灯するはずなのに、なんの反応もない。どのボタンを押しても、ノイズひとつ返ってこなかった。どうやら、通話機への電力供給もストップしてしまったらしい。
「くそ、ネルガめ、いったいどうしたと――」
ドドーン!
艦が、さっきとは比べものにならないほどの激震に見舞われた。ベスティアは脚を取られ、壁のあいだを数往復して散々に叩きつけられた。
床へ倒れ伏した彼女は、うめきながら、これはなにごとが起きたのかと、打ちつけた頭を振った。
気がつくと、通路の一方から火の手があがっている。すぐ近くの区画に、直撃弾を受けたのだ。
もしこれが、本当に敵の攻撃ならば。
「まさか……」
みたび、轟音とともに窓外から光が走った。しばらく間をおいてから、艦に攻撃が着弾した。
さっきよりは遠いのか、ふっとばされはしなかったが、ベスティアは、ようやく真相を理解した。
「リーチェ・レントゥス!!」
ベスティアは跳ね起きた。身体が、怒りでかっと燃えあがる。
もう間違いない。これは、空間破砕砲のエネルギーが座標転移して、アルブクークへ命中しているのだ。
リーチェが仕掛けているのだ!
「おのれぇ、あたしにいっぱい食わせたってわけかい!」
異様に燃え上がる瞳で吠えると、ベスティアは怒りにまかせて、床へ拳を叩きつけた。
合金製の床板が、あっさりとぶち抜かれた。
「最後までやらせやしないよ、リーチェ!」
ベスティアは、艦首へと走りだした。
何発目か、あるいは十何発目かの空間破砕攻撃が、アルブクークの甲板へ着弾した。ミズンマストが根元から吹き飛ばされ、めきめきと音をたてて倒れていった。
すでに艦全体が炎に包まれ、全艦に発令されている非常警報が、まるでアルブクークの断末魔であるかのように、粒子海洋のうすい大気にこだましている。
吹き上がる炎に赤く照り映える艦の姿を、ネルガは艦長席に身を沈めたまま、ブリッジの窓から眺めていた。
炎のゆらめきに染まった彼女の容貌は、天上の絵画のように美しく、艶めかしくさえあった。小さな口をそっと開いて、唾液に濡れた舌をうごめかせ、唇をねっとりと舐めていく。
「美しい……」
たえず形を変え、ゆらめきつづける真っ赤な炎を一瞬でも見逃したくないのか、彼女はまばたきひとつせず、ひたすら艦が焼けていく光景を見つめた。
突然、ブリッジのドアに、何かがぶつかる音がした。
ネルガは、ふりかえらなかった。
直後、ドアから三本の細いロッドが突き抜けた。変幻自在に折れまがり、ドアを斬り裂いてゆく。
やがて人が通れるほどの穴が開き、ブリッジにひとりの人影が入ってくる。
ネルガは、ようやく、ゆっくりと首をめぐらせて、その人物を確認した。
ここまでずっと走ってきたのだろう。大きく肩で息をして、リーチェのサーベルをもった女が、そこにいた。
防護服を返り血で染め、挑戦的な瞳でネルガをにらみあげている。
ネルガは、悠然とたちあがった。
「あなた、ネルガね」
汗をしたたらせながら、
「ほう。わたしの名を知っているのか……リーチェからでもきいたか?」
ネルガはかすかに目を細め、貴音を値踏みするように観察した。
黒髪の、地球人の女は、自分へむけて油断なくサーベルをかまえている。こちらの挙動にすぐ反応できるよう少し身をかがめ、艦長席から一歩一歩、こちらがブリッジの床へと降りていくのを見つめている。
なかなかに、鋭い瞳だ。
「地球人にしては、やるではないか」
侵入者が自分の期待どおりの相手であったことに、ネルガは楽しくなった。
「いい目をしている。……わたしとおなじ、殺すことを是とする者の目だ」
床へ降り立ち、ネルガは貴音へ向きなおった。美しい銀色の髪をざわつかせ、舌舐めずりをして、貴音の様子をうかがう。
「あなたたちと一緒にしないで! あなたたちは、ただの人殺しよ!」
貴音は吐き捨てた。
「冗談じゃないわ! あなたたちのために、どれだけ多くの人が死んでいったと思うの!」
叫んでから、貴音はブリッジを満たしている異様な臭いに気がついた。むっとするような、汚物のような臭い。しかし、これは地球でよくかいだ――
(血の匂い!?)
視線を転じて、はっとした。ブリッジの窓際にいくつか、何かがすっぱりと斬り裂かれて転がっていた。付近の床が、赤黒く汚れている。
それらはすべて、オペレータたちの残骸だった。
「関心がないな、そんなことは。わたしは、わたしの生きたいように生きるだけだ」
「なんですって?」
「見ろ、あの紅蓮の炎を」
ネルガは、右手を窓へふり、貴音に巨大な炎の瀑布を示した。
「じつに美しいではないか。まったく、この世に赤ほど美しい色はない。炎の赤、血の赤。それがこの世のすべてだ、この世の真理だ! あの美しく舞う炎が、わたしの心を甘くとろかしてくれる。熱く新鮮な血潮が、この身をやさしく包み、愛撫してくれる。真紅こそが、わたしをより鮮やかに彩り、心地よいやすらぎを与えてくれるのだ」
感触を思いだしたのか、ネルガは恍惚とした表情になった。
「いいぞ、赤い血潮を全身に受けとめるのは。獲物の体から、ねっとりとした熱い血が吹きだすのは、とても気持ちがいいぞ。必死で抵抗する獲物を、ズタズタに切り裂いてやるのは、ぞくぞくするほど気持ちがいいぞ……それを好んで拒否するなど、なんと愚かしい、なんと無知な……。ましてや、お前たちのように無価値な下等生物が、せめてそのように高貴な我らのために役に立つのだ。これこそ天の配剤、少しは感謝したらどうだ?」
ネルガは、あっさりといってのけた。
口元には残忍な笑みが浮かび、言葉には慈愛のひとかけらも存在しなかった。
貴音は、絶句した。
「く……狂ってるわ、あなた……!」
とつぜん、ネルガは笑いだした。
「ハハハハ……だからお前たちは下等なのだ。強者が弱者を征服する。じつに明快な自然の理ではないか。弱いものに生きる価値などない。あるのは、すべてを焼き尽くす炎と、血と、お前たち下等生物の断末魔だけだ。ここには、炎と血がそろっている。足りないのは、あとひとつだけだな……」
ネルガの髪のざわつきが激しくなっていく。
貴音は、サーベルの柄を握る手に力をこめた。
「生きて還れると思うな、地球人……!」
いい終えた瞬間、ネルガの銀髪がいくつもの束になり、一気に数メートルものびた。三方から、凄まじい速さで白銀の刃が振り降ろされる! 貴音は横っ飛びにとんで躱した。髪がブリッジの床へぶつかり、火花が散った。
外したとわかった瞬間、ネルガは素早く髪の方向を転じて、横へ薙いだ。人間の体など、これでいくらでも輪切りにできる。
だが、いまやサーベルは貴音の意志に自在に反応した。攻撃の来るほうへサーベルを向ける!
ザッ!
裂けた刀身が、目にもとまらぬ速さで盾を編む。飛んできたネルガの髪が、ガツン! と激突し、弾き返された。
「くっ!」
衝撃を支えきれず、貴音は体を流された。
「ほお……!」
だがネルガは、必殺の攻撃が凌がれたことに目を見張った。
彼女の銀髪の攻撃を凌いだものは、これまでにひとりもいなかったのだ。
「なるほど。ここまで攻め込むだけのことはある……!」
ネルガの背すじを、心地よい緊張感が走り抜けた。それは、久しく無かった感覚だった。上等の獲物を前にしたハンターが感じる、闘争心と征服欲の入り交じった高揚感とでもいおうか。
おなじ地球人でも、地表で皆殺しにしたあの情けない戦士どもより、よほど楽しめそうな相手だ。
「うれしいぞ、お前のような奴が獲物にいたとは……!」
ネルガは、サーベルを持ちなおして挑戦的に睨みつけてくる貴音を、完膚無きまでに、肉体の原形もとどめぬほどにズタズタに斬り裂き、たたき潰してしまいたくなった。
「お前は、本気で殺してやろう。お前の血なら、心がしびれるほど熱く、魂をとろかすような甘美な味がするにちがいない」
髪がゆらゆらとうごめいた。こんな気の強い獲物は初めてだ。さぞかし、すばらしい断末魔を放ってくれるだろう。ネルガは笑いの衝動を押さえることができなかった。
「ハアッ!」
攻撃! ザッ、と散った銀の髪が、艦を焼く炎に照り映え、オレンジ色にきらめく。幻想的な輝き、美しい光景。敵を惑わし、肉体を切り裂く美しさだ。
「くっ!」
貴音は後ろへ跳んだ。紙一重で避ける。
(速い……!)
冷汗が伝った。防護服の支援システムは性能の限界にきている。いま以上の速さは実現できまい。これでは互角以下だ。
だが、ネルガの攻撃のスピードはどんどん速くなっていった。よけきれない攻撃をサーベルで受ける。サーベルが瞬時に折れまがって盾を作り、鉄さえ斬り裂くネルガの髪を抑える。しかし、それもいつまで保つか。
ネルガの髪がひとすじ、貴音の頬をかすめた。血が飛んだ。
「くっ!」
貴音は、奥歯を噛み締めた。これ以上躱しきることは不可能だ。一気に接近戦をしかけ、ネルガの急所を狙うしかない。胸か、首か。だが、変幻自在に動きまわる銀髪の攻撃をかいくぐって、ネルガへ肉薄することができるだろうか?
(やるしかない!)
左から銀の刃! 貴音は右へ跳んでやり過ごし、艦長席のタラップを盾にした。とたんに四方から新たな攻撃が殺到し、艦長席を合金製のタラップごとばらばらに断ち割った。
貴音は驚き、飛びすさってよけた。想像を絶する破壊力だ。
「ハハハハ、どうした! 逃げまわるしか能がないのか!」
ネルガの、ひどく楽しそうな声が耳朶を打つ。髪の束がしない、真上から降り注ぐ!
「くうっ!」
貴音は意を決して、ネルガのもとへ飛び込んだ。刀身をひとつにまとめ、すかさず貴音を薙ぎ払おうと一閃してきた髪を斬り飛ばす。
「なにっ……!」
ネルガの顔に驚愕がはしる。貴音はサーベルを下から打ち込んだ。切っ先が相手の喉元へ真っすぐに突き込まれていく。避ける余地はない。
やった! 貴音は確信した。
だが、ネルガは突然、にやりと笑った。
表情の変化に貴音がはっとした刹那、サーベルの動きがとまった。
貴音が止めたわけではない。サーベル自体が、その場に固定してしまったのだ。あと数ミリでネルガの喉を突き破れるというのに、まったく動かない。
貴音は、あわてて下を見た。
彼女が、サーベルを突き込もうとしたさらに下から、ネルガの髪がのびていた。
サーベルの刀身にしっかりと絡みつき、いくら力を込めても、びくともしない。
使用者の目に敵が映ってさえいれば、敵対意識に反応して攻撃・防御行動をとるサーベルも、いったんがんじがらめに封じられてしまっては、ただの棒切れにすぎなかった。
貴音は、ネルガの喉元ばかりを見ていて、相手の反撃を一瞬失念してしまったのだ。
「勝負あったな」
ネルガは宣言した。貴音はサーベルを引き抜こうとしたが、そのときにはもうサーベルは奪われ、宙高く放り投げられていた。
丸腰になった貴音の腹へ、ネルガの蹴りがめり込んだ。
「ぐっ!」
貴音は後ろへふっとばされ、ブリッジの壁にたたきつけられた。無防備な後頭部を壁に強打し、ふっと意識が遠くなる。彼女は、ずるずると床へ崩れていった。
ネルガは白い喉を震わせ、楽しそうに笑うと、貴音へ歩み寄った。襟首を捕まえてねじあげ、体に力の入らぬ貴音をひきずりあげて、頬の切傷へ唇を寄せる。
そのまま、ぬめぬめとした生温かい舌を、貴音の傷口へねっとりと這わせていく。
貴音は、猛烈な嫌悪感に全身総毛立った。
ネルガは、したたる赤い血を、小さな舌でいとおしそうに何度も舐めあげた。さらに舌先に唾液を乗せ、貴音の頬へのばして湿り気を補いつつ、赤い最後の一滴までも、ていねいに舐め取っていく。
「くく……」
己の唾液ごと、舐め取った血をこくりと嚥下して、かすかに含み笑う。
「なんと甘美な味だ……すばらしいな、お前は。思ったとおり、とても美味しい……ほら、ご褒美だ」
ネルガは、おもむろに貴音の首へ両手を巻きつけ、ゆっくりと絞めはじめた。頭上高く、獲物の体を捧げあげていく。貴音の爪先が、床から離れた。
貴音は、ひきはがそうと喉元へ手をやり、必死にもがいた。だが、ネルガの手は鉄でできているのか、指を手と首の隙間へねじ込むことすらかなわなかった。
ネルガは、獲物の最期のあがきを楽しげに見つめながら、さらに力をこめた。
「最後のとどめは、わたしのこの手で差してやる。お前は幸せものだ。わたしがこれほど手間をかけて殺したものは、そうはいない。お前はいま、下等生物としては最高の栄誉に身を浴しているのだぞ」
この区画はまだ電源が生きているのだろう、照明に照らされた通路の最後の角を曲がり、ベスティアは、その先にある砲撃管制室を見た。思ったとおり、ドアが破られている。
それを確認したとき、また空間破砕砲が発射される音が轟いた。これで何発目だろうか?
「くそっ」
呪咀の文句を吐いてから、ベスティアは砲撃管制室へ躍り込んだ。
管制室は無人だった。
いや。コンソールの足元に、リーチェが横たわっていた。
「なに!?」
駆け寄ってから、ベスティアは目を見張った。リーチェは、作業服の腹部を血で染め、絶命している。
ベスティアは即座に目を転じ、砲撃コントロールのコンソールパネルを見た。やはり稼働状態になっている。
パネルのモニターは、空間破砕砲がフルオートで作動していることを告げていた。
「死ぬ間際に、セットしたということかっ」
ベスティアは怒りに燃える目をして吐き捨て、それからコンソールへ指を走らせた。なんとしてもシステムを停止させなければ! だが、完全に“スクード”の制御下に置かれたシステムは、ベスティアの命令をまったく受けつけない。
「ウイルスか! おのれっ」
ベスティアは、壁の艦内通話機へ飛びついた。
「ブリッジ! 誰でもいい、応えろ! こちら砲撃管制室! すぐにスタッフをこちらへ送れ! リーチェのプログラムの解除を――」
――だが、ベスティアが、そこまでいった瞬間。
“スクード”の放った、最後の空間破砕エネルギーが、アルブクークへ舞い戻ってきた。
オペレータ席のコンソールモニターから、突然ベスティアの映像と声が飛びだし、ネルガは一瞬そちらへ気が散った。
直後、艦を襲った激震に、ネルガと貴音はふっとばされていた。ネルガは床を転がって、正面の窓へ叩きつけられ、貴音は一度天井まで跳ねあげられてから、床へ墜落した。
防護服と気密バリアがなければ、即死したろう。
「うぅ……」
全身を打撲した痛みに、貴音はうめいた。いったい何が起きたのかと、外の光景を見やる。
いまや、窓の外は火炎地獄だった。マストがすべてへし折れてしまったため、何が起きたのか、貴音は、はっきりと目にすることができた。
最後の空間破砕攻撃は、艦首から五〇メートルほど手前に着弾していた。艦の芯央部に命中したのだろう、粉々に砕け散った各舷の装甲が周囲へばらまかれ、激しく爆発をくりかえしている。
さらに閃光がきらめき、たったいま着弾したあたりが、大爆発を起こした。
つづいて展開する光景に、貴音はわが目をうたがった。
艦が、ふたつに折れていくのだ。
爆発の衝撃で、竜骨までが分断されてしまったのか。アルブクークの巨大な艦体が、縦に折れまがり、艦首がずるずると上へすべって、艦の断面が明らかになっていくのである。
破壊された芯央部の、粉微塵になった区画の隔壁の様子まで、手に取るようにわかった。
貴音は、茫然とその光景を見つめた。信じられない光景だった。
だが、ネルガの反応はそれ以上だった。
ネルガはもういちど、オペレータ席のモニターを見た。
そこには、すでにベスティアの映像も声もなかった。無意味な砂嵐が映っているだけだ。
ふたたび窓外を見やる。砲撃管制室のあったあたりは、完全に破壊されており、艦首ももう艦から切り離されて、粒子海洋へただよい流れようとしていた。
「そ……そんな馬鹿な!!」
ネルガは、窓へしがみついた。まったくのパニック状態だった。彼女にとって、もっとも近しく、何度も愛しあった姉が。深い情欲と蜜に溺れ、互いのしなやかな肉体をあれほど貪りあったいとしい姉が!
「お姉さま! いったいどうしたというのです!!」
ネルガは絶叫した。もはや彼女の頭のなかには、貴音のことも侵入者のこともなく、ましてやリーチェの裏切りのことなど消し飛んでいた。ただ、窓辺へ身を張りつけるようにして、流れていく艦首を見、茫然と立ち尽くすだけである。
貴音は、疲れきって荒い息を吐きながら、しばらくそんなネルガを見つめていたが、やがて相手が、自分の存在をまったく忘れ去っていることに気づくと、周囲の床を見まわした。
(どこへ!?)視線を転ずる、(あった!)
痛む足を引きずるようにして飛びつき、夢中でつかみ取った。リーチェのサーベルを!
(おねがい、当たって!)
祈りと絶叫。最後の力、渾身の力をふりしぼり、貴音はサーベルをネルガへ投げつけた。
ネルガは、はっと振り返った。サーベルは紙一重でそれ、窓へ突き刺さった。
「!」
「貴様ぁ!! 八つ裂きにしてや――!」
全身から激烈な殺意をほとばしらせ、ネルガが死の銀髪を放った刹那……サーベルの突き刺さった窓の強化ガラスが、バシンと音をたてて割れとんだ。
とたんにブリッジ内の空気が、〇・六気圧の粒子海洋の大気へ、凄まじい勢いで吹きだした。ブリッジにわずか数秒、暴風が荒れ狂う。
ネルガの体は、膨大な風の奔流にあおられ、ほとんど何の抵抗もできないままに――まるで、空間破砕攻撃によって、虚しく粒子海洋へ散っていったものたちの魂に吸い寄せられたかのように――瞬間的に艦外へ吸いだされた。
ネルガは驚愕し、銀髪をのばして、窓枠へからみつかせようとした。
だが、髪が窓枠へたどりつく寸前、ブリッジの急減圧を感知したセンサーが、割れた窓をシャッターで閉じた。
一瞬、髪はシャッターを破ろうとしたが、もう届かなかった。
ネルガの体は、勢いのついたまま、ブリッジの外へとただよい流れていった。
その、なんの防護装備もつけていない彼女に、粒子流が無慈悲に襲いかかった。
貴音の見ている前で、ネルガのまとった赤い衣装が、分解していった。
ボディラインを蠱惑的に浮き上がらせていた布地が散りぢりになる。一瞬、抜けるように白く美しい裸身があらわれ、炎の赤に照り映えて、幻想的な艶やかさを醸し出した。
それから、ネルガの肌が見るまに充血し、血を吹きあげた。綺麗な銀色の髪がばらばらになり、飛び散っていく。ネルガは、苦痛に顔をゆがめ、体をはげしく縮こまらせた。だが、粒子流はネルガを容赦なく攻撃し、皮膚を溶かし、肉を裂いていった。
貴音は、堪えきれず目をつむった。
つぎに貴音が目を開けたとき。……ネルガのいたあたりには、赤い残滓が舞っているだけであった。
それも、粒子流に撹拌され、逆巻く爆炎にあぶられて、すぐに散りぢりになっていった。
「…………」
貴音は、茫然と立ちすくんだまま、ネルガが生きながらに分解されていった空間を見つめた。
多くの人々を無慈悲に惨殺し、殺すことを無常の歓びとしていたネルガ。
彼女はいま、自分が殺していったものたちのいる『世界』へと、旅立っていったのだ。
「終わった……」
貴音は、我知らずつぶやいていた。
「終わったんだ……」
両脚から力が抜けて、その場へひざまずく。
なにかが、身体からすうっと抜けていったような気がした。自分を、これまで支えつづけた最後の糸が、ふっつりと切れたようだった。
「…………」
痴れてしまったように呆けた表情で、荒れ狂う巨大な炎の嵐をぼんやりと眺める。
予想していた、一片の感動も歓びも、いっかな沸きあがってはこなかった。
時は止まってしまったのだろうか。今はなんの震動もなく、戦いの喧騒もなく、誰の足音も響かず、自分の息遣いさえも聞こえなかった。何もかもが活動を停止し、ブリッジを包む空気は血の匂いによどんでいた。
そのなかで、ただ炎だけが、嬉々として身をくねらせ、はげしく逆巻き、踊り狂っている。
いつも見ていた悪夢とおなじく、すべては炎に焼かれて還るのだ。
とつぜん、静寂を破って爆発音が轟き、ブリッジのドアが吹きとんだ。炎がいきおいよく吹き込んでくる。
「きゃあっ!」
爆風にとばされ、貴音は壁へ身を打ちつけた。麻痺していた身体の感覚がよみがえり、苦痛のうめきをもらす。
顔をしかめながら、あわててドアを見ると、外の通路はすでに炎に包まれていた。太い火柱と煙がドアからはげしく吹き込み、ブリッジの壁や天井を加熱しはじめていた。
あの通路を通りぬけて、揚陸艇まで戻らなければならないが、防護服の耐火能力では、おそらく持ち堪えられないだろう。
気がつくと、オペレータ席のコンソールも、スパークを放ち、火を噴きつつあった。
貴音は、まるでほうけたように、それらの光景を見つめた。不思議と、あまりたいしたことではないような気がした。
視線を、窓へ戻した。
貴音は、ゆっくりとうつむいた。
それから、ふと思いついて、血で汚れた防護服のグラブを外した。
あらわになった彼女の手は、傷だらけだった。
地球での長い闘い。機械作業のために油がしみつき、幾度洗っても黒ずみが落ちなくなってしまった肌。すっかりいたみ、がさついてしまった肌。
貴音は無言のまま、変わり果てた手のひらを見つめていたが、やがて左手だけ、甲を上へむけると、薬指に目を落とした。
そこには、あれから、けっして外さなかった婚約指輪がはまっていた。
あのとき、いまは亡い羽田国際空港のロビーのなかで、貴音は指輪を見つめながら、あと二週間もすれば、この指輪は結婚指輪に変わるのだと、ずっと夢見ていた裕文との暖かい家庭が作れるのだと、まるで何も知らない乙女のように、幸せと期待に胸を震わせた。
あれから九ヵ月。指輪は変わらなかった。美しかったトルコ石には、ひとつの大きな傷と、無数の小さな傷がつき、泥と油にうす汚れ、輝きはとうの昔に失われていた。
まるで果たされなかった約束のように。
かなえられなかった夢のように。
まだ、彼女の手が柔らかく白く、すべらかだった頃、裕文はあたたかな手を彼女の頬へ寄せ、やさしく撫でてくれた。太い指で彼女の髪をすき、首筋へあてがって引き寄せ、甘く口づけしてくれた。
あの、かたくて大きな、とてもあたたかな手が、彼女は大好きだった。
「
貴音は、指輪へささやいた。
「わたし……昔とは、ずいぶんちがってしまったけれど……それでも、まだ、愛してくれる……?」
――まもなく、ブリッジは爆発の煙と炎につつまれ、貴音の姿は、すぐに見えなくなった。
“スクード”がアルブクークへと送り返した空間破砕エネルギーは、その全体量に比べれば、微々たるものにすぎなかった。
だが、最終的に一二発の直撃を受けたアルブクークは、物理防御不能の攻撃に大破し、全艦を破壊と、膨大な炎とに焼き焦がされ、やがてそれはエンジンルームに達して凄まじい大爆発を起こした。
巨大な光芒と爆風を産んでアルブクークは轟沈し、その余波は粒子海洋の大気を大きく震わせて、一時は粒子流さえも撹拌されて、流れを乱した。
だが、ゆるやかに光がうすれてゆくにつれ、吹き散らされた大気はふたたび寄り集まり、粒子流は、いったん追いだされたぶん怒りをもって吹き荒れ、この虚空に浮かぶ、かつての建造物の残骸を分解して流し去っていった……。
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