第16話 敵の艦《ふね》へ・その2
「どうなってるの、これ?」
コンピュータ室。彼女はリーチェの助手として、このところ手の空いたときはずっと“スクード”の書き替え作業を手伝っていた。
いま、この部屋にリーチェはいない。一週間つづいた書き替え作業も、三〇分ほど前に完了し、リーチェはとうに退室していた。
「ここ、片しといて。それから、コンピュータ内のプログラムは全部破棄するんだ。記憶素子に落としたし、もう用はないよ」
リーチェは退室のさいにそう言い残し、結衣は「はい」と元気に応えた。
けれども。実のところ結衣は、興味しんしんだったのだ。
この、プログラム“スクード”に。
彼女が書き替えに携わっていたのは、スクードを構成するプログラムのうち、一部のモジュール群だけで、これが全体としてどう走るのか、何を行なうものなのか、結衣にはさっぱりわからなかった。リーチェも教えてくれなかったし。
いったん火のついた好奇心は、容易に鎮めることはできない。
それに、このコンピュータシステムも、いちど自分の手だけで動かしてみたい。
「ちょっとくらい、いいよね。コンピュータに触れるのって、ほんとに久しぶりだったんだから」
結衣は、ぺろっと悪戯っぽく舌をだすと、抹消するはずだったプログラムをシミュレート回路で走らせてみたのだ。
が、しかしこれは……。
結衣の目は、眼前のホログラム画像に注がれていた。
線画で描かれ、たくさんのマス目に区切られた立方体。ホログラム投影装置を介して、コンピュータが示した仮想空間だ。
切り取られた幻影のなかで、一週間かかって修正し終えた“スクード”のシミュレートが行なわれていく。
立方体の中心部のマス目が、かすかにたわんでいる。提示された空間の位相が歪んでいるのだ。
幻影の外に浮かんだ数値が、歪みを生むエネルギーの強さを表す。数値はどんどん跳ね上がる。一〇〇〇……四〇〇〇……七五〇〇……。
エネルギーがぐんぐん上昇する。にもかかわらず、たわみはそれ以上大きくならない。軽い重力偏位が起こる程度である。何かの力場に封じられているのだろうか? プログラムの前提条件にあわせて起動しているだけなので、判断がつかない。
とつぜん、エネルギーが消失した。
「え?」
結衣の驚きの声。数値はゼロだ……いや、その下に別の数値があらわれた。
最初のものと、ほぼ同じ値である。
立方体の片隅が、大きく震えた。マス目の形が崩れてしまうほどの、激しい揺れ。
ちょっと待って……結衣は思考をめぐらせた。
この立方体は、ある空間を表すものだ。だから、それが崩壊するほどの揺れというのは、つまり……。
結衣は、はっと息を呑んだ。
(これって……このモデルって、まさか!?)
と、ふいに、ゼロになっていた初めの数値が跳ねた。
たいした数値ではない。ほんの五〇か、そこらだ。下の数値が、そのぶん減っていた。
中心部のマス目が、それに合わせて激しく震えている。この程度のエネルギー量で? さっきは、八〇〇〇を超える数値でありながら、ほとんど歪曲は起きなかったのに。
「エネルギーの位相転移? 転移が、連続して起こってるんだわ……」
まるで、器に注がれた水面にできる波紋のように。――撃ち放たれた起点へと、跳ね返ってくる力。
結衣は、タッチキーに指を走らせた。“スクード”の再シミュレーションにかかる。ただし、今度シミュレートするのはメインの現象画像のみではなく、おそらくはエネルギーの位相転移にかかわる全理論画像だ。
この、エネルギーの転移現象が“スクード”の働きによるものなら、すべてのプログラムを目に見える形でシミュレートすれば、何かわかるかもしれない。
準備完了。さて、もう一度……。
「……あれ?」
結衣は、とまどいの声をあげた。
画像が表れてこない。それどころか、今まで浮かんでいた立方体ホログラムさえ消えてしまった。
「変ね……うまく立ち上がらなかったのかな」
シミュレート回路を、チェックしてみた。だが、異常はない。……ひょっとすると、プログラムの再投入時に電磁ノイズでも入って、誤動作したの?
結衣は、“スクード”の主プログラムを別のモニターに呼び出してみた。どこかに障害が――
「あっ!?」
結衣はモニターをのぞいて、絶句した。
壊れていく――プログラム“スクード”の演算プログラムが、壊れていく!
たった今まで整然と並んでいた数列や文字列が、無差別に入れ替わり、数値が狂い、しだいに何の意味も為さない、ただの記号の羅列になっていく。
しばしそのありさまを見つめていた結衣は、あっと口元に手をあてた。
「対クラック防壁!?」
そんな馬鹿な!――結衣はパニックに陥りながら、必死に指を走らせた。なんとか防壁をくぐって、プログラムの内部に入らないと!
自分の対応の甘さに、結衣は腹を立てた。
(いつのまにか、気やすく話しあえるようになってたから、気が抜けてた!)
まったく、なんてことだろう。この“スクード”がどういうものかは知らないが、リーチェにとって重要なプログラムなら、なんらかの防護策を講じていないはずがないではないか。……それにしても、不正操作に対してプログラム本体を自壊させるとは、思い切ったことをする。
結衣は必死にキーを叩きながら、頭のすみで考えた。
(そうまでして機密を守りたいプログラムって、いったいなんなの!?)
だが、もう間に合わなかった。モニターのなかのプログラムは、いまや単なるバグの塊だった。
まもなく、モニターは完全に沈黙した。
画面は真っ暗だ。もう、なんの映像も映さない。
「……どういうことなの……?」
結衣は、しばし茫然と、すべてが終わったモニターを見つめていた。
――このとき、結衣は気づいていなかった。
“スクード”が、プログラムの前提条件……ある特定のシステムに対してしか、正常に反応しないよう、作られていることに。
引き金を引いた。――だが。
「あなた……!」
「悪いが、撃たせるわけにはいかんな」
いつのまに、背後についたのか。
薬莢にたたき込まれるはずの撃芯の動きを、太い指が阻んでいる。これでは、いくら引き金を引いても弾丸は発射できない。
「は、離して……離しなさい……!」
「冗談だろ。意地でも離すわけにはいかない」
貴音は、丈昭の手を振りほどこうとして激しくもがいた。撃芯の食い込んだ丈昭の指から、血がしたたっていく。だが、丈昭はかまわず手に力を加え、銃の動きを封じた。
貴音が、はっと通路の先を見た。
リーチェの姿が、視界から消えていく。
「……!」
ぎりっと、奥歯を噛んだ。
丈昭が、抵抗しなくなった貴音から拳銃をもぎ取った。
「こいつは
飛んできた貴音のパンチを、丈昭は肩で受けとめた。
「護身課程で実射訓練くらい受けたわよ! あなたに……あなたに、わたしの気持ちがわかるっていうの!」
「わからんさ」
「……なんですって?」
「俺は、あんたじゃないからな。あんたがどれほど
貴音は、むっとして丈昭をにらみつけた。なんてくだらない理屈!
「臆病者の屁理屈なんて、聞きたくもないわ! 兵士のくせに……なにが戦車長よ! たいした指揮官もいたものね!」
とつぜん、貴音は丈昭の襟元をつかんだ。
「あなた、私掠軍が憎くないの。あいつらのやったことを、そんなにあっさり――」
「憎くないとはいわん。……あんたほどではないかもしれんが」
丈昭は、貴音の瞳をまっすぐに見返した。
「何があったんだ? 話せよ。……攻撃で、だれか大事な人間が死んだのか?」
その言葉に、貴音は、と胸をつかれたような顔をした。
苦しげな、泣きだしそうな……張りつめた糸が、ふっつりと切れてしまいそうな表情を。
けれども、その前に貴音は顔を伏せていた。見られたくないかのように。
丈昭の襟元をつかんでいた手が、ゆっくりと離れる。
「……あなたの……」
かすかに震える、消え入りそうな声。
「あなたの知ったことじゃ、ないわ」
ようやくそれだけつぶやくと、貴音は体をかわして、狭い通路を歩いていった。
その悄然とした後ろ姿を、丈昭はため息をつきながら見送る。
「可愛げのない女だな……けっこう美人なのにな」
どうして、ああもかたくななんだ?……と、丈昭は頭を掻きながら思った。あれは相当無理をしている。今にも壊れてしまいそうなほどに。
(あの調子じゃ、そのうちツブれちまうぞ。……もう少し当たりが穏やかなら、やってみたい女なんだが)
貴音の細腰と、揺れる形の良い尻を見つめて、丈昭は軽く鼻を鳴らした。
俗っぽいやつだ、と自分でも思う。この戦争がつづくかぎり、いつくたばるか、知れたものじゃないのに。
実際のところ、丈昭は、つねに死の覚悟を決めている数少ない自衛官のひとりだった。
戦時において、自身の死を想定しない兵士はいないだろう。だが、想定することと、覚悟のあることとは、まったく次元がちがう。その意味では、彼は優秀な自衛官だった。
だからこそ……彼は、失うものにあまりこだわらなかった。
身のまわりで、一生涯持っていられるものなど、ひとつでもあるだろうか? どうせいつかは壊れ、失われてしまうのだ。
もし例外があるとすれば、それは他ならぬ自分自身である。
自分自身だけは、生まれたときから死ぬ瞬間まで、常に自分とともにあり続ける。一体不可分にして、最高のバディだ。
ならば、自分のしたいことを、信じることだけをやろう。それが、彼の信条だった。それしか、後悔せずに生きる方法はないではないか。なんでも――女もだ。
もっとも、うかつに誘いでもかけようものなら、またさっきみたいにパンチをお見舞いされるんだろうが――
(女といやあ……)
丈昭は、貴音から意識をはがすと、リーチェの去っていったほうを見やった。
(リーチェは、銃を向けられていることに、本当に気がつかなかったのか? そんな甘い女には見えなかったんだが……)
通路を歩き去っていたリーチェは、その頃いったい何をしていたのか。
彼女は、途中で見かけたレアーレをつれて、船長室へ戻っていた。
デスクの椅子をくるりと回転させ、腰をおろす。
レアーレも、置いてあった背もたれ椅子へ逆向きにすわった。
「なんだい、姐さん?」
「今晩じゅうにモナルキア号をでる。いよいよやるよ」
レアーレは気楽に用件を訊ねたのだが、その言葉にぎょっとしてリーチェの顔を見つめた。
「“スクード”の書き替えが終わったのかい?」
「ああ。空間破砕砲用に仕様を変更した。プログラムは完璧さ。あとはインストールするだけ」
リーチェは、口の端を歪めて笑った。
「あの“
「ちょっと待ってくれよ。じゃ、みんなはどうするんだい?」
レアーレは抗議した。いくらなんでも、性急すぎる。
「地球の座標は教えたのかい? だいいち、モナルキア号の修理がまだすんでないぜ!」
「座標は
リーチェは肩をすくめた。
「それに、船の修理状況はあたしも確認した。あとはあのこたちだけでも充分できるよ。実際、この五日間はほとんどあのこたちが主導で修理してたんだろう? 設計図だって読みこなせるんだ、だいじょうぶだよ。ちがうかい?」
「そりゃ……そうだけどさ。で、でも、連中に応援を頼んだら、けっこう手伝ってくれるんじゃ――」
「馬鹿いわないの」
リーチェは、ぴしゃりと跳ねつけた。
「知れたら、そりゃあ駄々をこねるだろうさ。でもこういうことは、人数が少ないほうがいいんだよ。たくさん頭数つれていったら、こいつら何をする気だ、ってすぐに勘ぐられちまうじゃないか。この期に及んで、そんな計画外のことで調子に乗って、つまづきたくはないだろ?」
「……うん」
「決まりだね」
リーチェは、屈託のない笑みを浮かべて立ち上がった。
「さあ、そうと決まったらさっそく準備しな。座標入力のほうはあんたに任せるから」
「あいよ」
レアーレも椅子からおり、船長室をでようとドアへ足を踏みだした。
「あ、レアーレ」
リーチェが何気なく声をかけた。
「なに?」
レアーレがふりむいた瞬間、リーチェの拳が飛んだ! 電光石火の勢いで、まったく無防備だったレアーレの鳩尾に深々とめりこむ。
「姐……!」
その一言がやっとだった。レアーレは身動きひとつできず、リーチェが拳をひきぬくと同時に、くたくたと船長室の床へ崩れ落ちた。
「……レアーレ……」
リーチェはぽつりとつぶやくと、気絶したレアーレの身体を静かに抱き起こした。
両腕でやさしく抱き締め、それからいとおしそうに、寝ぐせ頭を指で梳いてやる。
「ごめんよ、レアーレ」
とても穏やかな、哀しげな瞳をして、リーチェはささやいた。
「でもね、こういうことは人数が少ないほうがいいんだよ。いざってとき、あんたまで巻き添えにするなんてこと、あたしにはできないよ……あのこたちの『世界』へ、つれていってもらいな。髪も瞳も黒いんだ、うまく紛れ込めるさ。……あんたと過ごした五年間、楽しかったよ」
リーチェは、かすかな笑みを浮かべると、レアーレの頬へゆっくりと唇を押しあてた。
「さよなら、レアーレ」
レアーレが気がついたのは、それから三時間もすぎてからだった。
リーチェのベッドに寝かされ、ていねいに夜具をかけられていた彼は、しばらく夢現つを彷徨っていたが、鈍く痛む鳩尾の感触に、すぐにがばっと起き上がった。
「姐さん!」
時計の文字盤を見て、レアーレは絶望的な気分になった。こうならないか、と前から不安に思っていたのだ。リーチェが自分を残して、ひとりで行ってしまうのではないか、と。
レアーレは、まだ痛む腹を押さえながら船長室をでて、ふらふらと歩きだした。
まだリーチェは船内にいるかもしれない。はかない希望ではあったが。
「ひでえよ、姐さん……俺たち、ずっとふたりでやってきたじゃねえか。ひでえよ……」
船内時刻はすでに真夜中をすぎており、レアーレは依然残る痛みに顔をしかめながら、真っ暗な通路を必死になって走った。ブリッジをまわり、船倉をたしかめた。機関室にもいってみた。食堂や厨房、更衣室とシャワー室、ロッカールーム、そして使われていない部屋までかたっぱしから調べた。
リーチェは、どこにもいなかった。
レアーレは、泣きだしそうになりながら、最後に――見たくなかったから、最後にしたのだが――モナルキア号の船首下、貨物艇とドッキングしているはずのデッキをのぞいた。
涙滴型船首を形づくるよう、艇体の前部を外に突きだす形で内蔵された、他の船との貨物連絡に使われる船だ。
ドッキングデッキの窓からのぞいた外には、空洞だけがあった。
ブリッジに、モナルキア号に残る全員が集まっていた。みな眠っていたのだが、レアーレに放送でたたき起こされたのだ。
泣きじゃくり、いうことが要領をえないレアーレを囲みながら、彼らは一様に互いの顔を見あわせた。
「おちつけよ、レアーレ。リーチェさんがアルブクークに行ったのはわかった。それで、なんで彼女が危ないんだ?」
「アルブクークっていったら、私掠軍の親玉の、ベスティアとかいう女が乗ってる船だろ? だったら……」
「ちがうんだよ!」
涙がいっぱいににじんだ顔で、レアーレは叫んだ。
「俺たちはちがうんだ! 俺たちは私掠軍じゃない、もともと私掠軍なんかじゃなかったんだ!」
「……なんだと?」
予期していなかった台詞に、
「私掠軍じゃないって、どういうことなんだレアーレ?」
「姐さんも俺も、最初からあいつらの仲間だったんじゃないんだ……あいつらの仲間になんか、好きこのんでなってたわけじゃねえんだよ!……姐さん、ひとりで“スクード”を使う気なんだ。でも、私掠軍はそんなに甘くねえよ。ひとりで行ったって……」
「レアーレ、“スクード”ってのは結局なんなんだ? あの破片世界は、いったいどういう世界だったんだ?」
丈昭が訊ねた。前から、気になっていたのだ。
「あの世界は……」
レアーレは丈昭の顔を見あげた。
「あの世界は……俺と姐さんの故郷なんだ!」
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